ミステリーな教会

2022年4月24日主日礼拝「ミステリーな教会」エペソ3:7~13佐々木俊一牧師

■「教会」はギリシア語で「エクレシア」と言われています。この「エクレシア」と言う言葉は、もともとはキリスト教用語ではありませんでした。一般用語として使われた言葉です。規則によって集められた市民の会議や集会、またはそこに集められた人々のことを指していました。マタイの福音書16章で、イエス様の言われたことばが、「エクレシア」という言葉で表されています。新約聖書には100回以上出てきます。ほとんどは教会を指していますが、中には教会ではなくて、単に集会とか集団を意味している場合もあるのです。 

みなさんもお気づきかと思いますが、エペソ人への手紙の中にも、「教会」という言葉が10回ほど出てきます 

 「教会」ということばは、エペソ人への手紙の中でキーワードの一つと言えるでしょう。とても重要な言葉です。パウロは、教会について他の手紙の中でも熱く語っています。「教会」には大きな神様のご計画があることは疑う余地がありません。確かに、教会には、神様の特別な計画があるのだと思います。

 マタイ16:15~18に、こう書かれています。「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。』シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは生ける神のみ子キリストです。』すると、彼に答えて言われた。『バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。』。・・・。」「ペテロ」とは、「岩」という意味です。この「岩」の上にわたしの教会を建てるということは、シモン・ペテロが土台になるような特別な人であることを意味するのでしょうか。そうではありません。この岩とは、シモン・ペテロの告白と考えた方がよいでしょう。神の教会は、「イエスが生ける神のみ子キリストである」という信仰告白を基盤として、初めて成り立つのです。イエス様が天に戻られた後、聖霊が下られました。その時教会が始まり、それから神様の特別な計画が教会を通して進んで行ったのです。

■イエス様が言われた「教会」が、いわゆる「教会堂」のことではないことは、私たちの共通認識であると思います。エペソ人への手紙2章20節から22節には、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神のみ住まいとなるのです。」とあります。この箇所を読むと、建物とは教会堂ではなくて、人であることがわかると思います。キリストによって召し集められたお一人おひとりの信者がともに集まると、キリスト・イエスを礎石とする神の建物、神殿を形作るのです。そこは神が住まうところとなるのです。目には見えませんが、私たちがともに集まるとき、そこに、神様もともにおられるのです。まさに今ここにおられるのです。

 それでは、今日の聖書箇所を見て行きましょう。

■7節~9節 まず、7節においてわかることは、パウロが福音に仕える者とされた、と言うことです。福音とは何かについては、皆さんすでに知っているかと思いますので、ここで説明はしません。しかし、確認したい方は、Ⅰコリント15章を読むとよいかと思います。福音の中心がそこに書かれてあります。

では、福音に仕えるとはどういうことでしょうか。8節にあるように、福音に仕えるとは、福音を宣べ伝えることです。パウロにとってこの福音は恵みであり、また、測りがたい富である、と言っています。パウロは自分の事を聖徒の中でも一番小さい者、取るに足らない者である、と認識しているようです。それは、以前のパウロがイエス・キリストに敵対し、イエス・キリストを信じる者たちを迫害し、殺害していたからです。けれども、そんなパウロでさえも神様は顧みてくださって、これほどまでに酷い罪を犯した者を赦してくださって、さらに、恵みと測りがたい富とを与えてくださったのです。そのようなパウロが福音を宣べ伝えることは、まさに、神の福音の真実と恵みの大きさを証明しているのです。

 9節に、「奥義」という言葉がまた出て来ました。「奥義」とは「福音」のことです。「福音」とはイエス・キリストの救いと約束のことです。それは、ユダヤ人のためだけではありません。異邦人のためでもあるのです。神様はこの奥義をずっと人々に知られないように隠していた、とパウロは言っています。しかしながら、この奥義は、はっきりではないけれども、神様が選んだイスラエルの民を通して長い時を重ねて示されてきました。それが旧約聖書に書かれていることです。そして、救い主イエス・キリストが地上に来られ、父なる神のみこころを成し遂げるために、十字架に死んで三日目によみがえられました。その後、天に戻られてから、約束の聖霊がこの地上に下られました。結果、教会の誕生です。初期の頃、教会にいたのはユダヤ人だけでした。しかし、奥義の中には、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、共に約束にあずかる者となるのだ、と言うことも含まれているのです。このことを教会に対して明らかにし、それを実行に移すということが、つまり、異邦人への宣教が、パウロが神様から受けたミッションだったのです。

■10節~12節 パウロはこの奥義をまずは教会のユダヤ人と分かち合い、実行へと進めていきました。そうして異邦人への宣教は進み、教会に集まる異邦人も増えていきました。このようにして、キリスト・イエスにあって、ユダヤ人と異邦人が共に神の約束の相続者となることが、教会を通して示されて行ったのです。これは、主キリスト・イエスにおいて神が実現しようとしていた神の永遠のご計画に沿ったことであったのです。

 私たちは、キリストを信じる信仰によって大胆に神に近づくことができるようになりました。それは、ユダヤ人であっても異邦人であっても同じです。すべては、キリスト・イエスによる恵みなのです。私たちは誰でも、キリスト・イエスの恵みによるならば、神の約束にあずかることができるのです。たとえ、パウロのように、イエス・キリストに敵対し、クリスチャンを迫害し、殺害していた者であってもです。それほどまでに、神の恵みは測りがたく、そして、大きなものなのです。

 初代教会は、当時の人間からしてみると、謎めいた人々の集まりだったに違いありません。ユダヤ人と異邦人が同じところに集って、祈ったり、賛美をしたり、共に礼拝をしているのですから。そのようなことは、想定できることではなかったでしょう。本当に、理解に苦しむ謎めいた人々であったのです。そういった意味で、ミステリーな教会と言うことが出来ると思います。

 また、神のミステリー(奥義)を実行に移す教会、それがミステリーな教会と言うこともできます。神のミステリー(奥義)とは、イエス・キリストの救いと約束です。そして、それをユダヤ人にも異邦人にも、つまり、全世界に向けて人々に宣べ伝える教会が、ミステリーな教会であるのです。ミステリーな教会は、福音を宣べ伝えることを使命としている教会です。

■今日は教会についてお話しています。終わりに、バプテスト教会についてお話したいと思います。バプテスト教会の特徴として、会衆主義があげられます。会衆主義は、各個教会が牧師の任命をはじめ、すべての権限を持っています。これは、聖霊によって「集められた会衆」としての各個教会が聖書の権威と聖霊の自由において、すべてのことを決めることができるという考えなのです。他の教会による干渉や支配の及ぶことのできない独立性を保つ教会なのです。

 バプテストの歴史について少しお話したいと思います。「集められた会衆」という意識が誕生したのは、17世紀の革命期のイギリスです。それまで一般人は、王や領主に属する奴隷のような立場でした。彼らの宗教は生まれながらにして決まっており、王や領主に従属していたのです。そのような中でバプテスト派は、神のみ前での個人の自由と人権を主張し、集められた民としての教会を形成しました。

 バプテスト教会のような会衆主義においては、権限主義型のリーダーシップではなくて、権限が牧師だけに集中することなく、他のメンバーにも分け与えられた、権限分与・参与型のリーダーシップが望ましいと考えられています。会衆主義にとって、教会の主は牧師でも、信徒でもないことを覚えておかなければなりません。イエス・キリストこそが教会のかしらであるゆえに、聖書に根差し、主を主としていく意識的努力が必要です。聖書のことばと主キリストの主権を認め、主のみこころを第一とし、従ってゆく決意なしには、会衆主義教会の秩序を保つことはできません。お一人おひとりの思いや願いは尊重されるべきですが、お互いに主のみこころを求めつつ、主のみこころは何かというところで一致して歩んでいく努力が必要です。

■教会に神様の特別な計画があります。そして、各教会にはそれぞれ神様から受けたヴィジョンがあります。もちろん、オープン・ドア・チャペルにもヴィジョンがあります。私たちは祈ってきました。新しい信徒、新しい指導者、新しい教会が与えられるように。でも、それは、いまだに実現されていません。その時が満ちていないのだと思います。エペソ3:9にあるように、神の奥義が実現されることなく隠されていた時があったように、私たちの教会のヴィジョンは実現されることなくずっと祈りの中にとどまり続けている状態なんだと思います。しかし、その沈黙が破られて実行に移される時、そのことが実現する時がいつか必ず来ます。

 これからの時代は、今までになく厳しい時代になって行くかもしれません。できることなら、そうならないでほしいと願います。ですが、そのような時代にあってこそ、宣教のチャンスが訪れるものです。聖書のことばに心を開く人々が出てきます。みなさん、人々に福音を語るために備えましょう。祈り、聖書のことばに親しみましょう。神様とその導きを求め、平安と希望を得て強められましょう。そして、人々に福音を語りましょう。人々を導く者として立つのは、いまここにいるお一人お一人なのです。オープン・ドア・チャペルの人数が増えれば、教会を二つにしなければなりません。そのために、備えましょう。祈りの中にもうしばらくとどまらなければならないかもしれません。しかし、そうだとしても、信じて備えていきたいと思います。それではお祈りします。