解放されることと預言の成就

2022年7月17日英語礼拝 メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

ルカの福音書4章18〜21節

解放されることと預言の成就

 

 私たちの旅は、キリストの福音の物語を通して続きます。そこでは神様が、出来事や状況、また多くの場合、自分たちがその偉大な御業の一部を担っているとは知る由もない人々を通し、ご自分の預言の約束を果たしておられます。これまで私たちは、たとえ我々人間が弱く、苦悩し、悪に直面して、不当な扱いを受けるときであっても、神様ご自身が制御しておられると証しされるのを見てきました。 私たちの信仰が弱いときでさえも、神様は王です。私たちの理解、資質、そして夢ですら欠いているときも、統べ治められるお方なのです。

 しかし、お約束したように、私たちは単に人生で起こる悪いことや、そこでの神様のお働きに焦点を合わせようとしているのではありません。 私たちはまた、イエスの生涯の物語を通じ、良い時や機会、心からの協力、そしてたくさんの人生の祝福の中で行われる御業についても見ていきます。確かに、皆さんがお察しの通り、それらの御業はしばしば私たちに起こる悪いことから生まれます。しかし、人生におけるこれら肯定的な部分もまた、神の主権の下にあり、神様はそれらをご自身の偉大な目的のために用いられるのです。 それでは、神様が聖書の物語と今の私たちの生活の中で、どのようにこれを行われるのかを探索してみましょう。 ルカの福音書4章18〜21節の出来事の中で、キリストのメッセージは人々を解放することに関するご自身のお働きに焦点を絞ります。

 私たちを解放する…それは何世紀にもわたる神のお働きであると、イエスは私たちに思い出させてくださいます。 イエスは旧約聖書のイザヤ書61章1節と2節の途中までを読んでおられるところです。神はご自分の民をエジプトから肉体的、経済的、政治的、そして何よりも霊的に解放なさったと、聖書記者たちは何度も繰り返し物語ります。 しかし、そのように人生を転換する重要な出来事でさえ、一度きりで終わるものではありませんでした。神様は人々に律法をお与えになりました。私たちが、何が正しくて何が間違っているのかを知ることによって、心、精神、魂において解放されることがいつも必要だと知っておられたからです。 後に神様は預言者をご自分の民に送られます。なぜならイスラエルの人々は、神様が彼らに持ってほしいと望まれた内面の自由の中に生きていないことがしばしばだったので、警告を受け、そこに呼び戻される必要があったのです。

 イエスは今、ご自分の故郷であるナザレで毎週行われている土曜日の礼拝の中で、イザヤ書61章の御言葉を読んでおられます。 それらは、今日私たちが持っている本の形式ではなく、巻物に書かれていました。 この時代のほとんどの人々は読み方を知りませんでしたが、部分毎に朗読されるのを聞くことで、定期的に神の御言葉を耳にし、学ぶことができました。 聖書の朗読を一緒に聞くことと、その箇所を暗記する習慣を保つことにより、彼らは共同体として、社会における比較的高いレベルの聖書教育を保ち続けることに対処していたのです。 読むことができる人の割合が高いという理由だけで、今日の私たちがより聖書を理解していると考えるのは思い違いです。

典型的なシナゴーグには、7人の読み手として、司祭、レビ人、およびそのシナゴーグ特有の他の5人のメンバーがいます。 時には、この日のイエス様のように、ゲストの読み手や話者がそこにいるでしょう。 彼らは交代で、律法や預言書、また旧約聖書の他の部分(たとえば詩篇)から、御言葉を読みます。 これらの朗読の後、そのために選ばれた誰か一人が教えを説くのでしょう。 その人は、今の私のように立ってではなく座って教え、学ぶ者たちは床に座って耳を傾けるでしょう。 ルカ10章39節でマリヤがイエスの足元に座ってイエスから学ぶところで、師の「足元に座る」という描写を目にされたかと思います。それによって、イエスが朗読を終えられた後に座られたと、ルカが述べている理由に頷けます(20節)。それはイエス様が話し終えたという意味ではなく、教えを説き始める準備ができているということです。主は、彼らが耳にしたときにこれらの言葉が実現する、と言って話し始められたと、ルカは述べています(21節)。

 預言が成就されるものであり、神様がご自身の約束をお守りになるということは、神は私たちを奴隷にするすべてのものからご自分の民を自由にしてくださるということです。そう、このことが今ここで起こっていると、イエスは言っておられるのです。イエスはイザヤ書61章1〜2節を、そこに書かれている通り正確には引用していません。ルカは旧約聖書のギリシャ語訳であるセプトゥアギンタ(七十人訳聖書)版を使っていると思われます。また、シナゴーグの読み手や教師も、旧約聖書の異なる部分を自由につなぎ合わせて、さまざまな部分が互いをどのように説明し、解釈するのかを聞き手が理解する手助けとしています。 たとえば、18節にある文言「神はしいたげられる人を自由にすることを、私に望まれる。(※英文直訳)」は、イザヤ書61章1〜2節には出てきません。 しかし、それらはイザヤ書42章7節と58章6節に、基本的に同じ形で現れています。

 さて、イエスがここでお話しになっているときに何が起こっているのか、皆さんはかなり良い考えをお持ちのことと思います。 そこで、イエスが実際に私たちに語っておられることをもう少し詳しく見てみましょう。 ここに、短い質問と答えの要旨があります。

 神は何をなさいましたか? 神は油をそそがれ、イエスを遣わされました(ルカ4章18節)。例えるなら、王は油をそそがれ、特別重要な任務のため聖別されました。神はイエスを救世主キリストとして任命し、ご自分の民を救うため、あるいは私たちを自由にするためにお遣わしになったのです。

神は何に油をそそがれ、イエスを遣わされたのですか?(18〜19節初め)

福音を伝えるため(「宣言する」「発表する」とする翻訳もあります)。

解放を知らせるため。

「盲人が再び見ることができるように。」

しいたげられている人々を自由にするため。

神がご自分の民を解放する年を告げるため。

神は誰のためにイエスを送られましたか? 「ご自分の民」(19節)のため、もちろんそれは、信仰により自らの意思で神を信じ、従うすべての人のためです。しかし、ここで神が焦点を当てているのは…

貧しい人々。

捕らわれ人。

盲人。

それらしいたげられている人々です。

神はこのような特定の人々の群れについて、私たちに何を教えておられますか?

貧しい人々は、良い知らせ(福音)を必要としています。

捕らわれている人は、解放を必要としています。

目の見えない人は、視力の回復を必要としています。

しいたげられている者たちは、自由になることを必要としています。

神様の民は解放されることを必要としているのです。

 これがイエスのメッセージであり、ご自身のお働きの上にあって、彼こそがメシアであると示す識別の印です。ルカの7章からのこの話を覚えておられますか? バプテスマのヨハネは牢獄に囚われて、物事はメシア到来のときにそうなるであろうと彼が言うような状況には見えません。そしてヨハネの弟子たちはイエスのところに行き、イエスは本当に彼らが待ち続けていた、神の民を解放してくださる救い主なのかどうかを尋ねます。 彼らへのイエスの応答(7章21〜23節)は、ご自身の身元について非常に重要な事柄をいくつか示してくれます。

 ちょうどそのころ、イエスは、多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされた。そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、皮膚病に冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」

 別の言い方をすれば、イエスは言葉で主張なさっているだけでなく、説得力のある御力と愛の行為で、ご自身が神の御子キリストであることを証明しているのです。 それゆえイエスの存在と教えは、それらを受け入れる人々にとって人生を転換させるほどのものなのです。しかし同時に、それらを受け入れない人々には、イエスを殺したいと思うほどの悪意を見出します。それはまさにイエスの故郷の人々がここでしようとしていることであり、最終的には国の指導者たちがそれをするのです。

 それが、イエス様が旧約聖書の予言を成就する方法であり、私たちの神様の信頼できるご人格を示しているのです。しかし、それだけではありません。 皆さんが覚えておられるように、聖書の中で、特定の状況における人々の言動が、しばしば遠い昔に主がなさった約束を実際に成就させる例を、私たちは見てきました。 もちろん、イエスはご自分がなさっていることをご存知で、意図して神様のお約束を果たされます。 その上、イエスは教えや癒しを行われる際、幅広く様々な人々にお会いになります。 それから、イエスが去って行かれた後、ご自分のお働きを続けるために整えておられた弟子たちが、さらに多くの手助けをします。そして、それらの人々に起こる事は、私たちに細心の注意を呼びかけます。

一例として、イエスはルカ21章1~4節に出てくる一人の女性のような、貧しい人々に出会います。彼女は神殿の献金箱の中にたった2枚の銅貨を入れますが、イエスは彼女が献げる精神に何か特別なものを見ておられます。 イエスはこう言われます。(21章3〜4節)

 この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。

 それらの言葉はこの女性にとって、また私たち全員にとっての朗報です。 多くのものを持たない人たちは、彼らを取り巻く社会から「あなたはあまり重要でない」というメッセージを受け取ることが、しばしばあります。イエスは、その女性が誰であるかということと、彼女の捧げ物にある大きな価値について、深い意味を見出しておられるのです。イエスは彼女を私たちが従うべきひとつのお手本として、また福音書の中でイエスが直接お褒めになる数少ない人々の一人として引き上げられます。彼女は知りませんでした。神が貧しい者に福音をもたらすというメシアの預言を成就した人物に、自分がなったということを。 しかし、彼女こそがその人なのです。

 この福音は、金銭が提供できるより、もっと大きな自由へと導くものです。 ザアカイのような聖書に登場する経済的に豊かな人々もまた、それを手にすることはできます。 しかし、どういうわけか、より簡単にそれを受け取るように思えるのは、大抵貧しい人々なのです。 皆さんが知っている貧しい人々とは誰でしょう? 皆さんはキリストの御名によってそれらの人たちを助ける立場にあるかもしれません。 それはまた、その人たちが皆さんを助けられるということでもあり得ます。 私たちが神の御霊の力を通して周りの人々とつながるとき、私たちは皆、様々な観点において貧しいことを発見します。 しかし、私たちはまた、富に、富める神に仕えてもいます。そして、私たちが分かち合い、自分たちの必要の満たしを神に信頼することを学ぶとき、神はご自分の民への祝福をとても得意としておられます。 私たちがそうするとき、ルカ4章の預言は成就されるのです。

 捕らわれている人。 使徒の働き16章で、イエスの弟子パウロとシラスは牢獄にいます。ある女性を暴虐的な雇用主から解放するために、キリストの御名によって手助けしていたからです。 神は地震を引き起こされ、それが牢獄の扉を叩いて開きます。 囚人たちをそこに留めておけなかったことで看守が自害するか、もしくは殺される羽目になることを知っているパウロたちは、逃げ出すかわりに留まり、イエスについて彼に話します。 そして看守は信じる者となります。 間もなく、パウロとシラスは、政府の役人からこの言葉を受け取ります。「さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」(36節)

 それが、ご自身が召命された弟子たちを通して働いておられる救世主イエスです。 イエスは囚人が自由を必要としているのを知っておられます。 今日でも、不法に投獄されている人々の釈放のために働くクリスチャンがいます。 正当な理由で収監されている刑務所で、キリストに出会った人々もいます。その中には釈放され、信頼できる社会の一員として大きく貢献する生活を始める人がいます。刑務所に残っている人たちもいますが、イエス・キリストとの出会いを通した内なる自由という経験は、確かで力強く、心を奮い立たせてくれるもの――どんな牢獄も拘束することができないものです。このような類いの自由は、私たちの主を通して、信仰によってそれを受け入れるすべての人が手にすることのできるものです。 それは、カルト宗教、現代的な奴隷状態(セックスや麻薬や何かのための人身売買)、依存症(アルコール、その他の薬、ポルノ、不安、他の生活を破壊する物事)という牢獄に囚われている人々を含みます。皆さんや私を捕囚にするものは何ですか? どこで、人生におけるもっと本当の自由を体験する必要があるでしょうか? 私たちがこれらの質問に対する答えを見つけ、神様が私たちをそのようにしたいと深く望んでおられる真に自由な人間として生きることを学ぶとき、私たちの中でメシアに関するルカ4章の預言が成就するのです。

 目の見えない人。イエスがこれらの人々についてお話しになる時、ちょうど言及されたばかりの囚人のことを心に留めている可能性があります。 イエスの時代に投獄された人々は、大抵暗い場所にいます。 通例、火を灯し続ける照明が、今日ほど多くの場所に普及しているわけではありません。まして牢獄に適切な照明があるのを確認することは、優先事項からほど遠いのです。 しかし、視力という贈り物を持たない人は、一種の牢獄にいるとも言えるのではないでしょうか。 そのような意味では、「盲人」についてかなり広い意味で考えることができます。

マルコの福音書10章に出てくるバルテマイという目の見えない男は、イエスが通りかかられたとき、道端に座っています。 彼は、他の人が彼に黙るように言っているのさえ構わずに、イエスの注意を引こうとします。 イエスは彼の態度に感銘を受けたように足を止められ、彼が欲しているものをお尋ねになります。 彼の答え(51節)は、今日の私たちの祈りとするに相応しいものです。「先生、目が見えるようになることです。」イエスは喜んで彼を癒し、バルテマイは単に視力だけではなく、キリストのご性質に内在する本質を見抜く力も持つ人としての人生をスタートするのです。彼は今や、イエスの導きとご配慮のもとでなり得る人物像への展望を持って生きています。 その日、道端に座っていたときのバルテマイは、神が預言の成就をもたらすために用いられるツールになるとは、予想もしていなかったに違いありません。 しかし、紛れもなくそれは起こるのです。

 私たちの世界観における「盲点」はどこでしょうか? 神様の働きの大きな一部は、私たちが物事をあるがままに見る手助けをすること――たとえ私たちが見たくないことであってもです。それらは私たちの人格に関すること、あるいは固有の罪に関することかもしれません。私たちが敢えて見ないようにしているけれど、神様が助けたいと思っておられる、困窮している人々のことなのかもしれません。私たちの中にあるこれらの盲目の領域が何であるとしても、神様はご自身の時と方法で、それらに正面から誠実に向き合い、それから信仰と愛を持って対処するように、私たちを導くことがおできになります。 私たちがそうするとき、キリストの預言が私たちの中で、そして私たちを通して成就するのに気づくでしょう。「神は盲人が再び見ることができるように私をお遣わしになった。」

 はい、主よ。今ここで、今日そして毎日、私たちにそれを実現させてください。

最後に、打ちひしがれている人(18節)。他の翻訳は、たとえば、これらの人々を「しいたげられた者」(ニューインターナショナル版)、あるいは「 傷ついた者」(ヤングの直訳)と記述しています。パウロに関する別の物語で、この話は使徒の働き14章にありますが、彼はキリストのための働きゆえに身体的な攻撃(石を投げつけられる)を受けます(19〜20節)。パウロはその町の外へと引きずり出され、瀕死のまま放置されました。どうにか、彼は神のご加護の下で生き延びます。 パウロがその日目を覚まして、しいたげられた人々を自由にすることについてのイエスの預言を成就させるために、これらの出来事を繰り広げる計画をしていたと示唆するものは何もありません。しかし、繰り返しますが、それは起こるのです。

 私たちの主は、しいたげられ、打ちひしがれたと感じている人々は解放される必要があるとご存知です。それは、神様が私たちのために安易な生活を望んでおられるとか、ただ強く信じて神に願えば、いつでもそれを得られるということを言うのではありません。 いや、キリストにある自由とは、単にあなたが望むことを何でもするということではないし、そのような使い方をするものではありません。 事実、パウロはキリストの自由の中で生きることが、実際どれほど難しいのかをよくわかっています。 彼は言います。「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒14章22節)

 私たちの自己中心的な望みを放棄し、神の優れた願いのためにそれらを喜んで捧げることが、逆説的には、神が教えてくださる真の自由への道なのです。 天におられる私たちの父は、私たちがご自身との親密な関係のうちに、真実で最高の自分として自由に生きられるという深い奥義を私たちに与えてくださいます。 私たちの心と身体に宿る神のご臨在は、恐れや疑い、また私たちをたびたび束縛するその他の罪から解放されて生きるための

あらゆる理由を与えてくれます。 こうすることを学ぶとき、私たちはしいたげられた人々の解放者として、キリストの預言の成就の一部であることに仲間入りするのです。

 イエスは「(主)がご自分の民を解放する年」(19節)に言及して、ご自分の割り当ての聖書朗読を終えられます。 私たちは解放される必要があるのです。 翻訳のいくつかはこの時期を「主の恵みの年」と呼びます(※日本語訳も同様)。他に「主に受け入れられる年」という風に表現するものもあります。それらはヨベルの年のことを物語っているようです。 それは、旧約聖書の律法が要求する50年ごとの特別な時期のことで、すべての負債が帳消しにされ、奴隷が解放される年なのです。それが神様のご意志であり、ご計画です。 しかしながら、イスラエルがそれを文字どおり完全に守ったのかは明らかではありません。 結局、それは私たちが天国にいるときにだけ起こることなのです。 ですから、私たちは今、それを確固とした揺るぎない希望の土台として主張します。神様の時に、私たちの自由を奪うものはすべて失われます。 私たちはどんな悪も立つことができない場所、神様のご臨在の中で永遠に生きるのです。 実にその時が来ると知っていることが、私たちが今この世界のこの場所で、期待と強い心を持って生きるための強固な理由を与えてくれるのです。 それはまた私たちを祈りへと導きます。ですから今、私たちの天の父とお話ししましょう。

 神様、あなたの御子イエス様は、人々を自由にするというあなたのお働きにおいて、あなたと完全に手を携われました。 私たちが同じことをするのを助けてください。 イエス様はあなたの霊がご自身の上にあって、その御業のためにご自分を導き、力を与えてくださると言われました。 その同じ霊で私たちを満たし、私たちがイエス様の導きのもとで力強く成長するように、そして人々を解放するというあなたの素晴らしいお働きにおいて、あなたと手を取り合えるように助けてください。

イエス・キリストの御名によってお祈りします。 アーメン。

 

参考

Gill, J. (1746-1763). John Gill's Exposition of the Bible. Retrieved July 6, 2022, from https://www.biblestudytools.com/commentaries/gills-exposition-of-the- bible/luke-4-18.html Henry, M. (1706). Matthew Henry Commentary on the Whole Bible (Complete). Retrieved July 7, 2022, from https://www.biblestudytools.com/ commentaries/matthew-henry-complete/luke/4.html

Wesley, J. Retrieved June 27, 2022, from https://www.biblestudytools.com/ commentaries/wesleys-explanatory-notes/luke/luke-4.html