神に聞き従うとは

2024年5月26日主日礼拝「神に聞き従うとは」使徒の働き4:18~31 佐々木俊一牧師 

■生まれつき足の不自由な男の人の足が癒されるのをきっかけに、多くの人々がペテロとヨハネの所に集まって来ました。そこで、ペテロは、イエス・キリストの十字架と復活の説教を始めました。そして、その結果、男だけで5000人もの人がイエスを救い主と信じたのです。この出来事を知ったユダヤの宗教家と指導者たちはペテロとヨハネを捕らえて尋問しました。それに対してペテロは、聖霊に満たされて、堂々と大胆に答えました。ペテロは、この男の人が治ったのは、十字架に架けられ、死んでよみがえったナザレ人イエス・キリストの名によるのだ、ということを彼らにはっきりと話しました。さらに、ナザレ人イエス・キリスト以外には救いはないのだ、と断言したのです。

 それを聞いた宗教家と指導者たちは、ペテロたちによって行われた奇蹟的な出来事があったので、また、そのことで民衆は神をあがめていたので、ペテロの言うことを否定することも罰することもできませんでした。しかし、何とかしてナザレ人イエス・キリストのことが人々の間に広まらないようにするために、彼らは話し合ったのです。結果的に、彼らがしたことは、ペテロとヨハネが今後、誰にもナザレ人イエス・キリストの事を語らないように、くりかえし脅すことだけでした。

■18節~22節 彼らは二人を呼んで、イエスの名によって語ることも、教えることも一切してはならない、と命じました。しかし、ペテロとヨハネは彼らにこう答えました。

「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」

 ペテロとヨハネにとって、イエスの名によって語ることも教えることも神の御心であり、神の御前に正しい事であることは歴然としていました。彼らは3年半、イエス・キリストとともに日々を送り、イエス・キリストから学びと訓練を受け、イエス・キリストの十字架の死と復活を目撃したのです。イエスについて見たことや聞いたこと、また、イエスから聞いたことを人々に伝え広めていくことが彼らの使命であり、神様から受けた命令なのです。それをするな、と言うことは、神の命令に従うな、と言うことと同じことなのです。そんなこともわからずに、偉そうな宗教家や指導者たちは、神にそむくような命令をペテロとヨハネに要求したのです。

 私たちクリスチャンは、たとえば、私たちが属する国の法律や秩序に従うべきですし、従うことが神様の御心であると考えます。けれども、国の法律や秩序が神様の御心に反するような場合、私たちはどうしたらよいのでしょうか。答えは、神に聞き従うよりも、国に聞き従う方が、神の御前に正しいかどうかを判断しなければならない、と言うことです。もちろん、このような時、私たちは神に聞き従う方を選びます。

 たとえば、旧約聖書にこのような話があります。ダニエル書3章です。バビロン帝国のネブカドネツァル王の時代に、ネブカドネツァル王が約26メートルの金の像を作りました。そして、すべての民はその金の像を礼拝しなければならない、という法律を作ったのです。ところが、金の像を拝まない者たちがいる、とカルデア人がネブカドネツァル王に訴えました。それは、バビロン帝国の行政を担当していた3人のユダヤ人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのことでした。三人はネブカドネツァル王の前に呼び出されました。そして、ネブカドネツァル王が怒って、言いました。「もし、金の像を拝まないなら、お前たちは、即刻、火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からお前たちを救い出せるだろうか。」とネブカドネツァル王は豪語しました。そして、三人は答えたのです。ダニエル書3:16~18にあります。

「ネブカドネツァル王よ。このことについて、私たちはお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことが出来ます。王よ。あなたの手からでも救い出します。しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたの建てた金の像を拝むこともしません。」 

 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人には、火の燃える炉に入れられたとしても、真の神様はそこから救い出すことができる、という信仰がありました。でも、たとえ、火の燃える炉に入れられて殺されることになったとしても、真の神以外に礼拝をささげるようなことはしない、と彼らの信仰と決意をはっきりと伝えたのです。その結果、彼らは火の燃える炉の中に入れられました。が、しかし、彼らは神の御手の守りによって、奇跡的に生きてその中から出て来たのです。この話はとても有名な話です。詳しくは、ダニエル書3章をお読みください。ペテロやヨハネと同様に、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴもまた、人に聞き従うよりも、神に聞き従うほうが、神の御前に正しいのだ、という判断をしたわけです。

 私たちはどうでしょうか。神様よりも神様以外の命令に聞き従うでしょうか。それとも、神様に聞き従うでしょうか。私たちは、この世の地位や名誉やお金や楽しみを捨ててまでも、神様の御心に聞き従う方を選ぶことが出来るでしょうか。私たちも、彼らと同じ選択をする者でありたいと願います。

■23節~26節 ペテロとヨハネはくりかえし脅されたけれども、釈放されて仲間の所に戻ることが出来ました。そして、ペテロとヨハネは宗教家や指導者たちが彼らに言ったことをすべて報告しました。これを聞いたクリスチャンたちは、ただただ心を一つにして、神様に向かって声を上げて祈りました。これらの報告によって、彼らが厳しい現実に直面していることを自覚したことと思います。しかし、彼らは、この厳しい現実に心を奪われるのではなくて、このような現実をも支配しておられる神様の現実に目を向けました。神様の現実とは、天と地と海、またそれらの中のすべてのもの、その中には人間も含まれます、そのすべてのものを造られたのが神様なのだと言う現実、圧倒的に力ある全能なる神様に目を向けたのです。その神様から与えられた聖霊によって、神様のしもべであり、自分たちの先祖であるダビデを通して語られた神様のことばが、彼らに思い起こされました。そのことばを思い起こし、そのことばに彼らは注目しました。そのことばとは、詩篇2篇にあることばです。使徒の働き4章このところには、詩篇2:1~2だけが引用されていますが、この2篇全体が、救い主イエス・キリストとその支配について語られていることばです。

 実は、先週の火曜日の祈祷会で、私が聖書の学びを担当しました。その時に用いた箇所が、詩篇2篇でした。ちょうどイランの大統領を含めて8人がヘリコプターの事故で亡くなった、と言うニュースが流れていたときでした。私はそれを聞いて、イスラエルとイラン、そして、その他のイスラム諸国のイスラエルに対する企てやかけひきなどが思い起こされました。現在、世界で起こっている出来事、イスラエルとハマスの戦争やウクライナとロシアの戦争、これらのことを考えると、ちょうど詩篇2篇のことばが浮かんできました。イエス・キリストがこの地上におられた時代も、そして、初代教会の時代も、それから、2000年後の今の時代も、変わらないことは、国々は騒ぎたち、もろもろの国民はむなしいことを企んでいるということです。そして、世界のリーダーたちは共に集まって、神と神の立てた者に対して敵対しようとするのです。しかし、それに対して、天と地と海と、すべてのものを造られた神様は微動だにしません。詩篇2:4~5にはこのように書かれてあります。

「天のみ座に着いておられる方は笑い、主はその者どもを嘲られる。その時主は、怒りをもって彼らに告げ、激しく怒って、彼らを恐れおののかせる。」

 天と地を造られた真の神様は圧倒的に何よりも勝っておられるお方です。だれ一人とし創造主なるお方に勝てる者はいません。真の神様に対しては、ただ降参あるのみなのです。

■27節~28節  ヘロデ王とローマの総督のポンテオ・ピラトはイエス・キリストの処刑の件で関係が急接近し、親密になりました。また、ローマ人たちとイスラエルの民、特に宗教的指導者や政治的指導者たちは、イエス・キリストを捕えるために心合わせて企てを試みました。しかし、それらのことは、神様のご計画によって、前もって起こるように定められていたことであると書かれています。つまり、神様はそれらのことを周知して、すべて神様の支配の中で動いていたことなのです。いかなる妨げがあったとしても、最終的には、すべて神様の御心がなるのだ、ということは確かなことです。

 いかなる現実の中にも、神様の支配があります。たとえ、クリスチャンにとって不利な現実があったとしたとしても、神様がすべてのことを働かせて益にして用いてくださいます。ペテロやヨハネが捕らえられてしまうような出来事が起こったとしても、そのような中にも神様が働いておられて神様が支配しておられるのです。そのような中でクリスチャンたちが行うべきことは、ただ、神様の御心に聞き従うことだけなのです。神様の御心を行うことをとおして、神様が豊かに働いてくださるのです。

■29節~31節 どのような状況の中にも神様の支配があることを確信したクリスチャンたちは、神様にこのように祈ることができました。

「主よ。彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。」

 いかなるクリスチャンへの脅しや妨げがあったとしても、私たちクリスチャンは神様に聞き従って、イエス・キリストの救いを宣べ伝えるのだ、という決意のこもった祈りです。しかし、弱い私たちは、やはり、祈りをとおして神様から励ましと勇気と力と平安を受ける必要があります。ですから、祈らなければ、私たちクリスチャンは神に聞き従うことはできないと言ってよいでしょう。ですから、私たちは、祈るクリスチャンでありたいと思います。

 もう一つの祈りは、「御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒しとしるしと不思議を行わせてください。」

 癒しとしるしと不思議が現わされることによって福音宣教の働きが進んで行くというのは、ペテロの場合もパウロの場合も、また、ほかの使徒たちの場合も同じであったと思います。癒しとしるしと不思議は初代教会における宣教の顕著な特徴と言えるでしょう。しかし、これらのことは、今も続いていてもおかしくはない宣教のやり方です。私たちも同様に、キリストの福音を広めていくために、病のために祈ることはもちろんのこと、いかなることのためにも祈りをもって働きをなす姿勢は大切です。初代教会においては、奇跡や癒しをとおして、神の存在とその権威を人々に示すことができました。それは働きを進めていくために大きな力になっていたことは事実だと思います。神様は今の時代においても変わってはいません。神様は私たちの祈りをとおして豊かに働いてくださるお方です。

 彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動きました。それは、神様の応答です。そして彼らは聖霊に満たされて、神の言葉を大胆に語り出しました。このようにして、さらに宣教の働きは進んで行きました。

■神に聞き従うことは、福音を宣べ伝えること以外にもいろいろあります、と言われるかもしれません。近頃はその傾向が強いと思います。でも、神に聞き従うことは、やはり、何と言っても、第一に福音を宣べ伝えることです。Ⅱテモテ4:2に、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」とあります。今の時代、福音を宣べ伝えることは、本当にやりづらい時代です。特に、日本はやりづらいです。何についても科学的根拠が求められる今の時代に、そんな馬鹿なこと言ったら笑われますよ、と言われそうです。何か軽蔑されそうな空気を感じてしまいます。しかし、時が良くても悪くてもしっかりやりなさい、とあります。これは神様の声です。まず、祈りましょう。初代教会のクリスチャンのように、いかなる妨げがあったとしても、あなたのことばを大胆に語らせてください、と祈り続けましょう。

 また、次に、神に聞き従うとはこういうことだと思います。私たちは、神様にはできないことはない、と信じています。でも、もしも、一生懸命祈っても、その祈りが聞かれない時、私たちの信仰は大丈夫でしょうか。祈っても聞かれなかった。だから、もう神様に祈れないし、従えない、という風になってしまわないでしょうか。

 ダニエル書の3人のユダヤ人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのことを思い出してください。彼らがバビロンの王によって火の燃える炉に入れられて処刑されるとき、彼らは王に何と言いましたか。私たちの神は私たちを火の燃える炉から救い出すことができると信じます。でも、そうでないとしても、私たちは他の神々を礼拝するようなことはしません。真の神様だけを礼拝します、という信仰を表明しました。

 神に聞き従うとは、たとえ、私たちの願うようにはならなくても、それでも、神様を信じ続け、神様に信頼し、神様だけを礼拝します、という態度が、神に聞き従うことです。私たちもそうありたいと思います。それではお祈りします。