審判における羊

2024年5月19日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

マタイの福音書25章31〜46節 

「審判における羊」

 

 オンラインと対面でご一緒くださるすべての方々、今日も私たちの心を再び神様の言葉に向けて行きましょう。神様が語られる時に私たちが心を開いて耳を傾ける時、私たちはどこにいても神様の臨在の中にいることができます。それがなんと幸いな特権であるかを覚えつつ、今日示されるイエスの物語を通して神様に近づいて行きましょう。

 今日は「イエスが賞賛した人々」の最後のメッセージです。聖書からこれらの物語を学ぶことが、皆さんの魂を養い、人格形成と霊的な成長、そしてキリストを介して神との関係を作る過程で皆さんの助けになってきたことを祈ります。私はこれらのメッセージを準備したとき間違いなく豊かにされ、祝福されました。

 

 覚えておられるかもしれませんが、マタイ25章を構成する最後の3つの物語は、全て世界の終わりをテーマにした一連のたとえ話です。1つ目は、結婚式のお祝いで10人の花嫁介添人を描写することで、終わりの時の準備に焦点を当てています。2つ目は、私たちの主人の財産を管理するためにさまざまな金額を与えられた使用人として、私たちが実際に自分たちの人生を生きてきた方法にスポットライトを当てています。3つ目は、終末そのものと審判に重点を置いています。

 

 イエスははじめにご自身について語り話を始められます(31節)。「人の子は、すべての栄光を帯びて来る。」このすべてのことはどこで起こるのでしょう? イエスは31章で「来る。」と言われているので、それはこの地上のように聞こえます。しかしイエスは「天の栄光の御座に座る」のです。私たちは天と地を異なる場所と考える傾向がありますが、イエスは私たちに「御国を来らせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ。」と祈るように教えておられます。聖書によると、「天にあるものを地に」もたらすことは、神とその民のための人生の重要な目的の1つです。だから、結局のところ天と地は必ずしも異なる場所ではないのかもしれません。イエスが再臨され、この世での生活が終わったときにのみ、私たちはいくつかの重要な方法で完全に天国に住み始めます。しかし、神の御国に住むことを学ぶプロセスは、そのずっと前に始まっています。私たちは、救い主であり主であるキリストとの関係に入るとすぐにそのプロセスが始まるのです。そのような観点から見て、それはどこで起こるのでしょうか?  これは実のところ正しい質問ではありません。それは、王である神の臨在の中で起こります。それが重要なことです。

 

 そこで何が起こるのでしょう?「そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分けます」(32節)。この物語を読めば、私は山羊ではなく羊になりたいと思います、そうですよね。神はある動物をその他の動物より好む、左よりも右を好む、または金持ちに比べて貧しい人々を好むとイエスが語っておられると理解するのは間違いです。彼は単に日常生活からこれらの様々な視覚的イメージを用いて、霊的な世界と私たちの信仰生活についてある特定の要点を作っておられます。

 

 皆さんは、英語のgoat(山羊)という言葉が否定的なニュアンスで使われているのを聞いたり読んだりされたことがあるかもしれません。例えば、「彼は9回の裏満塁の場面でファイターズを勝利に導くチャンスがあったが、ヒーローになる代わりに、三振して山羊になった。」とかです。

goatにはまったく異なる意味もあります。つまり、g-o-a-tは「great of all time(史上最高」を意味しています。それは多くの人が喜んでなりたいと思うような山羊ですね。

 

 イエスが32節で「羊」と「山羊」について話される時、イエスは動作を表す言葉ではなく、識別を表す言葉を用いられます。羊は羊のことをし、山羊は山羊のことをする。誰も彼らにそのような特定の方法で行動するように言ったり、強制したりする必要はありません。彼らの行動には時々多くの重複があるかもしれませんが、本質的に同じではありません。イエスは私たちに良いことをし、心無い状態になることを避けるように言われているだけではありません。彼の教えはそれよりも深い。彼は、私たちがしていることは、私たちが誰であるかということから、また私たちの人生の過程で形作られた心の性格、習慣から自然に出てくることを知っておられます。彼は、私たちが真に望むこととして、悪をしないように自分自身を抑制できる人になることを望んではおらず、私たちが実際に良いものを愛し、喜んで自由にそれを選んでする人であることを望んでおられます。

 

この物語は、神の多様性、公平性、包括性の多くを示していると言えます。私たちは最近、DEI(ダイバーシティ・エクイティ・インクルージョン、『多様性・公平性・包括性』)について多くのことを聞いてきますが、真に人の繁栄につながるこれら多様性、公平性、包括性の種別について多くの熱い議論と深い意見の相違があります。しかし、神は、あらゆる種類の人々がいつか私たちの人生の終わりに同じようにご自身の前に立つと言われます。そして、私たちはそれぞれ、慈悲深く、深い理解をもって、また同様に厳格な正義をもって、神によって裁かれるのです。

 

 そもそも、なぜ羊飼いは羊と山羊を分けるのでしょうか?  すでに見たように、ともかくイエスは反山羊とかそのようなお方ではありません。あらゆる種類の動物は神の創造の一部であり、神によって愛され、世話をされています。イエスはここで特定の点を指摘して、ご自分の話を聞く人が、毎日羊飼いの仕事を見る時に人生における単純な事実として理解できる事を教えられています。 

 

 信仰のあつい作家であるパメラ・パーマーによると、羊は喜んで従い、羊飼いを必要とするように作られ、他の羊と一緒にくっつきあいます。この言葉は、私たちが進んで神の導きにより頼み、励ましや支援、霊的な成長のために他の信者とのコミュニティに住まう必要があるという点において、キリストに従う者を表しています。

 

 一方、山羊は頑固で独立しており、(羊とは異なり)簡単には喜んで導かれません。不信者を説明するためにこの言葉を使用してイエスは、彼らが頑固で信じようとせず、神がいなくても大丈夫だと考えていると言われ、一般的にご自身に熱心に従って来ない者たちであると言われます。

 

 実用農業論の著者であるグレゴリー・ゲインズは、山羊は非常に多種多様な食べ物を食べるので、羊飼いが羊の群れのために設定した場所には、とどまらない傾向があると言います。彼らは食べ物を探しにどこへでも行く傾向があります。一方、羊は一般的に群れと同じ場所にとどまり、はるかに限られた食事として草や同様の食べ物を食べます。羊と山羊の両方が食に銅を必要としますが、山羊の通常食べる量を羊が食べると時間の経過とともに羊は死んでしまいます。山羊はまた、攻撃的であり、場合によっては羊と問題を起こすことがあります。したがって羊飼いは、これらの実用的な理由で、群れの囲いから草がたくさんある野原に出す前のような場合には羊と山羊を分けるのです。

 

 33節で、イエスは「彼は羊を右に置き、山羊を左に置く」と言われます。彼は金持ちを右手に、貧乏人を左手に置くとは言われません。彼は、高度な教育を受けたエリートを右手に置き、学校にあまり行かなかった人々を左側に置くとは決して言われません。そうではなく、彼は敬虔な人を右手に置き、よこしまな人を左手に置くと言っておられます。その後、他のすべての分け方と細かな分け方は一掃されます。しかし、人々を救われた、救われていないという大きな分け方は、人を助けることに忠実であるか、不誠実であることによって示され、それが永遠に残ります。そして、私たちが永遠を過ごす場所はそれによって決定されます。

 

 イエスの物語は遠い未来に手を差し伸べるだけでなく、実際には遠い過去にもさかのぼります。審判の日に、彼は羊(34節)に言われるでしょう、「さあ来て、御国を継ぎなさい。それは世の初めから、あなた方のために備えられていたものです。」。

 “人間であることはどういう意味か?“ そして、“なぜ私はこの世にいるか?“ 人生におけるこれらの2つの基本的な質問に対する答えを皆さんは見つけられましたか? ここでイエスは、私たちの答え、つまり私たちのアイデンティティと目的を見つけるのに役立ついくつかの明確な教えを与えて下さいます。自分自身を理解せず、どこに行くのかを知らずに、私たちが人生を生きなければならないという無知から私たちを救って下さいます。私たちの人生を通して、そして私たちが生まれるずっと前から、私たちの愛する天の父は私たちのために計画を持っておられました。天の父は私たちがご自分の子供として生きて、御国で私たちと分かち合いたいと思っておられます。

 

 私たちには、お金やこの世のものをはるかに超えたとても豊かな遺産が用意されています。それは、すべてのものの創造主である神との関係に基づいています。私たちの命はもっとも重要な方法においていつも神の御手の中にあり続けました。迷いの中にいる、あるいは孤独を感じたりした場合、ここにいつでも戻ってこれる基本的で元気を与えてくれる真実があります。皆さんの本当の家は「世界が創造されて以来、皆さんのために準備された王国」において天の父と共にあるのです。

 

 もしそれが本当なら、私たちは喜びと希望を持って生きる強い理由があります。そして、心配や恐怖に時間を費やす理由はありません。どのような根拠に基づいて、私たちにはそのような素晴らしい場所が許可されているのでしょう? イエスの理由は35〜36節に見ることができます。

 

  あなた方は、わたしが空腹であった時、わたしに食べるものを与え、わたしが渇いていた

 時、わわしに飲ませ、わたしが旅人であった時、わたしに宿を貸し、わたしが裸の時、わたし   

 に着る物を与え、わたしが病気をした時、わたしを見舞い、わたしが牢にいた時、わたしを訪

 ねてくれたからです。

 

 そして、同様に42〜43節でキリストは、「山羊」がとらなかったこれらの特定の行動をリストアップしておられます。これらは彼らに対する処罰の理由です。

 

 35〜36節の良い行いは、多くのお金がかかるものではありません。意志があれば、困っている人々を積極的に支援する動機となる愛があれば、私たちは皆、少なくともそれらのいくつかを行うことができます。誰も助けない言い訳をすることはできません。

 

 そして、再び、特定の行為を持ち出す前に、イエスはすでにアイデンティティに焦点を当てておられます。それらは羊と山羊です。そして、彼らが誰であるかということが、彼らが何をするかについて皆さんが知る必要のあるすべてを教えてくれます。イエスが信仰による救いに関する他のすべての新約聖書の教えを捨て、人々が天国という報酬に値するのに十分な善行を行うことに基づいて救いのシステムを設定したと考えるのは、基本的なレベルの間違いです。優しさと善の行為は、私たちが救われる理由ではありませんが、私たちが救われているという信頼できる証拠です。

 

 イエスは、私たちが人々と接する仕方は、人々と私たちの間の個人的なつながりをはるかに超えた意味を持っていると説明し続けておられま。40節で 彼は、「あなたが私のこれらの兄弟の中で最も小さい一人にしたことは何であれ、私のためにしたことである。」と付け加えられました。キリストは、私たちが気づくよりも多くの方法で私たちの生活に存在し活動されています。皆さんが彼をそのように考えるとき、イエスがヨハネ8章12節で「私は世の光です」と言われ、マタイ5章14節で「あなたがたは世の光です」と言われる理由について理解し始めることができます。使徒の働き9章でサウルがダマスカスへの道で復活したキリストに出会う物語においてもイエスが意味されることの意味を知ることができます。サウルはイエスをその目で見たことがなかったが、クリスチャンをひどく迫害してきました。そこで(5節) サウルはイエスに「主よ、あなたは誰ですか?」と尋ねます。 そして答えは来ます。“わたしはあなたが迫害しているイエスである。“ と。

 このことは、信仰によってイエスを受け入れる一人一人の心にイエスの家を作るために来られるキリストについて非常に重要なことを教えてくれます。私たちが人生を楽しむとき、イエスはそれを自分の喜びとして受け止められ、私たちが苦しむとき、彼は私たちと一緒に苦しまれます。

 

 私のお気に入りの物語の1つは、レフ・トルストイの「愛のあるところに神あり(Where Love Is, God Is)」です。この本を読んだり「靴屋のマルチン」というビデオ版を見たことがある方は手を挙げてください。ここでその物語を語りませんが、孤独な年老いた靴屋の見た夢についての物語です。その夢の中で、キリストは彼を訪ねるつもりだと言われます。物語の残りの部分は、そのことが予期せぬ方法で起きることについてです。ご一緒に見る時間を作れるといいと思います。

 

 困っている人々がどこにいても、イエスは彼らの中で私たちの優しさを受ける準備ができておられます。今私たちは、あるクリスチャンが「すべての人々の中におられるキリスト」と呼ぶものに入って行っています。「私のこれらの兄弟」とは誰のことでしょうか(40節)? すべての人が兄弟姉妹であるという広い意味はあります。 私たちは皆、常に同じ天の父によって完璧に作られ、愛されています。それは共通の人間性として私たちを結びつけます。しかし、イエスが新約聖書でこのように兄弟という言葉を使われるときは、通常、すべての人について話しておられるのではなく、喜んでご自分に従っている人々について話しておられます。ですから、今日のお話におけるイエスのお言葉はご自分を信じて従う者(男性、女性、子供)について言われていると理解するのがおそらくより正確です。イエスはその他の者を排除するのではなく、救い主、そして主として共に生きる人々に特に焦点を当てているのです。

 

 では、イエスに従う人々は、食べ物、飲み物、住宅、服、医療、友情の不足にどのように苦しんでいるのでしょうか? 聖書学者のドン・カーソンは、この過去150年間の間、その前のすべての年を合わせたよりも、多くの人々がキリストの信者になればなるほど、従うために迫害されている人も増えていると指摘しています。ですから、私たちを本当に必要としている私たちの周りの人々の中に救い主である主を見つける機会がこれまで以上に多くあるのです。

 

 どのようにしたら、そうできるのでしょう? 私たちの次のバイブルディスカッションの時間は、それについて一緒に話して、具体的な例を見つける機会を与えてくれるかもしれません。

 それは簡単なことかもしれません。例えば、私は提出期限前に博士号論文を書き終えようとして、大きなストレスを感じていた学生を知っています。しかし、電話が鳴り続け、気が散ってしまいそれが困難になって、彼は電話が鳴る音を嫌い始めました。しかし、その後彼は「電話が鳴ったときに、誰からなのかと思うとき、自分自身に「それはイエス様が呼んでいるんだ」と言うことにしました。そして試してみたところ、それは彼が電話の応答に感じていた気持ちに大きな違いをもたらしました。自分が愛を知り、キリスト自身に仕えるチャンスのため人々が電話をしてきていると思ったとき、それらはイライラの気が散るものから貴重な機会へと変わり始めました。

 

 ここに別の可能性があります。数週間前、札幌に住んでいる私の10年来の知り合いについて皆さんにお話しました。彼女はアパートから引っ越さなければならないのですが、引っ越し代金を払う十分なお金がない。それは非常にストレスの多い状況になっていました。

 

 祈りながら考えた中で、1つのアイデアが頭に浮かびました。私は去年のクリスマスプレゼントとして一足の靴をもらいましたが、試着すると小さすぎました。私は交換してもらおうとアメリカのオンラインストアと話しましたが、彼らはその要求を断り、その靴を購入した私の家族に返金した方が良いと答えました。そしてそのようになったので、今、私には履くことのできない(そして誰かに譲ることもできない)完全に良い靴があるのです。そして私にはオンラインで物を売るのが大好きな家族がいます。彼女は私の靴を売って、私が今言った方の引っ越し費用を支払うためそのお金を使ってもらうことに賛成しました。これについてもっと話した後で、私たちは、私たちのアパートで、スペースを占有し、ほこりかぶっている、この同じ目標のために売れる他のものがあると気がつきました。キリストの名においてこの方を助けるために何ができるか試してみたいと思っています。

 

 このようなことに参加したいと思われる方はいますか? もしそうなら、私に知らせてください。このプロジェクトの資金調達のため、数年前にオープンドアで行ったように教会のバザーをするのも良い考えだと思われるなら、相談することもできると思います。たぶん、皆さんは私たちの周りの人々の中でキリストに仕えるために私たちがどのように協力できるかについて別の考えを持っておられるかもしれません。皆さんがそれをするのなら、私は聞きたいです。

 

 もちろん、少なくとも不都合な理由は常にあります。私たちの教会は、リベリアの姉妹教会の建設プロジェクトを支援する寄付をまだ完了していません。私たちはまだ、私たちの教派の牧師の退職基金のために献金するという約束を守る必要があります。しかし、神が皆さんを、皆さんの家族を、または私たちの教会を、信仰の一歩を踏み出して、今私たちの前にある特定の必要を満たすように導いておられると感じたら、私に知らせてください、いいですか?

 

 イエスの話、つまり過酷で怖い部分に戻りましょう。41節で、イエスの山羊へのメッセージは次のようになると述べています。「わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠に燃える火に入れ。」です。34節に戻りますが、イエスは、天の御国、神の王国は、他人を助けることによって信仰を示す人々のために準備されていると言われます。しかし、ここ41節では、他の人を助けが必要な時に助けなかった人々のために創造の初めから、この火が準備されたとは言っておられません。それは悪魔と彼の天使たちのために準備されているものです。それは、神が人間である私たちのために持っておられる夢、希望、計画について重要なことを教えてくれます。神様の愛情のある配慮から離れて、誰かを地獄に送ることは、神様の願いやご計画ではありません。私たちはペテロ第二の手紙3章9節で、「主は一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」 地獄の現実は、神がそれを望んでいるからではなく、人が信仰を通して救いと命の贈り物を受け入れることを拒否した結果としてのみあります。

 

 イエスはこのたとえ話の最後に裁きの言葉を与えられます(45節) 「お前たちが、このもっとも小さい者たちの一人にしなかったしなかったのは、わたしにしなかったのです。」 その後、これらの人々について(46節)、「. . .この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちちは永遠の命に入るのです。」 私たちは誰が真の信仰を持っているのか、誰が実際に救われ、誰が救われないのか、誤って判断するかもしれませんが、神は正しく判断されます。

 

 私たちの仕事は、まだ時間があるうちに、私たちの周りの人々に救われる可能性についての福音を伝えることだ、とキリストは言われます。このように教会に立って、必要性について話すだけでは不十分です。言葉だけでは不十分です。本当の信仰は優しさと寛大さの行為につながります。私たちの言葉と行動によって行われる愛を通して、福音のメッセージは神様のリーダーシップの下で人々に現実のものとなるでしょう。

 

 これは良いニュースでしょうか、それとも悪いニュースでしょうかすか? それはもちろん、これに対する私たちの反応によるでしょう。すなわちこの物語を語られるイエス様ご自身に対する反応です。しかし、イエスは私たち一人一人とすべての人に対するご自分の深い願いを示す希望に満ちた話で終わらせます(46節)。「しかし、正しいことをした者は永遠の命に入るのです」「何が正しいかを理解した人が」または「. . . . 正しいことを意図した」または「言った」または「計画した」ではありません。それを「行った」人です。

 

 私たち自身とそのほかの多くの人々が、救いを得させる神の愛の力の中で人生を生きてきた人々の中に数えられることを祈りましょう。

 

 優しい慈しみと正しい裁きの神様、私たちの周りの人々の生活の中であなたが働いておられるのを見る目を私たちに与えてください。気遣いや理解のための心を与えて下さい、あなたの真実を語る唇、そしてあなたへの私たちの愛を示すために働く手を与えて下さい。そしてそれが、あなたがあなたの名前で私たちに送ってくださる一人一人のためになりますように。その偉大な名前で祈り、お願いします。アーメン。

 

参考

Carson, D. A. (2012, March 25). The Parable of the Sheep and the Goats. The Parables of Jesus. The Gospel Coalition. https://www.youtube.com/watch?v=sBKfEUNaTE0 Gaines, G. (2024, January 10). Why Does a Shepherd Separate Sheep from Goats. https://www.farmanimalreport.com/2020/07/26/why-do-sheep-and-goats need-to-be-separated-differences-explained/ Palmer, P. (2023, April 21). Why Does Jesus Say He Will Separate the Sheep and the Goats? Bible Study Tools. https://www.biblestudytools.com/bible-study/topical studies/why-does-jesus-say-he-will-separate-the-sheep-and-the-goats.html