神様への恐れ不足

2024年5月26日主日礼拝「神様への恐れ不足」

使徒の働き4:32~5:11 佐々木俊一牧師 

■使徒の働き2章の終わりに書かれてあることが、4章の終わりにも同じように書かれています。それは、心と思いを一つにして、すべての物を共有していたと言うことです。自分の土地や家を売って現金にし、その代金を持ってきて、必要に応じてそれぞれに分け与えられました。当時、ナザレ人イエス・キリストの信者というだけで、差別や迫害があったと思われます。ですから、仕事をしてお金を得るには難しい状況にあった人々が多くいたことが考えられます。また、ペンテコステの後、遠くから来ていた人々の中から多くの人々がイエス・キリストを信じました。彼らの多くも教会に加わっていたに違いありません。

 また、使徒たちは、主イエスの復活の力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった、とありますから、それは、きっと、使徒たちによって多くのいやしや奇跡が行なわれていたのだと思います。

 初代教会においては、そのような共同生活がしばらく続いて行ったのでしょう。毎日、神殿のソロモンの回廊に集まって心を一つにして神に祈り、神を賛美し、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にしていたのでしょう。そんな彼らに対して周囲の多くの人々は好意的であり、救われる人もますます起こされて行きました。迫害や差別はあったけれども、その中で、イエス・キリストを信じる者も多くいたのです。

 教会外部においては迫害がありました。しかし、教会内部においては信者が共に集まり主にある共同生活へと導かれていました。聖霊によって導かれていた彼らは、不思議としるしの働きをもって福音宣教を前進させて行きました。けれども、そんなある日、一つの事件が起こりました。その出来事を、今日は見て行きたいと思います。

■4:36~37 共同生活をしているクリスチャンの仲間に、使徒たちからバルナバ(慰めの子)と呼ばれているヨセフと言う人がいました。彼はキプロス生まれのレビ人でした。レビ人ですから、神殿で行なわれる礼拝や行事を担う家系の人です。彼は後に、パウロと一緒に行動を共にすることになります。アンテオケの教会にパウロを紹介し、また、パウロと共に伝道旅行に行った、あのバルナバです。そして、彼は、マルコの福音書を書いたマルコの従兄に当たる人です。彼は比較的お金のある人であったようです。所有していた畑を売って、その代金を使徒たちに渡しました。そして、そのお金も必要に応じてそれぞれに分け与えられたのでしょう。彼のささげた献金は、特に問題ありませんでしたが、続く5章に書かれているアナニヤとサッピラ夫妻がささげた献金には、何か問題があったようです。

■5:1~4 アナニヤとサッピラ夫妻も自分たちの土地を売って、その代金を使徒たちの所に持って来ました。しかし、バルナバの場合と少し違う点がありました。それは、バルナバの場合は土地を売った代金のすべてをささげたようですが、アナニヤとサッピラ夫妻は、一部を自分たちが使うために取って置いて、残りをささげたのです。ささげるときに、使徒たちの足元に置いた、とありますが、足元に置くことに何か意味があるのかもしれません。調べてみましたがわかりませんでした。もしかしたら、足元に置くと言うことが、自分が持っているすべてをささげることを意味したのかもしれません。みなさんはどう考えますか。

 けれども、ペテロの話によるならば、ささげたものがすべてではなく一部であったとしても、そのこと自体が問題だったわけではないようです。ペテロはこの事についてこのように言っています。「売らないでおけば、あなたの物であり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。」とあります。ですから、売った後にその一部を自分たちのために残しておいても問題はなかったはずです。売った土地の代金からどれだけ献金するかは、彼らの自由であったのです。ペテロはアナニヤにこのようにも言っています。「なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の一部を自分のために取っておいたのか。」

 このところを読むと、問題なのは、サタンに心を奪われて聖霊を欺いた、と言うことです。地所の一部を自分のために取っておくことが問題なのではなくて、サタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の一部を自分のために取っておいたことが問題視されているのです。なぜ、彼らが自分たちのために献金の一部を取っておいたのかは、はっきりと示されていません。その理由はわかりませんが、彼らがサタンに心を奪われて聖霊を欺いたことは確かなようです。アナニヤとサッピラはこの献金によって明らかに何かを企んでいたわけです。その企みが具体的にどういうものであったのかはわかりません。それぞれが想像力を働かせて推理するか、聖霊に尋ねるか、あるいは、天に行った時に直接聞くしかないと思います。

■5:5~6 そうして、次に、大変なことが起こりました。アナニヤがペテロのことばを聞くと、倒れて息が絶えてしまったのです。つまり、死んでしまったのです。もしも、このようなことが現代の教会で起こったとしたらどうなるでしょうか。それは大問題です。社会的責任を問われることになるかもしれません。しかし、今から約2000年前、初代教会において実際にこのようなことが起こりました。ペテロはアナニヤに直接的に手を下したわけではありません。ただ、アナニヤの隠していた企みを明らかにし、その行為は人ではなく神を欺いたのだ、と告げただけなのです。

 旧約聖書を見るならば、このような神の裁きは新約聖書よりもずっと多いことがわかります。旧約時代の方が罪に対して非常に厳しかったと言えるでしょう。しかし、新約聖書でも旧約聖書ほど目立つことではありませんが、結構見つけることが出来るのです。

 新約聖書にしても、旧約聖書にしても、聖書は、良いと思われる事も悪いと思われることもありのままを書いていると言ってよいでしょう。こんなことを書いたら絶対に人はつまずくし、クリスチャンになろうなんて思わない、と思われるようなこともたくさん書かれています。聖書は、人に良い印象を持ってもらうために事実を曲げて書こうなんて言う意図がまったく見られません。初代教会で起こった事には、良い事もあれば悪いこともあります。事実を隠さずにありのままが書かれているのです。また、イスラエルの民に起こった出来事についても、良い事もあれば悪いこともあります。かえって、悪い事の方が多いかもしれません。

 そして、これを聞いた人たちに大きな恐れが生じた、とあります。この恐れとは、恐怖と言う意味の恐れではありません。畏敬の念です。神様は全知全能なるお方です。神様は私たちの思いをはるかに超えて、偉大なお方です。そのようなお方であることをしっかりと理解しているならば、人は自分を低くして、神様を敬う態度をとるでしょう。

 その後、教会の若者たちは立ち上がって彼の体を包み、運び出して葬った、とあります。今の時代では考えられないことです。同じような対応をしたら大変なことになります。昔だからできたことであり、そのような時代もあったわけです。

■7節~11節 そして、今度は、アナニヤの妻、サッピラが教会にやって来ました。サッピラは、夫のアナニヤに起こったことをまだ知りませんでした。ペテロは彼女にこう切り出しました。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。わたしに言いなさい。」それに対して、サッピラは「はい、その値段です。」と答えました。彼女の答えは明らかに嘘でした。そこでペテロは彼女に言いました。「なぜあなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか。見なさい。あなたの夫を葬った人たちの足が戸口まで来ている。彼らがあなたを運び出すことになる。」

 すると、サッピラは即座にペテロの足もとに倒れて、息絶えてしまいました。そして、入って来た若者たちは、彼女が死んでいるのを見て運び出し、夫のアナニヤのそばに葬った、ということなのです。

 今の時代では考えられない対応ではありますが、およそ2000年前の初代教会において起きた出来事なのです。ペテロはサッピラに、「なぜあなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか」と問いただしました。アナニヤとサッピラは心を合わせて何かを企んだのです。その企みは、結果的に神様を試すようなことであったのだと思います。それは、けっして、神様を信頼するような思いからではなくて、その反対です。神様への不信仰のゆえの行動であって、神様を試すような行為へと誘惑されてしまったのです。

 そして、11節に、教会全体とこのことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた、とあります。大きな恐れとは、先ほども言ったように、恐怖を意味するのではなくて、神様への畏敬の念、神様を敬う態度です。

■このように、アナニヤとサッピラ夫妻は、献金と言う行為をとおして心合わせて何かを企んだようです。具体的なことは書かれてありません。しかし、それは結果的に神の裁きを招くことになってしまいました。その行為は、人を欺いて済むようなことではなくて、神を欺く、神を騙す、神を試みる、そのような行為であったのです。

 話は少しもっと過去に遡りますが、イエス・キリストの上に聖霊が鳩のように降られて後、イエス・キリストは悪魔によって試みを受けました。その試みを受けるために、イエス・キリストは荒野へと導かれたことが、マタイの福音書4章に書かれています。悪魔は三度イエス・キリストを誘惑しましたが、イエス・キリストはすべての誘惑を退けました。これは実際にあったことですが、それはまた、何かを象徴していることでもあると思います。イエス・キリストの上に聖霊が降られて後、イエス・キリストの本来の働き、公生涯が始まりました。それまでは、大工の息子として目立つこともなく、ただ忠実に働いていました。しかし、聖霊が降られた後、働きの局面は変わったのです。神の計画が急に大きく動き始めました。悪魔はそれを知っていました。ですから、悪魔はイエス・キリストを誘惑して、その働きを妨げようとしたのです。

 初代教会も同じです。彼らの上に聖霊が降られました。彼らは聖霊を受けたのです。それ以来、働きの局面が変わりました。そして、悪魔の妨げも次元も変わったのです。悪魔は、教会の働きとその使命を妨げようとしました。そのために、悪魔は信者に働きかけて、その福音宣教の働きを妨げようとしました。この時、イエス・キリストを信じる者がたくさん起こされて教会が大きくなっていたのです。さらに、信じる者が起こされ、教会はもっと大きくなろうとしていました。人々は自発的に所有物を売って助け合いました。強制されて自分たちの所有物を売ったのではありません。自発的にです。それぞれが聖霊に導かれての行動だったのでしょう。そして、癒しや奇跡もたくさん起こりました。これから、もっともっと神様の素晴らしいみわざが起こって行く兆しがありました。そんな時に教会内部で起こったことが、アナニヤとサッピラの事件です。アナニヤとサッピラの事件のようなことは、本当は起こってほしくないことです。しかし、このことが起こった結果、人々に神様への恐れが生じました。神様って恐ろしい、と言うことではありません。神様への畏敬の念、神様を敬う思いと態度を、さらに人々が持つようになったのです。

■私たちは、この全宇宙を造られた創造主なる神様が愛のお方であることを知っています。神様は厳しい面もありますが、基本的にやさしいお方です。けっして、恐ろしくて近づきがたいお方ではありません。神様は愛のお方であるという理解は間違いではありません。けれども、神様は、何でもかんでも受け入れてくれるやさしいお方であるというのは、少し違うと思います。もしかすると、私たちの神様へのイメージがあまりにもやさしすぎて、私たちは神様に対して軽々しい態度をとっているかもしれません。神様は、私たちが思う以上に偉大なお方です。そのようなお方が私たちのことを子としてくださり、神様のことを天のお父様と呼べるようにしてくださったことは、本当に感謝なことだと思います。私たちクリスチャンにとって神様は父なるお方ではあることは確かなのですが、でも、全能なる神様ですから、私たちは神様に対して、畏敬の思い、正しい意味での恐れを持たなければならないと思います。神様は愛のお方であり、私たちの天のお父様です。その事は間違いありません。でも、私たちは、同時に、神様への恐れを忘れてはなりません。今の時代は、神様への恐れ不足が広がっている、そんな時代かもしれません。ですから、なおさら、神様への恐れを持つことが必要なのです。

 神様を敬う態度が不足してくると、アナニヤやサッピラのように、神様を欺くような行為へと容易に誘惑されてしまうように思うのです。神様への恐れをもって、身を慎むことの必要な時代に私たちは生きています。私たちは人を恐れる必要はありませんが、神様を恐れることは必要です。神様を恐れる人は、かえって、人を恐れなくなります。神様への恐れ不足の時代にあって、私たちは正しい意味で神様を恐れる者として生きて行きたいと思います。それではお祈りします。