二人の良い忠実なしもべ

2024年4月21日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

マタイの福音書 25章14~30節

二人の良い忠実なしもべ

 

   ここ、オープンドアにいらっしゃる方とオンラインで参加されている方と共 に、私たちはメッセージシリーズ「イエスが賞賛する人々」の終わりに近づいてい ます。先月のことを覚えているかもしれませんが、イエスが十字架に向かう直前 に、ご自分が死に、よみがえり、そして天に戻られた後の生活に備えるようにと、 イエスは弟子たちに教えられました。イエスは具体的な日付を述べていませんが、 いつか戻ってくると述べ、それが起こるまでには長い間待たなければならないかも しれないことを示唆しています。イエスは彼らが準備を整え、再臨を期待する生き 方を望んでいたのです。彼らがこれに備えることができるように、3つの短い物 語、たとえ話を与えました。最初は婚礼の祝宴の始まりを待つ十人の娘(先月のメ ッセージ)で、これからの人生に向けた準備の時期に焦点を当てました。二つめ (今日のメッセージ)は、キリスト者が実際にこの人生をどのように生きるかに私 たちの注意を向けます。

   

   二つ目でも、再度イエスは2種類の人々、神の栄光と他者のためにさまざま な方法で生きる人々と、そうでない人々の鮮明な対比を示しています。この物語の 主人はキリスト、或いは神を、しもべはさまざまなタイプの人々を象徴しています。 彼らは重要な点で互いに異なりますが、皆同じようにしもべです。彼らが持ってい るのは主人のお金であり、自分のお金ではありません。彼らはとても大きな自由を 与えられて、主人が彼らの上に立ってすべての行動を監視し、正しいことを要求し ないような生活をできます。彼らは日々選択する自由を持っていますが、長い間発 表されないある日に、彼ら全員が自分の決定について説明を求められます。誰も自 分が受けた以上の責任を問われることはありません。しかし、それぞれは自分が持 っているものについて説明することが求められます。

 

   イエスは私たちの⽣活を説明しています。私たちは皆、⾃分の管理下にある ⼤きな価値のあるものを持っています。物語の中で、最も貧しいしもべでも1タラ ントを持っています。私たちはこの「タラント(talent)」と⾔う⾔葉を私たちの⾔語 に取り⼊れましたが、⽇本では優れた能⼒を持つ⼈を意味しています。(タレント) は英語でも時々そのような使い⽅をする事もありますが、優れた能⼒そのものにつ いて話す事の⽅が恐らく多いでしょう。例えば"She is a very talented singer."(彼⼥ はとても才能のある歌⼿だ)というように。ですが、聖書の時代においてタラント は何かを測る単位で、例えば⾦や銀を測るのに⽤いられました。1そしてドナルド・ カーソン博⼠によると、銀1タラントですら平均的な⼈の20年分の賃⾦に相当しま した。⾦は更にもっと価値がありました。ですから、たとえ話の中のすべてのしも べは、驚くべき量の財産を管理しています。もしあなたの頭に「私には何もありま せん。私には何の価値もありません」とばかげた考えがあれば、それがあなたを最 2 も完全に理解しているキリストに従うならば、それがどれほど愚かなでことである かを覚えておいてください。

 

   しかし、繰り返しになりますが、私たちは全員が管理者であり、執事であっ て所有者ではありません。神は私たちに、私たち⾃⾝のものではない財産を扱い、 使⽤する責任を与えられました。それらは⼀時的に我々に託されたものなのです。 私たちは⽣まれることや外⾒、健康、性格などを決めるわけではありません。それ らは贈り物です。私たちはそれらを好きであろうとなかろうと、快適であろうとな かろうと、それらは私たちの主によって与えられたものです。ですから、私たちは 神の承認を念頭に置いて⽣きるべきです。最近では、⾃分の性別や性に対する嫌悪 感を強く抱える⼈々について、より多くの話を聞くようになりました。

 

   主⼈は、それぞれのしもべがどれだけの責任を持てるかを選ぶ際に⾃分⾃⾝ が何をしているかを知っています。彼は全てのしもべに同じ数のタラントを与えて いるわけではなく、各⾃の能⼒に応じて適切な量を与えているのです。⾃分の体 を、⾃分たちが内⾯だと信じているトランスジェンダーの⼈間と⼀致させるため に、外⾒を変えるために薬物治療や⼿術を受ける⼈が増えています。しかし、これ らの変化を何年も経験した後でも、多くの⼈が依然として⾃分の⽣活に⾮常に満⾜ していないと報告しています。

 

   聖書の神は、神の⽬において誰もが間違いではないと教えてくれます。神は 誰にも間違った体を与えることはありません。もし神があなたに男性または⼥性の 体を与えることを選んだのであれば、それは神があなたのために持っている素晴ら しい計画の重要な部分でした。おそらくほとんどの⼈が⾃分の体にどこかで違和感 を感じるものです。特に思春期の変化が激しく苦しい時期です。⼀部の⼈にとっ て、⾃分が間違った体に⽣まれたという感覚はより深く、強く、⻑期間続くもので す。私たちはこれに悩んでいる⼈々を真剣に受け⽌めなくてはなりません。私たち の神は、私たちが同じ状況にあった場合に⼈々が私たちをどのように接してほしい かと同じように、理解と尊重をもって彼らを接することを期待しています。

 

   しかし、私たちは⾃分⾃⾝を創造したり再創造しようとしたりするのではな く、神が私たちを造ってくださったありのままの⾃分を受け⼊れることで、最⼤か つ最も永続的な平安を⾒いだします。神はありのままのあなたを愛しています。神 は今この瞬間以上にあなたを愛することはありません。それは、あなたがLGBTQ であろうと、異性愛者(straight)(2「シスジェンダー(cis-gender)」とも呼ばれる) であろうと、何であろうと真実です。どれだけ良いことをしたとしても、悪いこと をしたとしても、それは真実です。繰り返しますが、神があなたをどのように造ら れたかは、あなたに対する神の良い計画の⼀部です。たとえ最近の⽂化的傾向がそ うでないと伝えていたとしても、結局は、私たちの⼈⽣に対する主のデザインと計 画に逆らうことは、結果的には平穏さや安定性、精神的な健康を損なうものです。

   

   最近ここで述べたように、このような⼈間観は「表現的個⼈主義」が最⾼の 善であるという考え⽅とは基本的なレベルで異なります。私たちは⾃分⾃⾝のもの ではなく、私たちを作り続け、私たちの⼈⽣を⽀え、導いてくださる神のもので す。私たちは神のしもべです。もしこれが真実であるならば、私⾃⾝や私の状況に ついて私が何を感じるかは、私がどう⾏動すべきかの最終的な理由ではありませ ん。例えば,夫は神が導いてくださった結婚関係を諦めたいと感じるかもしれませ んが,それは正しい選択ではありません。そのような関係にある妻は、その⼈やあ の⼈に魅⼒を感じるかもしれませんが、妻と夫が別の⼈と献⾝的な関係にある場 合、本当の⾃由は、約束を放棄し、感情に流され、他の⼈を追いかけることにはあ りません。

 

   ローラペニースマルッ(Laura Perry Smalts)の物語は私たちにキリストのしも べであることの中に⾒出される⾃由ぬついて教えてくれます。彼⼥は⽣物学的には ⼥性として⽣まれましたが、幼い頃から⾃分が⼥の⼦であることに⾮常に嫌悪感を 抱き始めました。彼⼥は⽣まれたときに⼥性の性別を割り当てられていたという ⼈々の声が聞こえるかもしれません。聖書に基づいた観点から⾒ると、神は受胎時 に彼⼥に⼥性の性別を割り当てたと⾔えるでしょう。彼⼥は、⺟親が⾃分よりも兄 を愛していると感じて育ったと⾔います。また、彼⼥は8歳のときに少年から性的 虐待を受けました。こうした影響やその他の影響を受けて、彼⼥は⼥性であるとい うことは弱く、重要でなく、愛されていないことを意味すると感じるようになりま した。彼⼥は⼥の⼦であることがとても苦痛になり、変わりたいと思いました。25 歳のとき、わずか数時間医師の診察を受けた後、彼⼥は男性への移⾏のためホルモ ン剤の投与を開始した。その後、彼⼥は⼥性の⽣殖器を摘出して、男性の名前を名 乗り、男性になるためにできる限りのことをしました。彼⼥は⼀歩を踏み出すたび に、深い⼼理的苦痛から⼀時的に解放されたように感じましたが、それは⻑くは続 きませんでした。やがて彼⼥は⾃分がやっていたことが偽物であることに気づきま した。彼⼥は決して本当の男にはなれない。それが明らかになったとき、⼼の痛み はこれまで以上に悪化しました。

 

   それが、彼⼥は神に⽴ち返り始めた時でした。彼⼥の両親はクリスチャンで あり、彼⼥のために祈り続けることを決してやめませんでした。たとえば、⾃分が つけた男性の名前(ジェイク)と呼ばなかったことなどで、両親にとても怒ってい たときでも、両親が彼⼥を愛していることを彼⼥は常に知っていました。彼⼥の⺟ 親は、ローラのために祈り続ける聖書研究グループに所属していました。彼らが彼 ⼥に書いた⼿紙やその他の⽅法を通じて、ローラは愛の癒しの⼒を感じるようにな りました。彼⼥のコミュニティの⼈々は、彼⼥の⾏動の⼀部に賛成しませんでした が、彼らは⼈として彼⼥のために最善を尽くしたいと思っており、⼼から彼⼥を気 にかけていることを彼⼥は知っていました。

 

   彼⼥は神に⼼を開き、特に聖書の教えを学ぶことで、内なる痛みから解放さ れ始めました。未熟なクリスチャンからより成熟したクリスチャンへと成⻑した彼 ⼥の⺟親の個⼈的な成⻑は、ローラを⼤いに助けました。2⼈の関係は、はるかに 健全なものになりました。最終的に、ローラは⼥性としてのアイデンティティを取 り戻し、男性と結婚し、現在は継⼦を⼀緒に育てています。彼⼥はまた、脱トラン スジェンダー者としての彼⼥の物語を語る3Transgender to Transformedという本 も執筆しました。彼⼥の⼈⽣は、私たちの⼈⽣を神のしもべとして神の⽀配下に置 くことによって⾒出される、逆説的ではあるが真の⾃由の⼀例です。

 

   イエスの物語では、最初の⼆⼈の僕たちは⾃分たちの資源をうまく活⽤して います。彼らは主⼈のお⾦を使って、それでさらに利益を上げています。私たちは この物語の中に資本主義の⼀例を⾒て、特に資本主義国出⾝者としては好感を持て るかもしれません。聖書はここで資本主義に明確に反対することを教えていませ ん。賢明な投資は、神からの賜物を責任を持って使⽤し、その過程で得たものを他 の⼈と分かち合うことで、神に敬意を払う⽅法となり得ます。しかし、実際のとこ ろ、イエスの物語の要点はそこではないようです。そして、最近、佐々⽊牧師が使 徒の働き第2章に関するメッセージで指摘したように、初期のクリスチャンは⾃分 たちの所有物を別々に持つのではなく、共有して保持していました。それはむしろ 社会主義または共産主義のように聞こえますが、この話では⽣産⼿段の管理を政府 に与えたとは書かれていません。その違いが重要ですね。⼈々はこの取り決めに参 加することを⾃由に選択し、希望すれば参加をやめることもできたようです。

 

   書の中で、ある形態の経済や政治システムが他の形態よりも優れているとい う明確な教えを⾒つけるのは困難です。私たちが⼈々を尊重し協⼒することを怠 り、利⼰的に⾏動し始めると、⼈間の罪は経済的または政治的取り決めを台無しに する可能性があるということは、教えの中で⾮常に明確です。そして神は、私たち に対する神の理想的な計画からは程遠い社会システムの中で、またそれを通じて働 くことが完全に可能です。彼は⼈間の外側(社会の権⼒構造)よりも内側(私たち の⼼と思い)にずっと関⼼があるようです。

 

   最初の2⼈からと同様に、3⼈⽬のしもべからも多くのことを学ぶことがで きますが、お⾦を地⾯に隠す⼈の場合、私たちは彼の間違いから学ぶことになりま す。彼が⼿にした機会をどのように扱ったかを読むと、有名な創世記3章のアダム とイブが神に背き、禁断の果実を⾷べることを選んだ後のことを思わずにはいられ ません。8節に、「そよ⾵の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる⾳を 聞いた。それで⼈とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の⽊の間に⾝を隠し た。」と書かれています。神から隠れている。

 

   何年も後に、イエスはマタイの福⾳書 5章15節で似たようなことを話され ました。「また、明かりをともして升4の下に置いたりはしません。燭台の上に置き ます。そうすれば、家にいるすべての⼈を照らします。」

 

   そもそもなぜ⼈々は、私たちに命を与えてくださった⽅から隠れたり、私た ちの光を升の下に置いたり、私たちの宝を地⾯に隠したりするのでしょうか?

 

   信仰のない⼈⽣の特徴は、隠れていることです。秘密。こっそり話す。これ らのことは、私たちが公然と正直に⾏動しないことを選択した場合、後になって有 害で破壊的な形で物事が⽩⽇の下にさらされることがよくあります。しかし、私た ちは物事を⼈⽬につかないようにしたいと考えています。私たちは、⼈を公然と批 判することを避けるなど、時には⾃分⾃⾝を褒めることさえあるかもしれません。 しかし、物事を隠し続けることは遅かれ早かれ⼤きな代償を伴うことになります。 ⼀⽅で、事実とありのままに向き合う能⼒、⾃分⾃⾝や⾃分の⼈⽣について、直視 したくないことを認める能⼒…これらはより健康な⽣活、信仰⽣活のしるしです。

 

   繰り返しますが、なぜ私たちは神から隠れる⽅法を⾒つけるために⼈⽣を費 やすのでしょうか?それについては後で詳しく説明します。しかし、これらの疑問 を⼼の中に留めておきましょう。

 

   イエスは19節で続けて「さて、かなり時がたってから、しもべたちの主⼈が 帰って来て彼らと清算をした。」と⾔っています。最初の2⼈は⾃分たちの賜物を積 極的に活⽤していました。彼らは⽿にしたいと切望していた⾔葉を聞きました(21 節b)」:「よくやった。良い忠実なしもべだ。」彼は両⽅のしもべに対してまったく 同じ⾔葉を使って称賛します。10タラントを稼いだ者は4タラントを稼いだ者にま して称賛されません。神は常に私たちを誰かと⽐較したり、その⼈の実績に対して 私たちを評価したりしているわけではありません。神は私たち⼀⼈⼀⼈を理解し、 神が私たち⼀⼈⼀⼈に何ができるようにし、なれるようにしてくれたのかという観 点から私たちを⾒てくださいます。神が私たちを他⼈と⽐較することを⼼配してい ないのであれば、私たちが神からヒントを得て、⽐較せずに⾃分⾃⾝と他⼈を⾒つ めるのは理にかなっているのではないでしょうか。

 

   また、主⼈は「よくやった、良い成功したしもべだ。」とは⾔いません。ま た、「…良い勤勉な、または賢い、または⼈脈の豊かなしもべだ。」とも⾔いませ ん。「よくやった。良い忠実なしもべだ。」。です。私が知っているあるキリスト教団 体は、創設者が⾃分たちに設定し、⽬に⾒えるように、⼼に留めておくように明確 にした⽬標をあちこちに書いています。「成功ではなく忠実であること」。私たちが 毎⽇を過ごす中でそれを⾃分⾃⾝の習慣にできたら、私たちの主は喜んでくださる のではないでしょうか?「成功ではなく忠実さ。」

 

   そう、それが主⼈がしもべたちを称賛する理由です。21節と23節で、「おま えはわずかな物に忠実だった」と彼は述べています。わずかな物。ですから、私た ちが⾃分⾃⾝を⾮常に優れた才能の持ち主だと考えるか、この⼈⽣であまり印象的 ではないと考えるかにかかわらず、神の視点から⾒れば、最も優れた⼈々でさえも 「わずかな物」しか持っていないのです。私の20年間の賃⾦を2、4、5、または 10 倍すると、かなりの額に聞こえるかもしれません。しかし、主⼈(神の⼦である イエス)はまったく同じ⾔葉を使って、これらの⾦額を説明すします。神にとっ て、それらはすべて「わずかな物」です。重要なのは、次の⼈⽣ははるかに素晴ら しいので、私たちがこの世で経験することとは⽐べものにならない、ということの ようです。これを考慮すると、私たちが⾃分⾃⾝や優れた才能を持つ他の⼈々を過 度に⾼く評価したり、少ない才能を持つ⼈々を⾒下したりすることは全く意味があ りません。結局のところ、私たちはお互いとあまり変わりません。ある⼈が⾔った ように、神との関係はアルバート・アインシュタインが歩道に這っているアリに対 する関係に⾮常に似ています。アリにとって、どのアリが少し⼤きくて、少し⼩さ くて、それなりに重要に思えるかもしれませんが、それは本当に狭い視点です。私 たちは⽬を上げ、神の栄光を⾒据えて⽣きることの⽅がずっと理にかなっています。

 

   良い忠実なしもべたちは、感動的な⾔葉を聞き続けます(21節と23節)。 「主⼈の喜びをともに喜んでくれ。」新ジェイムズ王訳では、「あなたの主の喜びに ⼊りなさい(“Enter into the joy of your lord.”)」とあります。喜びは主⼈のもので す。喜びは主のものです。私たちの最⼤の幸福は、私たち⾃⾝や状況、神ご⾃⾝以 外の何ものからもたらされるものではありません。繰り返しますが、⾃分が本当に 好きなことを⾒つけてそれをすることではありません。私たちの最も深い幸福と喜 びは、⽣ける神である私たちの天の⽗との愛と信頼の関係の中で可能になります。 そこで探してみましょう。

 

   神は神の助けがあれば、私たちに可能であると信じています。ですから、イ エスの物語に私たちは⼤いなる希望を⾒出すことができます。しかし、私たちのよ うな⼈間はたった1タラントしか持たないしもべのようになる可能性もあります。 結局、彼は「外」に投げ出されます…「暗闇に」(30節)。それは地獄ですね。

 

   彼はどうしてこうも間違えてしまったのでしょうか?彼の問題は、神に対す る基本的な誤解から⽣じているようです。彼は主⼈に報告します(24節b)、「あな た様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、 厳しい⽅だと分かっていました。」種を蒔いていないところで収穫する主⼈は泥棒で すよね。このしもべは、主⼈(神)を犯罪者と⾮難しているようです。おそらく彼 は主⼈を喜ばせることは不可能で、彼に仕えることは時間の無駄だと考えているの でしょう。そのため、その1タラントでお⾦を増やすために働く代わりに、彼は⾃ 分の機会を無駄にし、⼈⽣を無駄にしていました。

 

   彼がどうして主⼈に対してそんなに否定的な⾒⽅を持つようになったのか不 思議です。私たちの中には、満⾜することが不可能なように思える両親や上司、他 の⼈々がいるかもしれません。私たちは彼らのために働くことや、彼らが望むよう な⼈になることに抵抗するかもしれません。なぜなら、私たちは彼らをそう⾒てい るからです。さらに、私たちが私たちの天の⽗を、地上の⽗や⺟、上司、または他 の権威のある⼈物と同じように誤解することもあります。もし私たちがそう誤解す るなら、問題が起こります。

 

   しもべは⾃分が⾃分の才能を最⼤限に活⽤しなかった本当の理由を告⽩しま す。彼は25節で⾔います。「…私は怖くなり」そこにあります。信頼されるしもべと ではなく、奴隷の精神です。再び、創世記3章9b-10節でアダムとイヴの物語に戻 ります。⼆⼈が神から⾝を隠している場⾯で、こう書かれています。『しかし、主な る神は⼈に呼びかけました。「神である主は、⼈に呼びかけ、彼に⾔われた。「あな たはどこにいるのか。」

 

   「私は、あなたの⾜⾳を園の中で聞いたので、⾃分が裸であるのを恐れて、 ⾝を隠しています。」』

 

   神を恐れる。それは私たちをいつ説明するのでしょうか?私たちはいつ,天 の⽗の善良さと愛を信頼できず,恐れに基づいて⼈⽣の重要な決断を下すことにな るでしょうか。あなたの⼈⽣のどこで恐怖があなたを制限し、閉じ込め、恐怖の中 で過ごしていなければ⽣きていたであろう活動的で前向きで前向きな⼈⽣を阻んで いるのでしょうか?肯定的な側⾯では、信仰によって踏みだして、その⼈⽣が全知 で全愛の神の⼿の中にあることを知っている⼈のように⾏動し始めると、今どうな ると思いますか?

 

   どういうわけか、このしもべは神の愛を理解していないようです。だからこ そ、お⾦を取って埋めることが彼にとって最も賢明なことのように思えるのです。 もし彼が神の愛の中⼼にある慈悲を理解していたなら、主⼈のお⾦を投資すること を恐れる必要はありませんでした。たとえ彼がビジネスに失敗してお⾦を失ったと しても、主⼈がそれに対して怒ったり罰したりする理由はありません。しかし、し もべは試す前に諦め、⾃分⾃⾝の経験が主⼈の真の姿を彼に⽰すことを許してしま うことで、⾃ら敗北してしまいます。あなたが神の救いの愛を受け⼊れることを諦 めてしまったら、救ってくれるものは何も残されていません。それがこの男と、彼 の道をたどるすべての⼈々を神からも⼈⽣からも隔てる痛ましい現実です。

 

   今⽇も、聖書の物語に取り組む中でよく⾏うように、イエスのたとえの中で ⾃分はどこにいるのか?と、⾃問しなければなりません。私は⾃分の⼈⽣を、いつ か⼈⽣の旅の終わりに神が「よくやった、よい忠実なしもべ」私に⾔うことを期待 8 できるような⽣き⽅をしているのだろうか?それとも私の才能を地中に埋めている のでしょうか?私は⼈⽣を、短絡的な⽅法では安全に思えても、実際には、それは 可能だった安全よりかなり少ない道を送っているのではないでしょうか?幸いなこ とに、イエスの物語は、私たちがそれらを読み終えた時に終わるわけではありませ ん。実際には、私たちが毎⽇の⼈⽣をどのように⽣きるかで(少なくとも⼀章)、私 たち⾃⾝が物語を終わらせます。最終的に、私たちが神や他の⼈々との関係で選ぶ 選択肢は、私たちが物語のどこにいるのかを⽰します。主⼈に称賛され、主⼈の臨 在の中にある喜びに⼼からの歓迎を受けた2⼈のよい忠実なしもべに似たものにな れるよう、神に助けを求めましょう。

 

   愛する⽗よ、私たちがこの世での⼈⽣がどれくらい続くのかは誰も知りませ んが、あなたは偉⼤な愛によって私たち全員にご⾃⾝の栄光と私たちの益のための 賜物を与えてくださったことを私たちは知っています。私たちが信仰の次の⼀歩を 踏み出し、その次の⼀歩、そしてその次の⼀歩へとどのように踏み出すかを知る知 恵と意志を持てるように助けてください。そうする事で、私たちは私たちの賜物を あなたに喜びをもたらす⽅法で活⽤できます。私たちを恐怖から解放して、⼀⼈ひ とりが独⾃の⽅法で積極的かつ愛に満ちた⽇々を⽣きるための助けをください。い つかあなたの御座の前であなたにお会いする時、あなたが「よくやった!」と迎え ⼊れてくださるように。これが私たちの祈りです。イエスの御名によって。アーメ ン。

 

参照 Carson, D. A. (2012). The Parable of the Bag of Gold. The Gospel Coalition. Michigan Regional Conference. https://youtu.be/bUwLS-MffcU?si=eE2lzPWvsmX5Skvd Smalts, L. P. (2024). Focus on the Family. God’s Amazing Grace in a Transgendered Person’s Life. Part 1 https://youtu.be/X7umory5YtE?si=xIEfSEKHDFPYztwo Part 2 https://youtu.be/Blx7bl0yeK4?si=aB1TqxorW85QfenB 9 訳註 1. タラントは新訳時代には以下の二つの異なる度量衡で使われました。なお、1 デナリは当時の労務者の一日分の賃金に相当します