唯一の救い主イエス・キリストを信じるならば

2024年2月11日主日礼拝「唯一の救い主イエス・キリストを信じるならば」

Ⅰペテロ1:1~7  佐々木俊一牧師

■ペテロの手紙は、ローマ皇帝ネロの時代に書かれたと言われています。だいたい、AD62年から68年くらいです。皇帝ネロと言えば、クリスチャンを迫害した悪名高き人物として有名です。ローマの大火は皇帝ネロによる自作自演ではないかという噂を払拭するために、彼はその犯行をクリスチャンのせいにしました。そして、クリスチャンを激しく迫害するようになったのです。当時の歴史家であるタキトゥスが彼の著書「年代記」の中に、そのように記しているということです。ネロはクリスチャンを捕えては、拷問にかけたり、猛獣の餌食にしたり、火炙りにしたり等々、その残酷さはどんどんエスカレートして行きました。パウロは斬首で、ペテロは逆さ十字架でネロによって殺された、と言い伝えられています。このペテロの手紙が書かれたのは、クリスチャンへの迫害が国家レベルで行われる前なのか、それとも、後なのかはっきりはわかりませんが、ペテロは、クリスチャンが固く信仰に立ち、信仰を全うできるようにと、彼自身の死期が迫っていることを意識しながら書いたものと思われます。もしかすると、すぐにもネロの手がペテロに及び、命を奪おうとする危うい状況の中で、ペテロはローマにとどまりこの手紙を書いたのかもしれません。

■1節~2節 この手紙は、イエス・キリストの使徒であるペテロは、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留しているクリスチャンに宛てて書いた手紙です。「散って」はギリシャ語で「ディアスポラ」で民族離散を表わす言葉です。元々、世界中に離散したユダヤ人やそのコミュニティに使われた言葉です。当時、クリスチャンには、ユダヤ人も異邦人もいました。ある意味、すべてのクリスチャンはこの地上に一時的に寄留しているディアスポラと言うことが出来ます。そして、私たちの帰るべき場所はどこかと言うと、それは、神の御国です。

 ここに五つの地名が出て来ました。どこなのか実際に地図で見てみましょう。これは、カパドキヤのカイマクルにある地下都市の内部です。AD1世紀においてはローマ帝国の迫害から逃れてきたクリスチャンが以前からあった地下都市にさらに手を加えて、常時4000人から8000人の人々が生活していたとも言われています。初代教会の初めのころは、迫害と言えば、ユダヤ人か、あるいは、アルテミス信仰などの偶像崇拝者による迫害でした。しかし、皇帝ネロの時代になると、クリスチャンに対する迫害はローマ帝国全体に広がって行ったのです。そのような迫害と差別の厳しい境遇の中にあったクリスチャンに向けて、ペテロは、選ばれた人々と呼びかけています。

 今の時代はどうでしょうか。クリスチャンへの差別や迫害があるでしょうか。世界を見渡すと、国によってその状況は異なります。イスラム圏や共産主義国の中国や北朝鮮などでは、クリスチャンへの迫害が非常に強いと言えるでしょう。それほどの迫害ではないけれども、ヒンズー教国であるインドやネパール、仏教国であるタイやカンボジアなどでも差別や迫害があるようです。また、カトリックやロシア正教はよいけれども、プロテスタントに対して差別がある国もあります。また、最近の傾向として、キリスト教国と言われている国々であったとしても、従来のキリスト教的価値観を政府機関が認めない動きもあるようです。そのような中でクリスチャンとして生きることが非常に難しさを覚える時代になって来ているように思います。世界全体として、クリスチャンへの差別や迫害の動きは、確実に進んでいるように思われます。脅すつもりはありませんが、それは確かなことであると思います。聖書には、終りの時代においてクリスチャンへの迫害が起こるだけではなくて、それが激しくなることが語られています。しかし、そのような中にあったとしても、私たちクリスチャンは父なる神によって選ばれた人々であることを忘れてはなりません。選ばれた人々は聖霊を受けています。聖霊によって神のものとして聖別されています。聖別されている人々はキリストの血潮によって罪から清められている人々であり、また、聖霊の働きによってキリストに従うように導かれている人々なのです。いかなる状況の中にあったとしても、神様は選ばれた人々を見捨てるようなことはありません。それは、私たちの信仰であり、私たちにとって大きな希望です。このような信仰と希望とによって、神様の恵みと平安がますますクリスチャンに豊かに与えられますように、とペテロは祈っているのです。

■3節~4節  イエス・キリストは私たちの主です。私たちの主であるイエス・キリストの父なる神様は、私たちにとっても父なる神様です。その父なる神様がほめたたえられますように、とペテロは祈っています。私たちもペテロと同じ気持ちです。父なる神様がほめたたえられることは、私たちの望むところであり、また、それは、私たちの喜びです。ほめたたえられるべきお方は、主イエス・キリストと父なる神様の他にはおりません。

 神様は大変あわれみ深いお方である、とペテロは言っています。ペテロはそのことを自分の体験からひしひしと実感していたに違いありません。イエス様が捕えられて十字架に架けられる時が近づくと、イエス様は弟子たちに言われました。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。」と。すると、ペテロが言いました。「たとえ皆があなたにつまずいても、私はけっしてつまずきません。」それに対してイエス様が言われました。「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」そして、ペテロは答えるのです。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとはけっして申しません。」しかし、その結果は、イエス様の言われる通りでした。ペテロは、イエスなんて知らない、と三度否定したのです。ペテロは自分を守るために、イエス様を裏切りました。にもかかわらず、神様のあわれみのゆえに、ペテロは赦されて、キリストを宣教する者へと変えられたのです。神様はご自分の大きなあわれみのゆえに、私たちが生ける望みを持つようにしてくださったのだ、とペテロは言います。生ける望みとはどのような望みでしょうか。イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせてくださいました。イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、それを信じる私たちも将来よみがえるのだという望みを与えてくださったのです。

 ところで、新しく生まれるとは、一体どういうことなのでしょうか。ヨハネの福音書3章のパリサイ人ニコデモの話を思い出してください。イエス様はニコデモにこのように言いました。「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」と。アダムとエバが罪を犯して以来、人の霊は神に対して死んだのです。それゆえに、人は神様とのコミュニケーションが困難になりました。だんだんと神様から離れ、神様がいるのかどうかさえ分からなくなってしまいました。人は霊において死んだので、肉体も死ぬものとなってしまいました。神様が、「善悪の知識の木からその実を食べてはいけない。その木から食べる時、あなたは必ず死ぬ。」と言った通りのことが起こってしまったのです。しかし、イエス・キリストが人の罪のために十字架で死んでくれたので、信じる者は罪が赦される、そんな救いの道が与えられたのです。イエス・キリストは私たちの罪を負って十字架に死にました。しかし、三日目によみがえられました。キリストは、死んで、悪魔という死の力を持つものを打ち砕き、よみがえられたのです。キリストを信じる者たちもまた、キリストがよみがえられたように、よみがえるものとされています。私たちがキリストを信じたときに、御霊(聖霊)によって、私たちは霊において新しく生まれたのです。霊において新しく生まれた私たちクリスチャンは、将来、必ず死ぬことのない新しい体を受けるのです。人が罪を犯したとき、人は霊において死にました。でも、体はすぐに死ぬことはありませんでした。が、しかし、後に体も死ぬことになりました。それとは逆に、霊において新しく生まれた者は、いますぐに死ぬことのない新しい体になるわけではありませんが、将来、必ず死ぬことのない新しい体が与えられるのです。これが父なる神様が私たちに与えてくださった望みです。これが、イエス様のなしてくださった十字架のみわざによって私たちに与えてくださった望みなのです。

 私たちに与えられるのは、死ぬことのない新しいからだだけではありません。朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐのです。具体的にどのようなものかははっきり書かれていませんが、確実に、私たち信じる者たちのために天には蓄えられている資産があるのだと聖書は言っています。

 私たちはこの地上においても神様の祝福を受けています。あるクリスチャンは、この地上においてさえ、財産や地位や名誉など、この地上で使い切ることのできないほどの資産を受けています。けれども、残念ながら、そのような地上に蓄えた資産は天に持って行くことはできません。反対に、あるクリスチャンは、この地上に資産と言えるものは何も持っていません。けれども、た

とえそうだとしても、天には確実に神様がその人のために蓄えている資産があるのです。

■5節に、「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現わされるように用意されている救いをいただくのです。」とあります。私たちは、神の御力によって守られているのです。私たちの何が、神の御力によって守られているのでしょうか。それは、私たちの救いです。私たちが救われるように神の御力によって守られているのです。それでは、今、私たちはまだ救われていないのでしょうか。いいえ、そういうことではありません。イエス・キリストを救い主と信じる人々はもうすでに救われている状態です。しかし、その救いがはっきりと現わされるのは、終わりの時です。終わりの時に、救われている者は、死ぬことのない体を与えられ、天に蓄えられている資産を受け継ぐのです。

 私たちの救いの完成に至るまでの道は、神の御力によって守られています。しかしながら、神の御力は私たちの救いの信仰を通して働くのです。救いの信仰がなければ、神の御力によって守られることはありません。私たちの救いの信仰とは、唯一の救い主イエス・キリストを信じるならば、私たちは救われるという信仰です。私たちは、イエス・キリストを唯一の救い主として信じる信仰によって、神の御力によって守られることを知らなければなりません。イエス・キリストも信じ、他の神々も信じるような二心の信仰ではけっして救われることはありません。

私たちは確実にイエス・キリストを唯一の救い主として信じるならば、終わりの時に、朽ちることのない体と天に蓄えられている資産を受け継ぐのです。

 この地上には様々な試練があります。最後の試練は死です。私たちは自分の死についていろいろと考えることがあるでしょう。長い闘病生活はしたくないとか、痛みを伴う病気で死にたくないとか、死ぬなら眠っているうちにぽっくり逝くのがいいとか、いや自分は信仰のためなら殉教もいとわないとか、いろいろ思うところがあるのではないでしょうか。しかし、同じなのは、信仰から来る喜びではないでしょうか。私たちはイエス様に感謝しています。唯一の救い主イエス・キリストを信じるならば、死んでもよみがえって死ぬことのない体を与えられますし、天に蓄えられている資産を受け継ぐこともできます。すべてイエス様のおかげです。

 この地上では私たちに許される試練があります。そのような中に置かれたなら、だれでも本当に悲しくなりますし、とても苦しい思いになります。7節にこのように書かれています。「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」

 このところで、信仰の試練が金の精錬と比較されて語られています。ところで、現在、金1グラムが1万円するそうです。このように金として価値あるものとするためには、精錬が必要なんだそうです。製錬(smelting)と精錬(refining)と言うのがあるそうです。製錬と精錬は発音が同じですが、意味が違うのだそうです。製錬(smelting)は鉱物から金属を取り出すための作業で、精錬(refining)は金属から不純物を取り出すための作業だそうです。鉱物を製錬(smelting)して金属を取り出しても、そのままでは使い物になりません。不純物がたくさん残ったままなのだそうです。ですから、取り出した金属を精錬(refining)して、不純物を取り除かなければなりません。そのために、時間をかけて火で精錬するのです。そのようにして不純物を取り除かれた金以上に、信仰の試練の中を通らされて不純物を取り除かれた者たちの方がずっと尊いのだ、と聖書は言います。金は精錬されてその輝きを増します。人は試練を通してその輝きを増すのです。そして、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉を受けるのです。でも、そこまでならなくてよいですから、そんな試練は私に与えないでください、と言うのが普通の人の本音ではないでしょうか。

 試練は避けることのできることであるならば、避けて良いのです。けれども、人生において、あるいは、ある国やある時代において、避けたいけれども、どうしても避けられない試練があります。ペテロが手紙を書いた人々もそのような人々でした。クリスチャンへの迫害など、クリスチャンが望んだことではありません。しかし、この時代においては、クリスチャンへの迫害は避けることのできない試練でした。とても残念なことですが、中には、迫害と言う試練を避けたいがために、イエス・キリストへの信仰をあきらめた人々や捨てた人々も実際にいたと思います。でも、唯一の救い主イエス・キリストを信じるならば、この世が終わる時に、朽ちることのない体と天に蓄えられている資産を受け継ぐのだ、という望みを選んだ人々、すなわち、神によって選ばれた人々は、その信仰により、神の御力によって救いの完成に至るまで守られるのです。私たちには、イエス・キリストを信じる信仰によって、神様の守りがあるのです。そのことを覚えて行きましょう。それではお祈りします。