イエス様が天国への道だ!

2024年3月31日イースター礼拝「イエス様が天国への道だ!」ヨハネ14:1~6佐々木俊一牧師

■イエス・キリストはきのうも、きょうも、いつまでも、私たちの希望です。死の力を打ち破りよみがえられました。そして、今も生きておられます。

 ずっと昔から、多くの人々が「死」について論じてきました。「死」について共通して思うことは、死に対する不条理です。なぜ人は生まれて、そして、死ななければならないのか、その理由がわかりません。死んだらどうなるのか、考えれば考えるほど心は暗くなります。「死」は、人間に絶望感と恐怖感を与えてきました。ですから、死についてはあまり考えないほうがよいというのが日本人の一般的な考え方だと思います。

 しかし、イエス様は「死」という暗闇の中に、光を灯してくださいました。その光のおかげで、「死」はもはや恐いことではないということがわかってきました。もちろん、恐怖心がすべて取り除かれるわけではありません。未体験のことについては、誰でも恐怖心を持つものです。そうだとしても、イエス様のおかげで以前のような恐怖心はなくなりました。

 イエス様は十字架に死んで3日目に復活しました。信じられない話ですが、本当の話です。現代は、偽装や詐欺が当たり前のような時代になってしまいましたが、イエス様の時代においても同じように偽証や偽装工作が行われていました。興味深い記事が、マタイ28章にあります。イエス様が復活されたとき、イエス様の復活が偽装工作に思われるように、ユダヤ人の偉い人たちが偽装工作を行ないました。彼らはローマ兵に多額のお金を与えて、イエスの弟子たちがイエスのからだを盗んで行った、と証言するようにしたてたのです。この話が事実として広くユダヤ人の間に広まってしまったのだ、と聖書は言っています。

■それでは、今日の聖書箇所を読んでみましょう。「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」ここで、イエス様は三つのことを言っています。まず一つ目は、「わたしは道です。」ということです。わたしとは、イエス様ご自身のことです。

1)イエス様は「道」です!

 イエスは彼に言われたと書かれていましたが、彼とは誰のことでしょうか。前の節を読んでみると、それは、トマスであることがわかります。あの疑い深いと評されているあのトマスです。トマスはイエス様に何と質問をしたのでしょうか。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエス様とトマスの会話がかみ合っていないのがわかると思います。それは当然です。トマスにとって、イエス様が十字架にかかってこの地上からいなくなってしまうなんてことは予想もしていないことでした。イエス様は、この地上にユダヤ人のための国を作ってくださるのだという計画をしっかりと握っていたのです。イエス様がヨハネ14:1~4で言っていることは、もうじきこの地上を去って父なる神のおられる天に行かれるということです。その目的は、「あなた方のために場所を備えに行くことだ」、と言っています。そして、「場所を備えたら、またこの地上に戻って来てあなたたちを迎える」、とも言っています。また、イエス様は、「わたしの行く道はあなたがたも知っている」、と言うのです。でも、トマスには何のことかわかりませんでした。イエス様の行く道とはどんな道なのでしょうか。

イエス様の行く道とは、父なる神のおられる天の御国に通じる道です。また、人々の救いのために十字架に向かう道です。そして、イエス様は、「わたしが道だ」と言うのです。その道は、人が天の御国に行くために通らなければならない道です。イエスを救い主と信じている者がこの地上で生きて行くとき、イエスを信じているゆえに、時には厳しい道を通らなければならないことがあります。けれども、ここで言っている道とは、イエス様を通してでなければ、だれひとり天の御国に行くことはできないのだ、ということです。天国へ通じる道を設けてくださったのがイエス様なのです。ですから、イエス様は、「わたしが道だ」と言ったのです。

 マタイ27:51に、「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。」と書いてあります。イエス様が十字架上で大声で叫んで息を引き取られたとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けました。神殿の幕とは、聖所と至聖所を仕切る幕のことです。その幕が上から下に向けて裂けたということは、その出来事が人の手によるのではないということです。へブル10:20を見てみましょう。マタイ27:51に関係のある箇所です。  

 「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの『新しい生ける道』を設けてくださったのです。」と書かれています。以前は、神殿の奥にある聖所と至聖所を仕切る垂れ幕を通り抜けて、自由に神様に近づくことはできませんでした。年にたった一度だけ、大祭司が民の罪を赦してもらうために、小羊の血をたずさえて入ることができただけです。マタイ27:51にある神と人とを隔てていた神殿の幕は、上から下まで真二つに引き裂かれました。それは、イエス・キリストのからだを象徴的に表している出来事です。イエス・キリストのからだが引き裂かれ、打ち砕かれることによって、神と人とを隔てていた垂れ幕が取り除かれたことを意味しているのです。そして、イエス・キリストによって、いつでも自由に神様に近づくことができるようにされたのです。それは、私たちがイエス様をとおして、父なる神のおられる天の御国に入ることができることをも意味しています。そういうことで、イエス様は天の御国に通じる「道」と言えるのです。

 二つ目は、「わたしは、真理です。」ということです。

2)イエス様は真理です!

 かつて、イエス様は、ローマの総督であるピラトの前で、「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです」、と言われました。それに対して、ピラトは、「真理とは何ですか」、と尋ねました。イエス様の答えは、聖書には見られません。このとき、イエス様の答えはなかったのか、それとも、あったけれども、聖書には書かれなかったのか、はっきりしたことはわかりません。でも、イエス様がはっきりと言っていることは、「イエス様が真理である」、ということです。真理とは、本当のことです。イエス様が真理であるということは、イエス様が語っておられることが偽りではなくて、本当のことだということです。

 以前、新聞の記事に、「あの世」を信じている人はどれぐらいの割合か、というのがありました。今から10年前に統計数理研究所というところが出したものです。20代で45%が「あの世を信じる」と答えました。60年前にも同じ調査をしていて、その時は、20代はたったの13パーセントの人しか「あの世を信じる」と答えなかったそうです。45%と13%ですから、現代と60年前の若者の考え方は随分違うように思われます。現代の若者は、世の中に希望や夢を持てない状況に置かれているからでしょうか。そのために、あの世に期待する思いがあるのかもしれません。かたや、70歳以上は、10年前では31%、60年前では37%でした。「あの世」を信じている70歳以上の方々は減少してきているということです。

 死とか、あの世について論じた人はたくさんいます。ネット上では臨死体験者の話は珍しいことではありません。しかし、本当に信頼できる情報であるとは思えません。また、世界には三大宗教と言われるものをはじめ、多くの宗教が存在します。けれども、創始者のほとんどは死んでしまいました。今も、これからも、たぶん死んだままでしょう。しかし、イエス・キリストは死んでよみがえられました。そしてまた、この地上に戻って来ると約束して天に戻られたのです。死んでよみがえった方の言っていることと、死んでそのままの方が言っていることのどちらに説得力があるでしょうか。どちらを信頼するでしょうか。どちらを選ぶでしょうか。イエス様は、「わたしは真理です」、と言われました。私はイエス様のことばを選びます。

 三つ目は、「わたしは、いのちです。」ということです。

3)イエス様はいのちです!

 ヨハネ6:48に、「わたしはいのちのパンです」、とあります。イエス様はいのちを与えることのできるお方なのです。ヨハネ6:51に、「わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」、とあります。イエス様は永遠の命を与えることのできるお方なのです。ヨハネ6:52からさらに読み進めて行くと、イエス様の話を聞いた弟子たちの多くが、「これはひどい話だ」、と言って、イエス様のもとを去って行ったことが書かれています。53節と54節にはこのように書かれています。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」永遠の命を受けるためには、イエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲まなければならないと言っているのです。文字どおりのことを実際に行なうとしたら、実にひどい話です。しかし、これは、比喩です。イエス様は真理を教えるときに、よく比喩的表現やたとえ話を用いました。

 このところを読んで、何か思い起こしませんか。これは、主の晩餐式です。主の晩餐式で、パンはイエス様の引き裂かれたからだを、そして、ぶどう酒はイエス様の流された血潮を表しています。イエス様は私たちの罪の代価を支払うために、十字架に架けられて死なれました。主の晩餐式とは、そのとき引き裂かれたイエス様のからだと流された血潮のゆえに私たちの罪が赦されたことを覚えるために、また、神と自分の間にある契約を思い起こさせるためにあるものです。63節に、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」とあります。大切なことは、イエス様のことばであり、イエス様のことばを聞いて、イエス様が救い主であることを信じることです。そして、信じる者には永遠の命を与える御霊が与えられるのです。ですから、イエス様はいのちなのです。

■イエス様は、神と人との間に立って、両者の和解を成し遂げてくださいました。神様は人間の罪に対する怒りとその責任をイエス・キリストに負わせました。イエス様は罪の後始末を人間に代わってしてくださったのです。しかし、罪の後始末をして死んで終わったのではありません。三日目によみがえられました。そのことを信じる人は、神様との間に和解が与えられ、神様との関係を回復することが出来ます。神様との関係を回復した者は、死んだとしても神様との関係が回復しているので神様のおられる天の御国に行くことが出来ます。そして、終わりの日によみがえります。けれども、神様との関係を回復していない者は、神様との関係がないゆえに神様のおられる所には行くことが出来ません。これは、大変悲しいことです。多くの日本人が誰でも死んだら天国に行くと思っています。しかし、聖書は、神様と和解し、神様との関係を回復していなければ神様のおられる所には行くことはできない、とはっきり書いてあります。

 イエス様は言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と。死んだままのお方ではなくて、死んで復活したイエス様のことばを信じましょう。イエス様が天国への道であることを信じましょう。それではお祈りします。