イエスの埋葬のために備えた⼥性

2024年2月18日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

マルコの福⾳書 14章1〜9節

イエスの埋葬のために備えた⼥性

 

 今⽇の礼拝に参加してくださる皆さん、オンラインでも対⾯でも、再び⼀緒 にいられることを嬉しく思います。数か⽉前に、私たちはある⼥性が晩餐会に現 れ、涙でイエスの⾜を洗ったという話を学びました。今⽇は、「イエスが賞賛した ⼈々」というメッセージシリーズの⼀環として、マルコ第14章における同様のエ ピソードを探求したいと思います。

 

  実際、四つの福⾳書のそれぞれには、イエスが家庭での晩餐の場⾯があり、 ⼥性が特別に親切に接待します。最近学んだルカ7章の話は、マタイ26章、マル コ14章、ヨハネ12章の物語よりもはるかに前に位置しています。また、ルカの記 述では、この⼥性は性的な罪のために悪名⾼いようですが、他の物語ではそういっ たことはありません。したがって、ルカ7章の話は別の場所と時間から来ていると 理解しています。

 

 

 ただし、他の三つの物語が同じ出来事の異なるバージョンなのか、それとも 別々の出来事なのかははっきりしません。晩餐会はラザロの家で⾏われたのか、シ モンの家で⾏われたのか、それとも彼らの⼀⼈が⽗親で、もう⼀⼈が同じ家の息⼦ だったのでしょうか?もしかしたら、彼らは同じ⼈物であり、シモン・ペテロのよ うに⼆つの名前を持っていたのかもしれません。この出来事は過越祭の2⽇前なの か6⽇前なのか?⼥性はイエスの⾜に油を塗ったのか、頭に塗ったのか?そして、 彼⼥は髪でイエスを拭いたのでしょうか?物語の⾔葉遣いから明確に知ることは⾮ 常に難しいです。ですので、今⽇はこれらの疑問を整理しようとはせず、基本的に マルコが提⽰するバージョンに沿って話を進めたいと思います。私たちがそこから 受け取るメッセージは、おそらくマタイやヨハネが伝えるものと同じです。それ は、キリストが賞賛するような⼈物について多くのことを教えてくれます。そし て、私たちが成熟し、内⾯的に強い⼈間に成⻑するプロセスを続ける上で、私たち の⽅向を⾒つけるのに役⽴つでしょう。

 

 3 節では、「イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された⼈シモンの家にお られたときのことである。⾷事をしておられると」と書かれています。マルコのイ エスの働きに関する物語の初め(1章40〜45節)には、イエスが⼀⼈の⼈をツァラ アトから癒したという話があります。この晩餐会が⾏われているのは、もしかした らこの⼈の家なのかもしれません。それは可能性があります。  

 私にとって驚くべきことは、イエスが⾃分がまもなく死ぬことを知っていな がらも、友⼈たちとの時間を過ごすために最後の数時間を晩餐会のような場を選ん 2 だことです。イエスはうつ状態に陥ったり、誰とも⼀緒にいたくなくなったり、⾃ 分の問題ばかり考えたりしませんでした。イエスは、⾃分にとって重要な⼈々との コミュニケーションを保ち、彼らのニーズに注意を払い、どのように彼らのニーズ を満たせるかを考え続けました。

 

 もし⾃分が1週間以内に死ぬことを知っていたら、⼤切な時間をどのように 過ごしますか?キリスト教の伝統において、信仰の深い⼈々は、死に近づいた時だ けでなく、定期的に⼈⽣を死の視点から⾒るようにと他の信者に勧めてきました。 このようなネガティブな視点からの時間を費やすことは、過度に陰鬱な感じがする かもしれませんし、悪いことのようにも思えるかもしれません。しかし、それを実 践している⼈々は、それが本当に重要で持続するものに焦点を当てるのに役⽴つと ⾔います。例えば、死の瞬間に、お⾦を増やしたり、少し⾒栄えを良くしたり、⼈ を感銘させることにリソースを費やすことの価値の少なさに気付くかもしれませ ん。終わりの視点から物事を⾒ることで、まだチャンスがあるうちに重要な関係を 始めたり、強めたり、修復したりする決断を下すことができます。例えば、そのよ うに⼈⽣を⾒つめることによって、⾔葉や⾏動を後悔しないために、今⾔わなけれ ばならないことを⾔うことができます。

 

 イエスが友⼈たちと⾷事をしている間に、3節の「純粋で⾮常に⾼価なナル ド油の⼊った⼩さな壺を」1を持った⼥性がイエスのもとにやって来ます。彼⼥は誰 でしょうか?彼⼥はヨハネに登場するベタニアのマリアでしょうか?もしそうな ら、イエスが彼⼥の兄弟2であるラザロを死者の中から蘇らせたばかりであり、おそ らくその数⽇前のことです。その場合、彼⼥が深く感動し、感謝と賛美に溢れてい ることは想像しやすいでしょう。兄弟への愛情に加えて、もし彼⼥と彼⼥の姉妹が 結婚しておらず、兄弟が家族の⽣計を⽴てることができなくなった場合、彼⼥たち の快適な⽣活の機会は⼤幅に減少するでしょう。イエスはラザロを救うことで、マ リアとマルタも貧困から救った可能性があります。その場合、彼⼥がイエスに対し て深く感謝している気持ちを理解するのは容易です。

 

 しかし、再び⾔いますが、マルコは彼⼥を特定していません。彼⼥はルカ (ルカ8章2)とマルコ(マルコ16章1・9)の福⾳書で⾔及されているマグダラ のマリアかもしれないと⾔っています。私たちは、イエスがこのマグダラのマリア を七つの悪霊から救ったことを知っています。もし彼⼥が今⽇の物語の晩餐会にい る⼈物なら、彼⼥が精神的な健康と悪霊につかれた状態からの⾃由を感謝して、イ 1New International Reader's Version 1998 では“A woman came with a special sealed jar of very expensive perfume.”となっています。 2聖書にはラザロ・マルタ・マリアの年齢・⽣年順を⽰す記述がありません。 3 エスに⼤きな贈り物をしたいと思うのは簡単に想像できます。しかし、聖書の物語 の中でも、マリアという名前の⼥性は実際にはかなり多く存在します。したがっ て、この特定の⼥性がマルコ14章の物語に登場するとは⾔い切れません。私たち は、もし正確に知る必要がある場合、神が御⾔葉を通して教えてくださったであろ うと想定するしかありません。.

 

 この⼥性はイエスのもとにやって来ますが、どこから来たのでしょうか?彼 ⼥は家の主⼈でしょうか、それとも隣の部屋から来たしもべであり、通常の客を出 迎えるようにその⼈の頭に少量の油をつけて歓迎の印とするためにやってきたので しょうか?それもありえます。しかし、表現からは彼⼥が家の外からやって来た可 能性が⽰唆されていて、招待されていなかったかもしれません。最近の研究では、 聖書時代のこの地域の多くの家が、外から簡単に⼊ることができるように配配置さ れていることがわかっています。また、彼⼥は男性が⾷事をしている場所に⼥性と してやって来ています。この⽂化では通常ではないことです。それが彼⼥の⾏動に 対して⼈々がその⼤きな意味を⾒ずに否定的な反応を⽰す理由の⼀部と考えられま す。

 

 彼⼥はイエスの頭に⾹⽔をつけます。イエスが⾹⽔をつけていると考えるこ とは私たちにとって少し混乱するかもしれません。「ジムは先⽇⾹⽔をつけてい た」と⾔われたら、私は少し不快な気持ちになるかもしれません。しかし、キリス トの時代や⽂化では、それは肯定的に考えられていました。この⾹⽔は純粋なナル ドという種類の⾹油で作られています。これは聖書時代のイスラエルの⼈々が時 折、インドのガンジス川からの商⼈から購⼊することがある⾹油です。(こちらは その植物の写真です。)

        

 

 確かに、誰でも簡単に買えるわけではありません。それは3「1年分の給料以 上の価値がある」とされています(5節)。現在の⽇本の平均収⼊は約450万円な ので、これは⾼価な⾹油です。この時代や⽂化では、⼥性に開かれた仕事の数が限 られているため、彼⼥が⾃分で働いてお⾦を稼いでそれを買ったとは考えにくいで す。おそらく彼⼥の家族からのものでしょう。おそらく、この品質の⾹油には需要 があることを知っているため、売却する必要がある場合に備えて彼らが保管してい た⼀種の財政的な安全策かもしれません。しかし、今回は彼⼥は別の計画を⽴て、 それをイエスがいる⼣⾷会に持ってきます。それが話を解釈する⼀つの可能性で す。

 

 容器⾃体も安くはありません。アラバスターで作られており、この時代の ⼈々は貴重な油を保管し保存するために使⽤しています。(上にはアラバスターの 容器の写真があります。彼⼥のものは、このようなもので、封をするか、油を使⽤ する時に壊すための⾸のようなものが付いていると考えられます。)

 

 この無名の⼥性は「壺を割り、イエスの頭に注いだ。」(マルコ14章3)。 雅歌1章12節の恋愛詩に登場する⼥性は、「王が⻑椅⼦に座っておられる 間、私のナルドは⾹りを放っていました。」と⾔っています。キリスト教徒は、こ の詩の男性をキリストの象徴とし、⼥性を彼の教会または信者の象徴として理解し てきました。これらの旧約聖書の⾔葉は、⼥性がイエスの頭に⾹り⾼い油を塗る⾏ 為によって⽣き⽣きとなります。彼⼥がこれをすると、それは基本的には礼拝の⾏ 為です。彼⼥は⼀種の⾹を供え、イエスを尊敬し、栄光を与えています。

 

 彼⼥の⾏為とイエスの賞賛は、私たちに神が私たちに対して望む礼拝の態度 と⼼の状態について教えてくれます。礼拝の時はいつですか?⽇曜の朝、そうです が、⼈⽣のすべての瞬間、毎⽇、そして毎時、私たちがこの世にいる最も重要な理 由は、神に栄光を帰することです。私たちの仕事、遊び、会話、さらには毎⽇の⽣ 活を維持するために過ごす⼤部分の時間(料理、掃除、⾷事、睡眠など)は、すべ て私たちが神を敬うための経験です。私たちは、神が喜ぶような⽅法で⽣きること によって、神に最も栄光を帰します。要するに最善を尽くして、毎⽇を捧げて⽣き るのです。それこそが真の礼拝であり、神に⼤きな喜びをもたらします。

 

 神はこの⼥性の⾏動に喜びを感じていますが、⾷事に出席している⼈々の中 にはそうでない⼈もいます。マルコは(4節)「何⼈かの者が憤慨して互いに⾔っ た。『何のために、⾹油をこんなに無駄にしたのか。」と述べています。「無駄にし た」という⾔葉です。彼らにとって、この貴重な贈り物をイエスに捧げることは無 3New International Reader's Version 1998 では“It could have been sold for more than a year’s pay. The money could have been given to poor people.” So they found fault with the woman.”となっています。駄だと思われます。再び、これは⼀種の礼拝です。実際、多くの⼈にとって、礼拝 の多くまたはすべては無駄に思われるでしょう。

 

 ひとつの例として、聖書のいくつかの箇所で⽬にする「注ぎのささげ物(⼝ 語訳:灌祭)」があります。ヤコブは、彼が天国への階段を⾒た創世記35章の物語 で、神に捧げるために飲み物を注ぎます。旧約聖書の律法(たとえば⺠数記15章5 節)では、神の⺠に対して、⾃分⾃⾝と神に対する献⾝の象徴としてぶどう酒41/4 ヒンを献げることを教えています。貴重なものを注ぎ出すことで、その価値を認識 しますが、⾃分⾃⾝で飲むことはありません。それは贈り主と受け⼿の関係を栄え させるために捧げられる贈り物です。パウロはテモテへの⼿紙II 4章6〜8節で、⾃ 分の⼈⽣を注ぎのささげ物と表現しています。彼は、信仰のために殺されるであろ う時期に近づくにつれて、⾃分が注がれていると⾔っています。この意味では、彼 の⼈⽣全体が礼拝の形です。彼は喜んでそれを神に捧げます。その態度を持って彼 は、⾃分の⼈⽣と仕事を終わらせるだけでなく、完成させることができます。彼は ⾔うことができます(7節)、「私は勇敢に戦い抜き、⾛るべき道のりを⾛り終え、 信仰を守り通しました。」

 

 彼の精神は、⾃分の贈り物をイエスに注ぐ⼥性の精神と重要な共通点があり ます。それは、⼀部の⼈にとっては無駄に⾒えるかもしれません。彼⼥の油はもっ と効率的に使われることができました。実際、神への礼拝の核⼼にあるものは、こ の世界を⽀配している効率の神に対する反逆です。礼拝は、有⽤で実⽤的で論理的 であることよりも重要な「何か」−「誰か」が存在することを宣⾔するものです。

 

 ある男性の祈りが私の⼼に⻑年残っています。⼤体以下のような内容でし た。

 神よ、今⽇の祈りで正直に話そうと思います。今朝、教会にいる気分 ではありません。家にいて、よりリラックスして建設的な時間を過ごすこと を考えました。ここに来るべきだと思い、来ましたが、正直に⾔うと、なぜ 来たのか完全にはわかりません。最近、ここにいることからあまり得るもの を感じません。時には時間の無駄に思えます。私は⾃分⾃⾝だけでなく他の ⼈のために教会に来るべきだとわかっています。しかし、どの程度これが他 の⼈に役⽴つのか、私には理解しづらいです。 英語訳では“quart”となっている訳もあります。 1 quart は約0.946352 リットルです。 1 ヒンは約3.6668042リットルですので1/4ヒンは約0.91670105リットルです。

 

 それが私の気持ちです。 信仰の⽋如が⾒えるかもしれませんが、どう か私をお許しください。しかし、イエスが私のためになさったことも理解し ています。彼はただ⼀部の時間だけでなく、⾃分の⼀⽣を地上で私のような ⼈々のために捧げました。そして、彼はすべてを捧げ、私が⽣きる道を作る ために死にました。⼀部の⼈々はそれを無駄に思うかもしれませんが、それ を思い出すと、あなたが私をいかに⼤切に思っているかが分かります。それ を思うと、私もあなたと⼀緒にいたいと思います。だから、ここにいます。 もし私が時間を無駄にしているのなら、私にとっては問題ありません。私は あなたのためにこの時間を無駄にします。あなたはそれ以上に価値がありま す。 イエス・キリストの名において、アーメン。

 

 晩餐会の⼈々がその⼥性の贈り物について⾮難するとき、「貧しい⼈たちに 施しができたのに」と⾔います。もちろん、彼らの⾔うことは⼀⾯では正しいで す。この⽂化では、過越の前夜に貧しい⼈々に贈り物をする習慣があります。⼥性 がイエスに⼤きな贈り物をしたため、今回は同じくらい多くを他の⼈々に与えるこ とはできません。彼⼥の周りの⼈々は、これを彼⼥を批判する理由と考えます。彼 らは、⼀度にすべてを使わないことが、神のお⾦をより寛⼤で責任ある使い⽅にな ると主張することができます。彼らの⾔葉には⼀定の論理がありますね。そして、 彼らはその論理を武器として素早く使い、彼⼥を攻撃します。彼⼥の奉仕の⽅法 は、彼らが期待する⽅法ではないため、彼らはそれを受け⼊れないのです。彼ら は、彼⼥の奉仕の⽅法が彼らが考えている⽅法と同じくらい神に喜ばれる可能性が あるという考えは持っていません。

 デビッド・マッケナ博⼠は次のように書いています。

 批判は危険で繊細な道具です。メスのように、癒すために切ることも、害 を与えるために切ることもあります。最も熟練して最善の動機を持つ医師の⼿ の中に無ければ、それは癒すことはありません。しばしば、批評家は⼈と問題 を別々に考えることができず、結果的に害を与えてしまいます。

 

 マルコによれば、弟⼦たちは最初は原則に対して攻撃を始めますが、やがて 彼⼥⾃⾝に向けて攻撃を加えます。それは5「そして、彼⼥を厳しく責めた。」(英語 訳では「だから、彼らはその⼥性に落ち度を⾒出した。」となります。)(5節後半) とありますが、元の⾔葉は「⼥性を⾮難する」という表現よりもかなり強いです。 5So they found fault with the woman. 7 他の状況でも、⾺の⿐を鳴らす様⼦を表すために使⽤されます。彼らの批判は、彼 ⼥に対する多くの悪感情を⽰しています。

 批判はしばしば、批判している⼈⾃⾝についての情報をより多く伝えるもの ですね。この場合、マルコは批評家が⾷事に参加している他の⼈々であると教えて くれます。しかし、ヨハネによると、特にユダが彼⼥に対してそんなに傷つける⾔ 葉を持っていると⾔います。ヨハネは隠された動機を指摘しています。ユダは時々 グループの財源からお⾦を取り、⾃分⾃⾝に使っていたのです。だから彼は贈り物 が他の場所に⾏くことを望んでいません-それは彼が取ることができるものを削減す るからです。彼の批判は彼の動機を明確に⽰し、それは⾼潔ではありません。

 

 しかし、イエスは⾔います(6節)、「彼⼥を、するままにさせておきなさ い。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。」 (英語直訳では6「 彼⼥は私に美しいことをしてくれました。」)と。ここで「美し い」と訳されている⾔葉は、⼀部のバージョンでは「良い」となっています。英語 ではこれらの⼆つの⾔葉は同じ意味ではありませんが、重要で強いつながりがあり ますね。イエスは、この⼥性の献⾝の⾏為を称えることで、⾃分⾃⾝を芸術家、⾳ 楽家、俳優、作家の側に置いています。それは実⽤的であるか何かを⽣み出すため ではなく、「良い」または「美しい」のです(v4節で注⽬したように)。それは⼣ 焼けの鮮やかな⾊で満たされた空のようなものです。その価値は実⽤的であること をはるかに超えています。

 

 この⼥性の贈り物の美しい部分は、彼⼥がそれを与える必要はないというこ とです。その意味の⼤部分は、それが愛によって⾃由に与えられることです。そし て、愛は時には豪華です。彼⼥の贈り物のもう⼀つ素晴らしい部分は、それがイエ スが⽤意している贈り物に先⾏しているということです。キリストは私たちのため にまもなく⼗字架で死ぬでしょう。彼はこれをする必要はありませんが、⾃由にそ うすることを選びます。それは最初から最後まで、愛の贈り物です。そして、私た ちの主が⽣命を犠牲にして100%を捧げるという贈り物ほど豪華なものはありませ ん。もしその贈り物を受け取ったなら、私たちは驚くほど豊かです。主よ、私たち がその贈り物をより完全に⼼に、思考に、そして⽣活に受け⼊れることができるよ うに助けてください。

 

 イエスは 7 節で批評家たちに「貧しい⼈々は、いつもあなたがたと⼀緒に います。」と念を押します。ここでのイエスの⾔葉は、貧しい⼈々のために何も 6“Leave her alone,” Jesus said. “Why are you bothering her? She has done a beautiful thing to me. 8 しないための⾔い訳ではありません。まったく逆です。彼は明確に、私たちは困 っている⼈々を助けることが求められていると⽰しています。

 

 なぜイエスはこの⼥性の与える⾏為を賞賛に値するものとして私たちに⽰ すのでしょうか?8 節でイエスは「彼彼⼥は、⾃分にできることをしたのです。」 と⾔っています。それは複雑ではありませんね。それは私たちに直接問いかけま す。私たちにできることは何でしょうか?イエスのために。誰かにとって答えは、 「礼拝の間にカメラの操作を学ぶことができます」となるかもしれません。別の ⼈にとっては、「私はこの特定の⾔語を話すことができます。その能⼒を使って ⾔語の壁を越えてコミュニケーションをサポートすることができます」となるか もしれません。他の⼈は⾃然なリーダーであり、委員会の仕事をうまくこなすこ とができるかもしれません。別の⼈は牧師や宣教師として奉仕するという召しを 感じるかもしれません。何かひどいことが起こったとき、私たちは「祈るしかで きない」と⾔いがちです。神の⾒解では永続的な価値のあることは祈りなしには 起こらないというのは真実です。しかし、もう⼀つの真実は、私たち全員が祈る ことによってできることがあるということです。もし私たちがキリストのために それらを始め、彼の名前で、彼の指導の下で、彼の栄光のために⾏動すれば、驚 くべきことが可能になります。

 

 今⽇の物語の⼥性の場合、イエスは彼⼥の奉仕に特別な意味を⾒出します。 「埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって⾹油を塗ってくれました。」と⾔ います(8 節後半)。この⼥性の思いやりは、単なる強い感情だけでなく、具体 的で積極的な愛の表現です。また、タイミングも良く、それには知恵と神の導き の感覚があります。明⽇、このような⽅法で助ける機会は失われてしまいます。 この瞬間において、イエスは誰よりも彼⼥の思いやりの贈り物を必要としていま す。ある意味で、キリストは死に近づくにつれて「最も貧しい者」となっていま す。彼⼥は主の導きに注意を払い、それに従うことで、彼⼥はただ忘れるのでは なく、実際に「貧しい」イエスに時宜を得た助けを提供しています。 この⼥性の 贈り物は、イエスが死に近づき、死を経験する暗い時期を⽀える助けとなってい ます。その価値に値札をつけることは誰にもできません。

 

 ⼥性がその容器を開けて油をイエスに塗ることを選択する際に、イエスを 埋葬のために準備するという考えが彼⼥の⼼にあるのでしょうか?それとも、彼 ⼥を導くのはむしろ⼀般的な愛情と感謝の気持ちなのでしょうか?

 

 彼⼥はすべてを注意深く計画していた可能性があります。数章前にマルコは 私たちに(9章31節b)、「イエスが弟⼦たちに教えて「⼈の⼦は⼈々の⼿に引き渡 され、殺される。しかし、殺されて三⽇後によみがえる」と⾔っておられたからで ある。」と書いています。彼⼥はこのグループと⼀緒にいて、これを聞いたかもしれ 9 ません。彼⼥は彼の教えに注意を払っています。過越祭の前に彼がベタニアにいる とき、彼⼥は彼が話していた死に近づいていると感じます。彼⼥はこの特定の時に 彼の頭にこの油を塗ることで、彼に⾮常に意味のある贈り物をするチャンスがある ことに気づきます。それは物語を解釈する⼀つの可能性です。

 

 ⼀⽅で、彼⼥は単に⼼の中にある感謝と賛美の気持ちを表現するために、 通常のわずかな注ぎ油では⼗分ではないと感じていたのかもしれません。彼⼥は 考え深い計画のプロセスを経ずに、近くにあるナルドの容器を⾒つけて⼿に取る かもしれません。

 

 彼⼥の贈り物は、そこにいるみんなを驚かせるようです。彼⼥⾃⾝さえも 驚いているかもしれません。しかし、物語は明確な答えを与えるために⼗分な情 報を提供していません。しかし、イエスにとって彼⼥の⾏為が何を意味したかは わかります。彼はそれを神の⽬によってより深い意味を持つものとして⾒ました。 彼⼥がそれに気づいていたかどうかに関係なくです。私はそれに多くの希望と励 ましを⾒出します。神の名のもとで私たちが神と周囲の⼈々に奉仕する際、⽬に ⾒える、測定可能な、報告可能な結果が不⾜していることがあります。そして、 ⾃分⾃⾝でそれを⾒ることができない場合、他の⼈たちはそれをさらに理解しに くく、それをさらに少なく評価するかもしれません。

 

 しかし、神は⾒ています。イエスは、私たちの⽬が認識できる以上の深い レベルで⽗なる神が働いていることを理解しています。私たちの仕事が恩恵をも たらす⼈々を知っています。たとえ私たち⾃⾝がそれを知らなくてもです。最も 意義深い仕事はしばしば何年もかかって実を結びます。多くの親は、⼦供たちに 教えようとした善いことが⼀体何の影響も与えたのか疑問に思ったことでしょう。 彼らはちゃんと聞いていたのだろうか?いつか私がアメリカに戻るとき、または ⽇本で死に近づいたとき、私の働きを通じて神の救いの愛を知る⼈々はどれくら いいるのでしょうか?Open Doorが来年35周年、そしてその後50周年、100周 年などを迎えるとき、ODCを通じて神の家族の⼀員となった⼈々はどれくらいい るのでしょうか?真実は、私たちは知りません。しかし、それは⼤丈夫です。私 たちはそれを主に委ね、確信を持って歩むことができます。私たちが今⽇の物語 でイエスに注ぎ油をする⼥性のような積極的な信仰で従う限り、主は私たちを通 じて⾃分の働きに意味と⼒と祝福を与えてくださいます。それを知ることから⽣ まれる⾃由と希望に感謝しましょう。

 

 神があなたの奉仕を予想外の⽅法で使⽤しているのを気づいたことはありま すか?もしそうなら、あなたの話を聞かせてください。おそらくバイブルディスカ ッションや証の時間、または別の機会が良い機会になるかもしれません。私たちに 知らせてくださいね。

 

 最後に、イエスは約束をします(9 節)。彼は⾔います。「世界中どこで も、福⾳が宣べ伝えられるところでは、この⼈がしたことも、この⼈の記念とし て語られます。」今⽇私たちが⼀緒に集まり、この⼥性の物語を通して彼⼥を思 い出すことで、イエスの⾔葉が実現していることを再び⽰しています。キリスト を敬う者は、キリストによって敬われるのです。

 

 神はキリストをすべてのものの上に置くことを選びました。私たちは彼に加 わり、彼⼥の贈り物を通して豊かで活気に満ちた信仰を⽰した⼥性と共に、すべて のことにおいて彼を第⼀に置くことを願います。私たちは、特に私たちの愛を含 め、私たちが持っているすべてを与えるに値するイエス・キリストに最善を尽くす ための多くの⽅法を探し、⾒つけ、創造しましょう。

 

 今⽇は、私たちが受け取ったメッセージへの反応として、古い賛美歌の⾔葉 で終わりたいと思います。よかったら、静かに⼼の中でいっしょにこの⾔葉を祈っ てください。

 

“What Can I Give to Jesus?” イエスに何を捧げられるだろう

What can I give to Jesus, イエスに何を捧げられるだろう

Who gave himself for me? 私のためにご⾃⾝を捧げられたイエスに、

How can I show my love to him カルバリーで死んでくださったイエスに?

Who died on Calvary? いかに私の愛を何を捧げて⽰せるだろうか

Myself I give to Jesus, 私⾃⾝をイエスに捧げます、

Who gave himself for me: 私のために御⾃⾝を捧げられたイエスに

Thus will I show my love to him そのようにして私は、カルバリーで死んでくださった

Who died on Calvary. カルバリーで死なれた⽅に。

I give my life to Jesus, 私はイエスに⾃分を捧げます、

My strength and health and all; 私の⼒と健康とすべてを、

Assured he'll be my constant Friend, 彼は私の変わらぬ友である、

Whatever may befall. 何が起ころうとも。

This will I give to Jesus, 私のためにご⾃⾝を捧げられたイエスに、

Who gave himself for me: 私はこのように捧げます。

Thus will I show my love to him そのようにして私は、カルバリーで死んでくださった

Who died on Calvary. 私の愛を⽰そう。

Thy Spirit give, Lord Jesus, 主イエスよ、汝の霊を与えたまえ、

To strengthen me for this; そのために私を強めてください、

That I may have thy loving smile, あなたの愛の微笑みを

And share thine endless bliss. そして、あなたの限りない⾄福を分かち合うために。

Then shall I give to Jesus その時、私はイエスに

A song more sweet, more free; より美しく、より⾃由な歌を

And ever show my love to him 私が彼を愛し続ける歌を捧げる

Who died on Calvary. カルバリーで死なれた⽅に。 

 

参照情報 Anonymous. (1956). What Can I Give to Jesus? Laudes Domini: a selection of spiritual songs, ancient and modern for use in the prayer-meeting. https://hymnary.org/text/what_can_i_give_to_jesus McKenna, D. L. (1982). Mark. The Communicator’s Commentary Series. Thomas Nelson, Inc., Publishers. Wikipedia. (2024). Nardostachys jatamansi. https://en.wikipedia.org/wiki/ Nardostachys_jatamansi