5人の賢いブライズメイド

2024年3月17日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

マタイの福音書25章1〜13節

         5人の賢いブライズメイド(花嫁介添人)

 

  オンラインでまた直接、今日の礼拝に参加されている皆さん、こんにちは。特にこの2、3週間、アメリカへ出張に行って来た後、また皆さんとご一緒できて嬉しいです。私がいない間、私の肩代わりをして下さった佐々木牧師をはじめとする皆さんに感謝します。

 

 今日も、メッセージシリーズ「イエスが賞賛する人々」を続けていきましょう。私たちがこれまで見てきたそのような男性、女性は、イエスが実際に出会い、さまざまな理由で称えられた人々でした。しかし私には、皆さんと一緒に探索していきたいことがあと三つあります。それらのすべては、イエスがマタイの福音書25章で語られている一組になっている三つのたとえ話にあります。彼らは、キリストが個人的に知っておられたどの個人よりもその典型的な人々です。

 

 最初は、五人の賢明な花嫁介添人のような人です。今日の私たちの生活を導き、豊かにする彼らの教えを理解するためには、物語の文脈を見ることが必要です。マタイの福音書24章を通して、イエスは世界の終末に関して何を期待すべきかを弟子たちに伝えてきました。彼が十字架上で死なれ、蘇り、天に戻られるのはほんの短い時間です。だから、イエスはご自分を信じる者が物理的にイエスがおられない人生を送る準備を彼らと共にされています。

 

 すべての人と同様に、彼らは人生の全体像の中でどこに行くのか、また、来るべき喜びだけではなく試練にも備える方法を知る必要があります。聖書のイエスの弟子たちのように、私たちもまた、それが世界の終わりであろうと、最終的に来る自分の肉体的な死であろうと、または日々の難題である教育を受けたり、健全な友情を築いたり、退職のために貯蓄すること等その他の私たちの最高の人生の備えのため役立つことに対して準備する必要があります。ですから、この物語は「永遠」ということだけでなく、今、ここでのことに関するものでもあります。

 

 キリストは、弟子たちに彼らの周りで起こるすべてのことを理解するために十分に役立つ世界観を与えておられると言えます。キリスト教の歴史観、世界観の重要な部分における、その方法の一つは、創造、堕罪、回復、救済の四つの重要なテーマがあるということです。イエスはすでに、彼らが神によって作られ、愛されていることを教えられました。彼らは、神と人々との関係、まさに人が創造された目的であったそれを罪が壊したことを理解しています。しかし、十字架と復活を通して、イエスはすぐに人間が私たちの天の父と、そして他者との正しい関係に戻るための道を作られます。それは創造、堕罪、救済をカバーしています。

 

 しかし、回復のためには最後のステップがあります。神は、罪が世界に入る前の平和で自然で美しい方法に物事を復元する過程の中におられます。神はすべてのものを新しくされます。神に出会って救われた時から、私たちはそのプロセスの一部となっています。しかし、それはしばらくの間、継続するのです。私たちは善と悪の闘争が日々続いているのを見ていますが、ある時点で、神はそれを結論に導くでしょう。キリストは再び来られて、世界の人々を裁き、ご自分に属すると主張される者達をご自分と共に天国に連れて行ってくれます。それがキリストの約束です。私たちがそれを受け入れれば、私たちの人生は無作為でなく、最終的に無意味でもなく、意味と目的を持ちます。私たちは日々向かっている目的地を持ちます。それはキリストの福音の一部ですが、クリスチャンでさえ、しばしば忘れたり誤解するのです。

 

 物語自体に入る前に、全体像を把握するのに役立つ別の言葉として、イエスは(1章)「天の御国はこのような者です、 . . .」と始められます。そこには再び天の御国、神の王国という、すべてのキリストの教えの中心的なテーマがあります。今日の物語の非常に重要な目的は、キリストを信じ従う者達が王である神と共に平和と善の世界で永遠に生きる準備ができる人々になれるよう助けることです。それは、私たちが神の王国にふさわしい人々になり、この失われ、死にかけている世界にそれを持ち込もうと学ぶ時に、この世界の今ここで始まるのです。

 

 このメッセージを伝えるために、イエスは結婚式とパーティーのイメージを用いられます。当時のイスラエルでは、結婚する男性は友人と一緒に花嫁の家に行くのです。彼が到着する時間は決められておらず、到着する時点が到着なのです。花嫁は友人の花嫁介添人と一緒に彼を待っています。花嫁介添人は道を照らすためにランプや松明を手に持って外に出ています(ここで使用されているランパスという言葉は、どちらかを意味します)。そして新郎と花婿介添人は新婦の家に到着し、結婚式やお祝いへ花嫁と花嫁介添人と一緒にパレードをするのです。

 

 物語の中の新郎、または花婿介添人(1節)はイエスを表す象徴です。これは、聖書のさまざまな場所で使用されているキリストを描写する言葉です。

 

 イエスはニ種類の人を対比されています。まず、「愚かな」花嫁介添人(2節)。聖書は、これらの五人が「モライ(morai)」であると言っており、そこから「moron(英語、低脳なもの)」という言葉になりました。誰もバカと呼ばれたくないですよね? しかし、それは必ずしもこれらの人々の脳の処理速度が遅いとか何かだという意味ではありません。この言葉がしばしば翻訳される別の仕方は、不道徳な人、または神を認めない人を表すことです。神への信仰によって生きることは良いことであるだけでなく、賢明なことでもあります。それは理にかなっています。それは聖書の全てを知っておられる神の教えの一つです。私たちがそのことを選択して生きるとき、私たちは多くの不必要な苦しみやトラブルに備えることができます。

 

 二つ目は、「賢明な」花嫁介添人(2、4、8節、フロニモスphronimosという言葉から)です。イエスは、誰かを「賢い」と言われるとき何を意図されるのか、すでに私たちにいくつかの考え方を与えて下さっています。マタイ24章45〜46節では、彼はすべてのしもべが整然と食事を得るように、主人が食事を管理する仕事を与える使用人のたとえで同じ言葉を用いられました。マタイ24章45〜46節でイエスはこのように言われます。

 

 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちん

 と与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったい誰でしょう。主人が

 帰ってきた時に、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。

 

 ここで賢明であることは、単なる思考処理の知性ではなくて、忠実であることと関連するものです。これは、イエスが私たちに準備するように言われるとき、何を意味するかについていくつかヒントを与えてくれます。目を覚まして、警戒し、準備し、賢明であることとは、神があなたにするように与えられたこと、すなわち特にあなたの周りの人々を助けることを意味します。それは、主があなたがそうなるようにと教えられた人物像であって、天の御国で永遠に神の御前にいることを楽しむことができる人に成長し続けることを意味します。

 

 マタイ24章の次のセクションが示すように(48〜51節)、準備ができていないということは、利己的で近視眼的に生き、おそらくその瞬間を楽しんでいるが、自分の周りの人々のニーズに注意を払わず、彼らの必要に応じるために働かず、敬意を持って人々を扱わないことを意味します。イエスは次のように述べています。

 

 ところが、それが悪いしもべで、「主人はまだまだ帰るまい。」と心の中で思

 い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めている

 と、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰ってきます。そ

 して彼を厳しく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありませ

 ん。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

 

 そして、10人の花嫁介添人のたとえに続く物語で私たちは、賢明であること、または準備ができていることなどが何を意味するのか、より多くのヒントを得ることができます。さまざまな種類の賜物を与えられた人々の物語(25章14〜30節)では、準備ができているということは、自分に与えられた賜物を積極的かつ生産的に使用していたかどうかを意味します。この中には、将来きたるもののために自分のできる限りの準備をすること、すなわち積極的(自発的)に待つことが含まれています。賢明であることは、率直に人生を楽しむ準備ができており、主導権を握ったり、または統治する準備ができていることを意味します(21、23節)。その後の物語には、羊飼いである神が人々を羊とヤギに分けられます(25章31〜46節)。そして準備ができていると言うことは、あなたの周りの人々(空腹、喉の渇き、見知らぬ人、服を必要とする人、刑務所にいる人等)の必要に対してお世話することを意味します。

 

 五人の賢明な花嫁介添人の物語で、彼らに関する重要なポイントは、彼らが「油」(3、4節)を準備し、他の人は準備していないということです。さて、「油」は何を意味するのでしょう? さまざまな聖書の教師や説教者が言うことを読んだり聞いたりして、皆さんは彼らが多種多様な方法でこれを説明しているのを見ることができると思います。それらは聖書の至る所に出てきます。それを聖霊と呼ぶ人もいれば、信仰と呼ぶ人もいます。また健全な知識、神との関係を保持すること、恵み、またはその他のものと言う人もいます。イエスはご自分の考えておられることを正確には説明しておられませんが、私の理解では、これらすべてが聖書に基づく真実を持っていると思います。私はそれらのどれをも完全な間違いと言うことができませんでした。私にとっては、おそらく「神との関係を保持すること」がよく言い表しているものと思います。

 

 ですから、それは何にもまして、私たちが持っているかどうか確認する必要があるものです。しかし、この物語では、賢明な人々についてさえ不思議なことを教えてくれます。他の人と同じように、彼らは「眠りに落ちた」(5節)のです。オリジナルのこの言葉は、私たちが通常毎晩休むために行うように、物理的に眠ることを意味しています。あるいは、怠け者や無関心であることを意味するかもしれません。しかし、それは死ぬことを意味することもあります(この場合は婉曲表現)。例えば、第一テサロニケへの手紙4章13節(ニューインターナショナルバージョン)で使われているようなものかもしれません。

 

 眠った人々のことについては、兄弟達、あなたがたに知らないでいてもらい

 たくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むこ

 とのないためです。

 

 初期のキリスト教会の多くの人々は、ブライズメイドの物語のこの部分が肉体的に死ぬことについて話していることを理解していました。私は、人々が物理的に死ぬ前、あるいはその後のどちらのタイミングで花婿であるキリストに出会うのかはよくわかりません。しかし、私たちが死ぬ前に世界が終わるかその後に終わるかにかかわらず、私たちは皆死ぬのですから、準備する必要があります。この物語における良いニュースは、道が備わっており、私たちの神がそれを私たちに知らせて下さったことです。この真実を受け入れる人は誰でも救われます。

 

 イエスがこの物語を語ってから約2000年が経ちましたが、世界はまだ終わっていません。マタイが言うように、イエスはすぐに戻ってこられない可能性のためにご自身に従う者達を準備されているようです。しかし、最終的に彼は現れます。キリストが再びこの世に来られる年や月日は告げられていません。 時に、誰かがそれについて特別な知識を持っていると主張するでしょう。ですが私たちは、神の言葉の権威に基づいて、そのようなメッセージを拒否しなければなりません。13節「あなたがたは花婿が来るその日、その時を知らないからです。」

 

 しかし、花婿はついに「真夜中」に来ます(6節)。その言葉は「夜の最中」と訳した方がいいかもしれません。正確には午前0時という意味ではありません。正確な時間の確認しようにも誰も時計を身に着けていませんでしたよね?

 

 準備ができていない花嫁介添人は大きな問題を抱えています。彼らは他の介添人に言います(8節)、「あなたがたの油を少し分けて下さい。」しかし、それが効果があるとは考えられません。ポイントは、私たち一人ひとりが神との個人的な関係を持つ必要があると言うことです。この人生の終わりが来て、私たちが「来世」と直面するとき、そのことが何よりも重要になります。実際には今もそうなのです。キリストが戻ってこられるか、私たちが死ぬとき、私たちは全く新しい方法でその現実に直面するでしょう。

 

 皆さんは私が以前、このように言ったのを聞いておられるでしょう、神には孫がいないと。神には子供しかいない。クリスチャンの家族にいるとか、クリスチャンの友人がたくさんいるだけでは不十分なのです。多くの高貴な慈善事業を行うだけでは不十分です。教会生活で活動し、教会にたくさんの献金をするだけでは不十分です。神は単に皆さんの行動や所有するものを望まれるのではなく、皆さん自身を望んでおられます。キリストの死と復活によって可能になった、キリストとの愛と信頼の個人的な関係に取って代わるものはありません。

 

 賢明な花嫁介添人は、油の一部を売ってくれるよう他の介添人から要求される時に「. . .油を売ってくれる人のところに行き、自分のを買ってください。」という不可解な反応をします(9節)。私には、それほど賢明には聞こえないのですが皆さんはどうですか? 結局のところ、9節によると「真夜中」なのです。明らかに、店が通常開いている時間を過ぎています。彼らがそうしようと試みても、おそらく油を買って戻ってくることができるのは翌朝が最も早いでしょう。 時間に間に合うにはほど遠いです。油を売っている人の家に行き、その人を起こして油を買って戻ってくることはできるかもしれませんが、本当にうまくいく可能性は非常に低いですね。

 

 さて、これはそもそも賢明であることが何を意味するのかという問題を提起しているようですね。イエスは、若い女性のうち五人は賢明だったと言われますが、彼らでさえ、油を持っていないという他の五人の問題を解決する方法を見つけることができません。彼らはすべてを知っているから、賢明ではないのです。実際、賢明な人でさえ、理解できないことがたくさんあります。だから、彼らは高慢になって周りに目を向ける理由がありません。賢明な人であることの重要なポイントは、キリストを知り、彼を通して、すべての知恵の神を知ることであるようです。もしそうなら、私たちは最も重要なことを知っていることになります。そうでなければ、どんなに他の知識を持っていても、私たちを命に導くのには十分ではありません。(現在、このような視点に基づく学びと教育は多くの学生が学校で聞くことがないものです。)

 

 今、物語は不穏な順番になります。10節で「戸が閉められた。」と書かれています。準備しなかった花嫁介添人の一人になることを想像するのは怖い考えですね。

 

 それを思う時に、私にはある思い出がよみがえります。昔、私の兄が結婚したとき、私と家族は彼の教会で会って写真を撮り、結婚式に行く予定でした。 私は当時病院で働きながら、そこでチャプレンの活動をし、同時に牧師育成トレーニングプログラムで勉強していました。私は夜勤を終えたばかりで、結婚式に行く前に数時間の睡眠をとるために午前8時頃に家に帰りました。

 

 たぶん、皆さんは何が起こったのか推測できるでしょう。そうです寝坊したのです! 遠くにあるかのように思える電話が鳴る小さな音を思いだします。その音は鳴り続きました。ついに私は目を覚まし、電話に出ました。「一体どうした、ずっと連絡を取ろうとしてたけどダメだった。お前なしで写真を撮らなければならないぞ! 急いで結婚式に来い。多分まだ間に合うから。」結局それが、私がやったことでした。

 

 数週間前、私は兄夫妻に会う機会がありました。彼らは私に再びその話を思い出させて笑い、私はまた恥ずかしい思いをしました。それは私がいつも抱えて生きなければならないことの一つだと思います。

 

 しかし、五人の愚かな花嫁介添人にとっては、はるかに悪いです。彼らは新郎に話しかけます(11節) 「ご主人様!私たちのために戸を開けてください!」

その後、彼らは「私はあなたを知らない」というひどい返事を受け取ります(12節)。

 

 物語のこの部分を聞いて、イエスの弟子たちはおそらくイエスが以前に彼らに教えられたことを思い出すでしょう。マタイの福音書7章20〜23節でそのことを読めます。

 

 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるの

 です。わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国はいるの

 ではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その

 日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ。主よ。私たちはあな

 たの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名

 によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。」

 

  しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがた

 を全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」

 

 オープンドアチャペルでは、神がすべての人に平等に救いの愛を提供するという良いニュースを祝っています。それは今でも真実です。しかし、いつでもそうであるとは限りません。神だけが決定できるある時点で、開かれたドアは閉じられ、機会は終了します。神は誰も地獄に送りませんが、神が私たちに与えた救いの贈り物を受け入れなければ、私たちは自分自身を地獄に送ることになります。今日ここにいる、それぞれがお互いに繋がっている全ての方々、そしてそのほかのすべての人々のための私の厳粛な祈りは、私たち全員が信仰によって救いの贈り物を受け取り、私たちの誰も「私はあなたを知らない」というキリストの言葉を聞く必要がなくなる(12節)ことです。

 

 キリストの物語は、励ましや、希望を与えるものもになりますが、非常に不穏なものにもなる可能性があります。花嫁介添人として結婚式やお祝いに招待されるほどに新郎を知っているだけでは不十分です。そこにいるという全体の目的は、新郎と花嫁を称えることです。あなたがそれをしなければ、全体的な儀式はその意味を失います。

 

 私たちがすでに見てきたように、皆さんは神の非常に近くにいることができます、そしてキリスト教文化に完全に精通することもできます、ですがそれが神のひとり子イエスへの信仰を通して神と個人的な関係に入ることにはなりません。私は、個人的にキリストに出会い、信仰によってキリストと共に歩き始める前に、かなり長い間教会のオルガニストだったという学生の話を聞いたのを覚えています。私たちの中でクリスチャンの家族で育った方々は、教会の建物で数え切れないほどの時間を過ごしたかもしれませんが、それでも信仰によって神のもとに来ておらず、神との関係を保持し始めないこともあるのです。私たちの中でそのような状況にある方々にとって、他の人々と同じように、メッセージはここにあります。「準備をしなさい!」

 

 その後、イエスはこの警告を繰り返して彼の物語(13条)を締めくくります。「. . .目を覚ましていなさい。」今日の話を始められる前に、イエスは人々にマタイ24章42節で「だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるのか、知らないからです。」と言われました。 今、キリストは結局元の立場に戻られ、ほとんど同じ言葉を与えてくださいます。賢明な教師であるキリストは、私たちがそれを心に留め、その重要性を理解するように、もう一度私たちにメッセージを与えられるのです。

 

 サタンと他の悪魔とのミーティングの話があります。

 一人が言いました。    

  「サタン、どうすればできるだけ多くの人を地獄に行かせることができる

   か? 神はいないと彼らに言うべきか?」

 サタンは言いました。

  「いや、彼らは自然そのものを見て、それが人間よりも偉大な誰かによっ

   て設計されたと言う。彼らが本当にそうしないと決心しない限り、彼ら

   は神がいることを理解するだろう。」

 別の悪魔は、

  「まあ、地獄はないと彼らに言うべきかもしれないな。」と言いました。

  「いや、それもあまりうまくいかない。誰かが人に何か悪いことをすると

   き、彼らは悪事には罰がなければならないと魂の奥深くで知っている。

   彼らは正義を望んでおり、彼らの多くは悪がいつか何らかの形で罰せら

   れると信じるだろう。結局それが地獄なのだから。」とサタンは答えま

      した。

  それからサタンは続けて、

  「もっといい考えがある。神も地獄もないと彼らには言うな。急ぐ必要は

   ないと彼らに伝えよ。」

 

 それは五人の愚かな花嫁介添人が受け取ったメッセージのようです。賢明になって、私たちの未来が待ち受けていることすべてに直面する準備のため、私たちが選択する必要のある次のステップを理解し、それを手にすることができるように助けてくださいと神さまにお願いしましょう。

 

恵み深く正しい裁きをされる神さま、人々が結婚式のお祝いで持つような親密な交わりと喜びをあなたご自身と分かち合うために私たちを招いてくださるあなたの優しさに感謝します。しかし、あなたの優しさを弱さに、またあなたの優しさを悪を罰する意志の欠如と間違えないように助けてください。あなたの赦しと救いの愛の中で生きるためにあなたの招待を積極的に受け取ることができますように助けてください。あなたとの強い絆を通して、堅実で揺るぎない希望を持ち、この世界と次の未来に立ち向かう準備ができますようにお助けください。この心からの祈りをイエスさまのお名前によって祈ります。アーメン。

 

参考

 

Henry, M. (1706). Matthew Henry Commentary on the Whole Bible (Complete).

              https://www.biblestudytools.com/commentaries/matthew-henry-              complete/matthew/25.html