あなたの確信を投げ捨ててはならない!

2023年7月23日(日)主日礼拝「あなたの確信を投げ捨ててはならない!」ヘブル10:35~39 佐々木俊一牧師

■35節 「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。」

 あなたがたの確信とは何でしょうか。それは、イエス・キリストです。イエス・キリストは私たちの救い主です。なぜ救い主なのでしょうか。それは、人の力ではどうすることもできない罪と死の問題を解決してくださったからです。私たちはいずれ年老いて死を迎えるでしょう。けれども、安心してください。それで終わりではありません。イエス・キリストを救い主として信じる者は、神の御国へと招かれています。なぜならば、救い主イエス・キリストが信じる者の罪の後始末をすべてきれいに完了してくださっているからです。これが私たちの確信です。この確信は大きな報いをもたらすのです。ですから、この確信をけっして投げ捨ててはなりません。

 神は、人の形となってこの地上に来られました。それが、救い主イエス・キリストです。イエス・キリストをとおして、私たちは神様がどのようなお方かを知り、どんなに私たちのことを愛しておられるのかを知ることができます。イエス・キリストは、悪魔の手の中に落ちてしまった人間の運命を180度変えるために、十字架にかかって死に、罪の代価を支払い、悪魔から人間を取り戻したのです。イエス・キリストは、死んで三日目によみがえられました。悪魔が支配する死の力を打ち砕き、死から、永遠のいのちへの希望を示してくれたのです。イエス・キリストの十字架のことばを信じる者は、神の子とされ、完全に正しい者と認められ、完全に正しい者が受けることのできる祝福、神の栄誉を受けることができるのです。

 これを聞いて、多くの人々が、なんと幼稚でばかばかしい話だろうかと思うかもしれません。しかし、この幼稚で愚かに思える十字架のことばは、将来、信じる者に大きな報いをもたらすのだ、と聖書は言っています。神様は、十字架のことばの愚かさをとおして、小さな子供からお年寄りまで、信じる者を救おうと定められたのです。

■36節 「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

 約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐だ、と言っています。でも、私たちは、忍耐があまり好きではありません。キリスト教はご利益宗教ではありませんが、ご利益宗教に負けないほどの祝福があることも事実です。そのような証をもったクリスチャンはたくさんいます。しかし、困難も許されます。困難の中では忍耐が試されます。

 詩篇34:19に、このように書かれています。「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。」「正しい者」の解釈は複数あってよいと思いますが、「主にあって正しい者、クリスチャン」、と考えるのも一つのあるべき解釈です。ある英語の聖書によると、「悩みは多い」は、「多くのトラブルを被る」となっています。実際、クリスチャンであるゆえにトラブルにあうことがあります。しかし、神はそのすべてから救い出してくださると言うのです。心強い約束です。また、詩篇32:10に、「悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。」、とあります。英語の聖書では、「心の痛みが多い」は、「被る」になっています。結局のところ、困難にあうのは、良い者も悪い者も、神様を信じている者も信じていない者も、同じようにあうのだ、ということです。ただ、違うのは、神様に信頼する者は、神様が守って、救い出してくださるということです。神様は私たちにできない忍耐を求めてはいません。神様は私たちの限界を知っています。困難の中にあるときは、神様の助けを信じて待ち望みましょう。

■37節 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」

 このことばは、忍耐して待ち望む者にとっては大きな励ましとなる言葉です。この箇所はもともと、ハバクク2:3にあることばです。「来るべき方」とは、救い主イエス・キリストのことです。使徒の働き1章によるなら、イエス様がエルサレムにあるオリーブ山から天に上げられる時に、再び地上に戻って来ることを約束して昇って行かれました。それは、遅くなることはなく、ちょうどよい時にイエス様は再びこの地上に来られるのです。イエス・キリストが再び来られるとき、それは地上の国々への裁きの時であり、イスラエルの民に対する約束の成就の時であり、そして、キリストを信じる者たちの救いの完成する時なのです。たとえ、私たちの世代がそのことを見ないとしても、次の世代のために私たちは救い主イエス・キリストが地上に戻って来られることを語り続けていかなければなりません。それがいつの時であろうとも、「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」、ということばを私たちは励ましのことばとして忘れてはならないのです。 

■38節~39節 「『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」

 イエス・キリストによって与えられた立場を保つために必要なことは、信仰です。イエス様が成してくださったことに頼りきって歩むのです。しかし、だからと言って、その立場の上にあぐらをかくようなことをしてはいけません。古い自分の性質にまかせて、「自由だから、好き放題罪を犯そう。」というのは思い違いだと聖書は言っています。神様と私たちとの間に愛と信頼の関係があるのならば、与えられた自由を私たちは神様の喜ばれるように用いたいと思うでしょう。

 放蕩息子の話はよく知られていると思いますが、せっかく神の子としての立場が与えられていながら、放蕩に走ってしまうという事例は実際によくあることです。そんな時、神様の心の痛みは、放蕩息子の父親の気持ちを考えるとよくわかります。神様は、そのような場合であっても、向きを変えて再び自分のところに戻って来るならば、いつでも受け入れる用意ができています。ですから、放蕩息子にとって必要なことは、信仰なのです。信仰があれば、また、神様のところに戻ることは可能なのです。

 これから話すことは放蕩息子の話とはまた別のことです。過去の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じたことは、私たちの真実の思いです。そして、古い自分に死んで、新しい自分に生きたいと願うのも、私たちの真実の願いです。ところが、私たちの願いとは反対に、良いと思うことができなかったり、やってはいけないと思っていることをやってしまったりすることがあります。そのような時は、本当に惨めな思いになります。でも、いつまでもそんな惨めな思いの中に居続けてはいけません。

 イエス様は私たちの弱さに同情できないお方ではありません。私たちは、イエス様からあわれみを受け、恵みを頂いて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの座に近づいてよいのです。イエス様によって与えられた立場を感謝して、神様に罪を告白して、前に向かって歩み出すことが大切です。イエス・キリストを信じる者は、信仰によって生きるように導かれています。

 神様は、私たちがどのような時にも、私たちの父なる神様であることには変わりがありません。何があったとしても、私たちは神様のもとから恐れ退いてはならないのです。私たちが恐れ退くことを神様はけっして喜ばれません。

 イエス・キリストを信じて救われた者の立場は、神のこどもです。神様は私たちの父であり、私たちはそのこどもです。神様と救われた者の間には平和があります。その関係は愛と信頼によってつながっています。ですから、私たちはいつでも神様と親密な関わり方ができるのです。もしも、目の前に神様が現れたとしても、私たちは恐れ退いたり、びくびくしたりしなくてよいのです。私のような人間は神様に受け入れられないとか、こんなことをやってしまった私は、神様に赦してもらえないとか、そんな悩みは必要ありません。すべてはイエス・キリストによって片付いたことなのです。ですから、私たちは、イエス様に感謝し、イエス様をあがめるのです。神様と私たちとの間には、父と子の親しい関係があります。私たちは、神様によって愛される存在なのです。それはすべてイエス・キリストによるのです。

■バプテスマについて

 私はイエス様を信じて本当に良かったと思います。イエス様を信じて、イエス様について行く歩みの中で、私は多くの恵みを体験しました。たとえば、性格が明るくなりましたし、あまり思い悩むことがなくなりましたし、嫌なことは早く忘れるようになりました。いいことまでも忘れてしまうことがあるので、困ることがあります。

私がバプテスマを受けたのは22歳の4月のことでした。4月15日(日)、ちょうど、イースターの日でした。水にお湯を混ぜたのですが、それでもまだ、冷たかったのを覚えています。バプテスマは、私にとって、何か良いことが始まるのだと思える体験でした。新しい始まりを私はとてもうれしく思いました。

 バプテスマの中心的な意味は、イエス・キリストの十字架と復活です。私たちにとって、水の中に沈むことは死を意味します。古い自分はイエス・キリストと共に十字架にかかって死にました。そして、水の中から出ることは新しい命に生まれ変わったことを意味します。新しい命は全く正しい者としての命です。バプテスマは、これらのことを象徴する儀式なのです。

 Ⅰペテロ3:20~22を見ると、バプテスマについて書かれています。ノアの箱舟のことが語られています。詳しくは、創世記6章と7章をご覧になってください。ペテロは、ノアの箱舟の話は、救いとバプテスマを予め示した型なのだと言っています。みなさん、『船』という漢字を知っているでしょう。『舟』の右側には、『八』と『口』があります。八つの口、つまり、8人の人を意味します。ノアの箱舟に乗ったのは、ノアと3人の息子とそれぞれの妻の合計8人です。この『船』という漢字は聖書の影響を受けていると思われます。

 ここで、バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではないと言っています。つまり、罪の性質は残ったままであるということです。私がバプテスマを受けたとき、聖書の理解が不十分だったので、バプテスマを受けたなら、もう罪は犯さなくなるものと思っていました。悪い思いや不純な思い、妬みや憎しみなどの不快な感情から自由になれると思っていました。しかし、その期待は裏切られ、自分の救いに疑いを持つようになったのを覚えています。

 バプテスマは、肉体の汚れ、つまり、罪を取り除くものではありません。確かに、イエス様を信じてすぐに、あるいは、バプテスマを受けた後、罪の思いや悪い習慣から解放されたという人々の証を聞くことがあります。でも、それは、人それぞれです。劇的に変化する人もいれば、徐々に変えられていく人もいます。変化がないからといって、救われていないということではありません。

 「バプテスマは、正しい良心の神へ誓いである。」と書かれています。それは、自分の罪を認めた上で、「イエス・キリストが私の罪のために十字架で死んでくださり、そして、三日目によみがえられたことを信じます。」という告白であり、「イエス・キリストをとおして、神様に従います」、という神への誓い(約束)を表しているのです。

■「26の十字架」という本を読んだことがあるでしょうか。キリシタン弾圧についての多くの資料を調べて書かれた本です。1597年2月5日、長崎にある西坂の丘で、6人の外国人宣教師と20人の日本人信者が、十字架につけられて処刑されました。当時、どんどん増えるクリスチャン人口に危機感を感じた豊臣秀吉が、見せしめのために行った初めての処刑でした。その中には12歳と13歳と14歳の3人の少年がいました。一つのエピソードを紹介したいと思います。かわいそうに思った一人の武士が、12歳の少年に言いました。「信仰を捨てて、私の養子にならないか。そうしたら、何不自由のない生活ができるぞ。」少年は答えました。「あなたこそ、クリスチャンになって、私がやがて行くパライソ(天国)に行くことの方がずっとよいことです。」と言って、きっぱり断ったそうです。こうして、6人の外国人宣教師と20人の日本人信者は、ふたりの執行人が槍でもって、両脇から同時に胸を突くという残酷なやり方で処刑されました。

 私たちは、このような迫害にあわないとしても、私たちから信仰を奪おうとする誘惑はいろいろな形で許されます。時には、祝福と思われることさえも、誘惑として働くことがあります。あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません!イエス・キリストの十字架と復活の信仰は大きな報いをもたらします。その信仰に堅く立ち続けていきましょう。それでは、お祈りします。