プニューマ・エクレシア・コイノニア

2024年4月7日主日礼拝「プニューマ・エクレシア・コイノニア」使徒の働き2:40~47 佐々木俊一牧師

■今日は、使徒の働き2:40から共に見て行きたいと思います。エルサレムを離れないで、およそ120人の弟子たちがいつものように屋上の間で心一つにしてお祈りをしていた五旬節の祭りの時に、イエス様が約束したとおりに、もう一人の助け主、聖霊が下られました。それによって力を受けたペテロは、集まって来た大勢の人々の前で聖書を用いてイエス・キリストを証ししました。ペテロは言いました。「罪を悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と。そうしたら、それを聞いた多くのユダヤ人たちが罪を悔い改めてバプテスマを受けたのです。

■40節 聖霊によって力を受け、導かれたペテロはさらに語り続けました。他にも多くのことばをもってイエス・キリストを証した、とあります。そして、ペテロは、はっきり言ったのです。「この曲がった時代から救われなさい。」と。神によって遣わされた救い主、イエス・キリストを拒絶し、イエス・キリストを十字架に付けたこの時代は、腐敗しきった邪悪な時代であり、いつか必ず神の裁きを受けなければならない時代であったのです。この時代に生きる多くの人々は、この大変厳しいことばに対して、憤りと反感を覚えたことでしょう。しかし、厳しいことばであるにもかかわらず、心動かされた者たちが3000人ほどいたというのです。自分を低くしなければ、けっして受け入れることのできないペテロの厳しいことばを受け入れました。そして、彼らはバプテスマを受けました。

 ペテロはまるで、バプテスマのヨハネのようです。3000人もの人々が一度に悔い改めたことを考えると、バプテスマのヨハネ以上です。もはや、以前のペテロではありませんでした。しかし、このような変化をもたらしたのは、ペテロ自身の人間性や能力によるのではありません。100パーセント、神の計画と聖霊なる神の力と導きによってなされたことなのです。ですから、どんなに素晴らしい働きをしたとしても、ペテロにとって誇れることは何もないのです。

■41節 イエス様に従う者が120人から、一気に3120人になりました。急にここまで増えると、これは一つの社会現象です。聖霊降臨の後に起こったリバイバルです。多くの人々が自分の罪を悔い改めて、自己中心の生き方を捨て、神様の喜ばれる生き方へと向きを変えて生きる決心をしました。そして、イエス・キリストのみ名によってバプテスマを受けました。

 彼らがバプテスマを受けると、それで終わったのではありません。終わって、彼らが住むそれぞれの国に帰って行ったのではありません。さらに、エルサレムにとどまって、イエスの弟子たちがイエスのそばにいて学びと訓練を受けたように、彼らもまた使徒たちのそばにいて、学びと訓練を受けたのです。イエス様が命じられたことは、バプテスマを授けることだけではありません。弟子としなさい、と命じられたのです。ですから、使徒たちは彼らを弟子とするために、その学びと訓練を施したはずです。ここに教会の出発点があります。約束の聖霊を受けた120人の弟子から始まって、ペテロの説教をとおしてさらに3000人が聖霊を受けてその仲間に加えられました。聖霊の働きにより、教会として動き始めたのです。その働きは2000年後の現在にまで受け継がれてきました。

 それでは、使徒たちは弟子訓練のために、3000人以上もの人々をどのように導いて行ったのでしょうか。

■42節 聖霊が下られて、その後、神様の計画が進み始めました。3000人もの人々がイエスを信じ、教会として動き始めました。教会はギリシャ語でエクレシアです。本来の意味は、呼び集められた者たちの集まりのことです。この集まりに新しく加えられた3000人の人々は、使徒たちの教えを堅く守り、とあります。新共同訳聖書では、使徒たちの教えに熱心であった、となっています。彼らは使徒たちの教えにとても熱心であったのです。使徒たちから教えを聞けば聞くほど、もっと聞きたくなったのでしょう。使徒たちの教えとは、つまり、イエスの教えです。そのイエス様の教えに対して彼らは飢え渇き、もっと聞きたいと思ったのです。イエス様の教え、イエスこそがメシヤ、救い主なのだと言うことが旧約聖書のことばや使徒たちの証しによって、さらに確信が増して行ったのだと思います。このようにして、教会の働きは整えられて、ますます神の働きは進んでいきました。

 彼らが熱心だったのは使徒たちの教えに対してだけではありません。他の教会の活動に対しても熱心であったのです。たとえば、彼らは、交わりに熱心でした。交わりとは、飲食をしながら楽しく会話を楽しむ、そんなイメージがあります。それも交わりですが、それだけではありません。交わりは、ギリシャ語でコイノニアと言います。コイノニアが動詞になると、コイネオーで、分け前に与る、交わりを持つ、加わる、参与する、助ける、と言う意味があります。新共同訳聖書では、ただの交わりではなくて、相互の交わりとなっています。ですから、分け前に与るにしても、交わりを持つにしても、助けるにしても、お互いになのです。お互いに助け合い、お互いに与え合うのです。みんな完全ではありませんし、助けのいらない人なんて誰もいません。お互いに補い合い、お互いに満たし合うことが必要なのです。それが交わりです。

 また、私たちの交わりは、人間同士の交わりだけではありません。私たちの交わりは、父なる神、子なるキリスト、そして、聖霊の交わりがあるのです。神様との交わりは、私たちにとって、とても大切です。私たちが日々神様と交わりを持っているかどうかによって、私たちの日々の歩みが変わってきます。神様との交わりによって、私たちの心の状態は違って来ます。神様との交わりをとおして、私たちの内に安定した平安と喜びが宿るようになります。周りの人間や状況によらず、私たちの思いは心配や不安や恐れから守られて、安定を保つことができます。神様との交わりが不足してくると、私たちの心が不安定になりがちです。ですから、神様との交わりを日々保つことが大切です。

 神様との交わりは、個人的に行なう場合と教会として行う場合があります。交わりの手段はほとんど変わりません。たとえば、礼拝をささげること、賛美をささげること、感謝をささげること、祈りをささげること、聖書を読むこと、また、祈る時や聖書を読む時に主の御声に耳を傾けることです。個人でもできますし、幾人かのクリスチャンが集まっても大勢のクリスチャンが集まってもできます。ですから、教会で行なわれている礼拝や祈り会、聖書研究会等に参加することは、私たちが信仰者として建て上げられるためにとても大切な機会なのです。個人としても教会としても、コイノニア、交わりが熱心になされている教会は、エクレシア、教会として建てあげられて行きます。

 また、私たちは交わりの形として、一緒に食べたり飲んだりします。これが、ふつう、私たちが思うところの交わりです。これは、とても楽しいひと時です。オープン・ドア・チャペルでも現在、月に一度、ポットラックでランチを共にしています。コロナ以前は毎週やっていました。毎回、レストランよりも豪華なバイキングであったのを思い出します。初代教会でも同じようなことを行なっていました。と言うか、この習慣は、もっと古い時代、旧約時代からあったものです。持ち寄りではないのですが、礼拝の後にみんなで食事を共にすることがあったのです。と言うよりも、食べたり飲んだりすることも礼拝の一部であったと言った方がよいでしょう。

 実は、食べたり飲んだりという行為は、昔から、人間の間で契約を交わす時に行われる重要な慣習でした。それが、旧約時代のいけにえをささげる時にも行われていました。幕屋で和解のいけにえがささげられた後に、祭司たち以外の人々も集まってその肉を一緒になって食べました。罪の赦しと神との和解がなされたことを共に喜び合う時であったのです。それはとても楽しい時であったようです。このように、一緒に食べると言うことが、神様との契約の中で行なわれた大切な慣習の一つでした。

 次に、主の晩餐です。パンを裂き、とありますから、これは、主の晩餐式です。彼らは主の晩餐式に対してもとても熱心でした。私たちは礼拝の中で主の晩餐式を行っていますが、もともとは食事の時に合わせて行われていたことです。ですから、初代教会では、いつも主の晩餐は食事とセットで行われていました。 

 主の晩餐は、イエス様が十字架に架かる前に使徒たちに行なうようにと命じた礼典の一つです。イエス様は種なしパンを取り、裂いて弟子たちに与えて言われました。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」と。パンはイエスのからだを表します。イエス様は私たちの罪を償うために鞭打たれ、血を流し、引き裂かれ、十字架に打ち付けられました。裂かれたパンはイエスのからだです。イエスのからだが引き裂かれたのでいのちを与えることが出来ました。パンはイエスの与えるいのちの象徴です。

 そして、イエス様は杯を取り、弟子たちに与えて言われました。「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」と。杯の中のぶどう酒はイエスの流された血を表します。イエス様は罪の赦しのためにご自身の血を流されました。杯の中のぶどう酒はイエスの血です。イエスの血は契約の血です。イエス様は罪のゆえに永遠の滅びへと向かっている私たちを救うために十字架に架かって死んでくださいました。そして、三日目によみがえりました。その事を信じる者は、その信仰のゆえに、罪赦され、神の子とされ、神の御国を相続するのです。この救いはまったくの恵みです。この素晴らしい恵みを思い起こすために、イエス様は主の晩餐を行なうように弟子たちに命じました。

 主の晩餐式において、私たちはこの素晴らしい恵みを思い起こします。けれども、それだけではありません。それだけでは十分ではないのです。Ⅰコリント11:28に、「だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」とあります。私たちは、主の晩餐を受けるごとに、自分自身を吟味しなければなりません。そして、神様の喜ばれる歩みへと向きを変えて、軌道修正するのです。主の晩餐式において、私たちは、イエス・キリストの恵みを思い起こし感謝するとともに、神様の喜ばれる歩みをしているかどうか、自分自身を吟味し、必要があれば向きを変えて、軌道修正する時なのです。

■43節~47節 このような共同体を作って彼らは生活を共にし、神様の働きを行っていました。その様子は未信者の間でもとてもよい評判となり、主は、毎日救われる人々を加えてくださったとあります。

 今日のメッセージタイトルは、プニューマ・エクレシア・コイノニアです。日本語で言えば、聖霊・教会・交わりです。聖霊降臨によって教会が始まり、教会の交わりをとおして成長したあの熱心な人々によって、さらに神の働きは進んで行きました。新しく加えられたあの3000人の信者たちは、その後、それぞれの国々に戻ってイエスの教えを宣べ伝えたに違いありません。彼らは、イエスの教えや教会の交わりに対して、とても熱心で意欲的でした。私たちも今一度、そのような歩みへと向きを変えて進んで行きたいと思います。それではお祈りします。