聖なる者として生きる

2024年4月14日主日礼拝「聖なる者として生きる」Ⅰペテロ1:13~21佐々木俊一牧師

■Ⅰペテロ1:13から21を読んでどのような印象を持たれたでしょうか。「あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。」とか、「この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。」と聞くと、クリスチャンはこのように聖く慎ましく生きなければ救われないのだろうか、これはかなり厳しすぎて、私にはできない、と思ってしまうかもしれません。私たちはキリストの救いを聞いて、各自が福音を理解して信じました。もしかすると、私たちの間には、キリストの福音についてその理解が多少違うかもしれません。その違いを、できるかぎり、明らかにしながら今日の聖書箇所を見ていきたいと思います。

 一つ福音理解は、クリスチャンは、聖い生き方をしなければ救われないのだ、という理解です。もしもそうだとしたら、誰も救われる者はいないでしょう。イエス・キリストを救い主と信じても、私たち人間は罪を犯してしまうことがあるからです。罪と言っても小さいものから大きいものまであるでしょう。行動に表さなくても、心に罪深いことを思うだけでそれは罪である、とイエス様は言いました。そう考えると、神様の前には小さい罪も大きい罪も違いはなく、みな同じ罪だ、と言う理解もあり得ます。

 私たちはクリスチャンとして成長のプロセスの途中にあります。私たちは、まだまだ完全にはほど遠い者です。ですが、クリスチャンになった頃に比べると今の方がずっと、信仰的にも人としても成長しているのではないでしょうか。私たちは、罪はいけないことを知っています。また、進んで罪を犯すつもりもありません。それでも、過ちを犯してしまうことがあります。その時は、神様の前に罪を告白し、その行いを改めるように努めます。その繰り返しの中で、私たちは信仰的にも人としても成長して来たのではないでしょうか。そのようにさせていただけたのは、すべてイエス様のおかげです。本当に感謝なことに、イエス様が十字架に死んで罪の代価を支払ってくれました。私たちはそのことを信じています。その信仰のゆえに、私たち自身がその罪の代価を支払わなくてよいようにイエス様はしてくださいました。罪に対する代価は死です。でも、私たちはその代価を払わなくてよいのです。私たちはイエス様のおかげでそのことから救われているのです。だからこそ、私たちは、神様の喜ばれるように聖い生き方をしたいと望んでいるし、そのように心がけているのです。

 二つ目の福音理解は、クリスチャンは、聖い生き方をしなくても救われるのだ、だから罪を犯しても大丈夫、という理解です。先ほども言ったように、私たちの罪に対して、イエス様が十字架に死んでその代価を支払ってくれました。だから、罪を犯しても大丈夫、気にしないで、もう救われているのですから。罪を気に留める必要はありません。赦されているのですから。以前と同じように、神様のみ心がどうかなんて考える必要はありません。この世の流れに従って、自分のしたいように生きて行けばよいのです。なぜならば、神様はありのままの私たちを愛してくださっているからです。税金をごまかして徴収していた取税人は、そのままでも大丈夫です。神様はありのままを愛してくださいます。遊女はいつまでも遊女のままで大丈夫です。神様はそのままを愛してくださいます。先祖の神々を信じている人もそのままで大丈夫です。聖書の神様にも仕え、先祖の神々にも仕える、それでよいのです。神様はありのままを愛してくださるのですから。イエス様はそのために十字架に架かって死んでくださったのです。神様の愛は大きいのです。いつまでもあなたのありのままを神様は愛してくださいます。でも、本当にそうでしょうか。聖書はそんなこと言っているでしょうか。これが福音に対する理解でよいのでしょうか。それは、違います。

 二つ目の福音理解にある問題は何でしょうか。神様への態度です。また、神様との関係です。神様への態度が問題であり、神様との関係に問題があります。私たちの過去の罪も、現在の罪も、未来の罪も、神様は赦してくださいます。イエス様はそのために十字架に死んでそれらの罪の代価を私たちの代わりに支払ってくださいました。それは事実です。でも、もしも、本当にそのことを信じているのならば、私たちの神様への態度はどんなものであるべきでしょうか。

 この前のメッセージは、使徒の働きからでした。使徒の働き1章でエルサレムにとどまって一緒に祈っていたイエス様の弟子たちが120人ほどいました。その中には、たぶん、以前遊女だった女たちや以前取税人だった男たちもいたはずです。彼らは罪人のレッテルを貼られていた罪人の中の罪人でした。実際にそのような生き方にどっぷりつかっていたのです。しかし、彼らはイエス様の愛にふれ、そして、その愛に応答したのです。彼らは、イエス様に倣う者となっていました。ですから、彼らはイエス様を尊び、イエス様に誠実に、そして、忠実に従って行く者になりました。また、イエス様と彼らの間には親しい関係が築かれ、お互いに愛し、愛される、そのような良い関係にありました。イエス様の愛と赦しと恵みにふれた者は、それまでの生き方や価値観が変えられるのです。イエス様と関係を持つと、イエス様の人を変える力が私たちの内に働いて、私たちも変えられて行くのです。これらのことを前提にして、13節から見て行きたいと思います。

■13節 ペテロは、あなたたちの希望を、イエス・キリストが再び来られる時に与えられる恵みに置くように言っています。この世の楽しみが希望となることのないように、いつイエス様が来られても良いように心の準備をしておくように言っているのです。イエス様が再び来られる時とは、私たちの救いが完成する時です。そのときに私たちは、イエス様が復活したように、復活のからだをいただくのです。そのからだは朽ちることがありません。

 教会はキリストの花嫁であり、そのひとりひとりがキリストの祝宴に招かれています。イエス様と顔と顔とを合わせてお会いする時、それは大きな喜びの時なのです。その時の事を覚えることが私たちには必要です。さらに、その恵みを待ち望みつつ生きて行くことが出来るのなら、それは本当に大きな力になります。なぜなら、そのことによって、私たちは心を引き締め、身を慎んで、この世の楽しみに心奪われることなく、イエス様とお会いするための心の準備をすることが出来るからです。身を慎みとは、酒に酔っていない状態を意味します。それは、きちんと判断ができる状態です。私たちは、道徳的にも信仰的にも、きちんと判断できる状態を保つ必要があるのです。

■14節 従順な子どもになるように言っています。これは、子どもに対して言っていることなのでしょうか。そうではありません。大人に対して言っているのです。私たちは子どもであっても大人であっても、みな神の子どもです。神の子どもとされた私たちは、従順であることが求められています。従順とは、素直に従うことです。神様に、そして、神のことばに、またある時は教会に与えられている秩序の中で、従うことがどんなに大切なことであるかを私たちは知らなければなりません。

 また、以前、私たちがまだイエス・キリストの救いを知らなかった時に従っていた欲望に、従わないように言っています。新改訳では、「以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず」となっています。新共同訳では、「無知であった頃の欲望に引きずられることなく」となっています。「欲望に従わず」よりも、「欲望に引きずられることなく」の方が欲望に弱い自分としては、その状況に対する対応の仕方を具体的にとらえることが出来るように思います。私たちは世の楽しみや様々な誘惑に弱いのです。もしかしたら、その中に、少し足を踏み入れてしまうかもしれません。でもそれくらいならまだ間に合います。その中に完全に引きずり込まれることのないように、早いうちにそこから出ることを決心するのです。

■15節~16節 あなたがたを召してくださった聖なる方に倣って、とあります。あなたがたを召してくださった聖なる方とは誰のことでしょうか。それは、神様のことです。私たちはイエス様をとおして神様がどのようなお方なのかを知ることが出来ます。ですから、私たちはイエス様の言われたことやイエス様の生き方に倣うのです。イエス様は私たちのお手本です。私たちはイエス様が語ったように、また、したように、それをまねて生きるのです。

 次に、あなた方自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい、とあります。クリスチャンはキリストにあって聖なる者とされています。そして、神様の働きのために特別に取り分けられているのです。私たちは、永遠に聖なる神様とともに生きる者とされています。永遠に、聖なる神様とともに生きる者とされているなら、私たちは思い切って、今すぐに、生活のすべてにおいて聖なる者として生きるのがベストです。しかし、私たちは、どうしてもこの世のことに未練があって、この世のことを捨てきれないでいます。そして、捨てきれない自分のことで、心の内に葛藤が生じるのです。これが、人間の弱さです。神様はこの人間の弱さをよくご存じです。

■17節 神様は私たちの父です。私たちは父なる神様によって造られた者です。父なる神様は、人をそれぞれの生き方や行ないに従って公平に裁かれるお方です。裁かれるお方と聞くと、印象として、罰を与えるお方のように聞こえます。しかし、必ずしもそうではありません。裁くということばには、評価する、判断すると言う意味もあるのです。父なる神様は私たちを子として扱っています。それるゆえに、この地上において子としての訓練を与えることもあるのです。へブル12:10~11に、このように書かれています。「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、その時には喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安の義の実を結ばせます。」とあります。

 霊の父とは、父なる神様のことです。懲らしめとは、訓練です。神様は私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、訓練を与えることがあるのです。その訓練は、その時には、悲しく思われるのですが、後になって、私の益になることを考えて、神様はこの訓練を与えられたのだ、と言うことがわかるのです。

 私たちが地上にとどまっていられるのは、永遠に比べると本当に短い期間です。それでも私たちは多くのことを経験します。良いこともあれば悪いこともあります。誘惑もあれば試練もあります。その短い間、恐れかしこんで、神様に従って生きるように言っています。私たち人間は、こんな短い人生のことで、救いや永遠のことを台無しにしてはいけないのです。

■18節~21節 私たちは、イエス・キリストによってもたらされた救いを本当に大事に扱わなければなりません。この救いは、罪も汚れもないキリストの尊い血、キリストの犠牲によって与えられたのです。キリストは神なるお方です。そのお方が私たちのためにこの地上に現れてくださいました。そのことは、熱心に尋ね求めた預言者たちによって語り継がれてきたことです。その語り継がれてきたことが、ついにイエス・キリストによって実現しました。そして、イエスの弟子たちは、聖霊の力と導きによって、イエス・キリストの十字架と復活を証しし、その福音を全世界に向けて宣べ伝えたのです。私たちは、死者の中からキリストをよみがえらせた神を、キリストによって信じる者となりました。今、私たちは、罪赦され、神の子とされ、神のみ国を相続する者とされています。

■今、大リーグ選手、大谷翔平の元通訳だった水原一平氏のことが注目されています。彼は、自分はギャンブル依存症だったと言っていました。それが高じて、大谷翔平選手の預金口座から24億円以上を盗んで違法スポーツ賭博の胴元に送金していたことが分かりました。このような詐欺行為が3年前からすでに始まっていたようです。けれども、彼がそんなことをするなんて、誰が想像したでしょうか。誰も想像しませんでした。でも、隠されていた彼の罪は見つかってしまいました。罪の影響がまだ小さいうちにやめることができたら、ここまでひどい結果にはならなかったでしょう。彼はもっと早い段階で自分自身をコントロールして、この罪を治めるべきでした。罪には、自分を破滅させる力があります。自分だけではすみません。奥さんも家族も、すべての関係者との関係を破壊し、彼らを苦しめ、悲しませます。多くの人々を不幸にする力が、罪にはあるのです。

 この事件は私たちクリスチャンにとっても大きな学びがあります。私たちは罪に長くとどまり続けてはいけません。罪の力は確実に、私たちの大切なものを破壊し、奪っていきます。罪の影響力を断ち切るためには、私たちは何をすべきでしょうか。それは、神様の御心に従うことです。神様の御心に従うことこそが、聖なる者の生き方です。たとえ、罪の中に足を踏み入れてしまったとしても、私たちにはいつでも神に従うチャンスがあるのです。そのことを覚えていきたいと思います。それではお祈りします。