イエス・キリストの名によって

2024年4月25日主日礼拝「イエス・キリストの名によって」使徒の働き3:1~10

佐々木俊一牧師

■1節~8節 ペテロとヨハネは神殿の方へ上って行きました。午後3時ころです。この時は夕方の祈りの時間で、彼らは祈りのために神殿に上って行ったのです。すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれてきました。この人は、神殿に入る人たちから施しを受けるために、毎日「美しの門」と呼ばれる神殿の門の前に置いてもらっていました。彼は、ペテロとヨハネが神殿に入ろうとするのを見て施しを求めました。でも、ペテロとヨハネにはお金がありません。ペテロとヨハネはその人を見つめました。そして、ペテロはその人に言ったのです。「私たちを見なさい。」彼は何かもらえると思って期待したでしょう。さらに、ペテロは言いました。「金銀は私にはない。」その人は一瞬がっかりしたと思います。でも、続けてペテロは言いました。「しかし、私にあるものをあげよう。」私にあるものって何だろう、とその人は思ったと思います。たぶん、この人の内に、何か期待感みたいなものが起こって来たのではないでしょうか。

この箇所には、簡単な会話しかありません。でも、実際には、もっと他にも会話がなされていたかもしれません。たとえば、ペテロがその人に向かって、あなたもナザレのイエスを見たことがあるだろう、そのイエスが多くの人々の病をいやし、多くの奇蹟をなしたことを聞いたことがあるだろう。そして、あなたも知っているように、ナザレのイエスは十字架に架けられて死にました。しかし、イエスは神の力によって復活したのです。私たちはその目撃者なのです。このイエスこそが、私たちの待ち望んでいたキリスト、救い主なのだ、とペテロはその人に言ったかもしれません。そして、彼の内には、だんだんと、イエス・キリストへの信仰が強められて行ったのかもしれません。

 そこで、ペテロは言いました。「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」ペテロは、彼の右手を取って立たせました。すると、たちまち、彼の足とくるぶしが強くなって、躍り上がって、歩き出したのです。これは、ペテロが初めて行った奇蹟でした。でも、ペテロだけがこのような奇蹟を行なったのでしょうか。そういうわけではないと思います。実際に、殉教したステパノもそのような働きをしていたことが、使徒の働きに書かれています。きっと、他の使徒や弟子たちも同じような働きをしていたのだと思います。

 このような働きは、聖霊降臨の後、キリストの体である教会をとおして、顕著に現わされた働きなのです。それは、イエス・キリストの十字架と復活が神の御計画によるものであり、イエスが救い主であることを証しするために現わされたことなのです。

 また、この出来事は、イエス様の言われたことばの成就でもありました。と言うのは、ヨハネ14:13~14で、イエス様はこのように言われました。「あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」イエス様は、イエスの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます、と言われました。

 ペテロはイエスの名によって、立ち上がり、歩きなさい、と言いました。この場合、イエスの名によって命じています。しかし、それはまた、ペテロの願いであり、そして、この人の願いでした。使徒の働き3:16に、「イエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、この人を強くし、この人のからだを完全にしたのだ。」とペテロは言っています。人々はこの奇蹟をまるでペテロが自分の力で行なったかのように見ていました。しかし、ペテロは、そうではなくて、イエスの名を信じる信仰のゆえに、イエスの名がそのような奇蹟を起こしたのだ、と言っているのです。ペテロは、この奇蹟の原因は自分ではなくて、イエスにあるのだ、とはっきり言いました。ペテロは、あたかも自分の力でやったかのようにふるまうことをせず、その栄光を自分にではなく、神様に帰したのです。

 それについて、イエス様もはっきり言っています。イエスの名によって求めることは、何でもしてあげるけれども、それは、父が子によって栄光をお受けになるためです、と言っています。奇蹟やいやしがあったとしても、また、祈りが聞かれたとしても、その目的は、父なる神様が子なるキリストによって栄光をお受けになるためです。ですから、イエス・キリストのみ名によって祈った結果、何かかなえられたならば、私たちは、神様がそのようにしてくれたのです、とはっきりと人々の前に証ししなければいけません。これは、とても大切なことです。けっして、自分の力や行ないによるものであるかのようにふるまってはならないのです。その成功が神様に祈った結果であるなら、私たちは、神様を賛美し、神様に感謝すべきです。もし、そうしないのであれば、最初から祈らない方が良いのです。

 たとえば、ある試験のために一生懸命勉強したとします。勉強して準備万端だったとしても、不安や心配が心にやって来ます。そんな時、私たちは祈るのです。それでもまだ、不安や心配があると、自分以外の誰かに祈ってもらう事もあるでしょう。そして、試験に合格するように必死になって神様に願うのです。しばらくして、そのことがかなえられた時に、少なくとも、神様に感謝を表し、できれば、祈ってもらった人にも感謝を表すべきでしょう。自分の力や行ないの結果だと思うなら、最初から、祈ってもらうべきではありません。イエス・キリストのみ名によって祈って受けたものは、すべて神様に栄光を帰し、もっともっと神様のために心を尽くして仕えて行こうと志を新たにする者でありたいと思います。

 イエス様は私たちに、「あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」と語ってくれています。私たちは、イエス・キリストのみ名によって祈ることができるのです。イエス・キリストのみ名を信じているならば、誰でもその祈りをすることができます。そして、私たちの祈りが応えられた時には、神様のみ名がほめたたえられるように、そのことを証ししていきましょう。神様に祈って始めたことは、神様のみ名がほめたたえられるように、また、良き証しとなるように努めて行きたいと思います。

■8節~10節 生まれつき足が不自由だったその人は、完全にいやされたので喜びでいっぱいになりました。そして、賛美しながら、歩いたり、飛び跳ねたりして、ペテロやヨハネと一緒に神殿の中に入って行きました。

 彼は以前、いつも神殿の外側にいました。神殿の外にいて、礼拝のために神殿の中へ入っていく人々から施しを受けて、何とか生き伸びていたのです。旧約時代において、彼のような障害のある人は、神殿の中へ入ることが許されませんでした。ユダヤ人の律法がそのことを許さなかったのです。たとえば、律法にいけにえのシステムがあります。それによると、体に障害のある動物をいけにえとしてささげてはいけませんでした。完全で立派な物でなければいけにえとしてささげてはならなかったのです。それは象徴的に、霊的な完全さ、つまり、まったく罪のないことを意味していました。汚れや罪があっては、何ものも神様に近づくことはできなかったのです。

 しかし、そのような状態から解放してくれたのが、イエス・キリストです。イエス・キリストが私たちのために、罪のいけにえとして完全なささげ物となってくださいました。それにより、イエス・キリストを救い主と信じる者は、誰でも神様に近づくことができるようにされたのです。

 生まれつき足の不自由なこの人は、以前は神殿の中に入っていくことが禁じられていました。しかし、不自由な足をいやされた彼は、神殿の中へと入っていくことができたのです。イエス様を救い主と信じる者は、足が不自由であろうとなかろうと、もはや、そのようなことは関係ありません。誰でも中に入っていくことができるのです。問題なのは霊的な状態です。すべての人間は、罪人です。罪のあるままでは神様のおられる所に近づくことはできません。罪ある状態から自由になるためには、イエス・キリストを信じることが必要なのです。罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じるなら誰もが、神様のおられる天のみ国へ入ることができるのです。

 人々はみな、彼が神殿の中へと神様を賛美しながら歩いて行くのを見ました。彼は、いつも美しの門で施しを求めていた人です。その彼が自分の足で神殿の中を歩いていたのですから、彼の身に起こったことに、ものも言えないほどにみんな驚くはずです。

 パリサイ人や律法学者は、彼に対してとても厳しかったと思います。その人に対する彼らの見方は、両親か先祖の誰かが相当ひどい罪を犯したために、生まれつきあのような体で生まれたのだ、ということです。でも、イエス様だったら、それは神の栄光が現されるためなのだ、と言ったでしょう。

 イエス・キリストの名が、その名を信じる信仰によって、生まれつき足の不自由な人を歩けるようにしました。それは、イエスによって父なる神が栄光をお受けになるためです。それはつまり、神の栄光が現されて、人々がイエスを救い主と信じることです。ですから、私たちは、イエス・キリストの名によって祈りましょう。イエス・キリストの名によって神様に求めるなら、神様がご自身の栄光を現してくださいます。それではお祈りします。