日々心合わせて祈るとどうなる?②

2024年2月4日主日礼拝「日々心合わせて祈るとどうなる?②」

使徒1:15~26佐々木俊一牧師

■「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。・・・もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」というイエス様のことばを聞いて、それを信じた人々、およそ120名の人々は、エルサレムのある屋上の間に集まって祈りに専念していました。イエス様が天に戻られてから、10日間くらいの間、彼らはずっと心を合わせて祈っていたのです。この祈りは彼らをどのような方向へと導いて行ったでしょうか。祈りというのは、私たちの霊的な目を覚まし、神様のみこころがわかるように導いてくれます。また、祈りというのは、私たちが神様のみこころに従えるように力を与えてくれます。私たちが神様のみこころをとらえ、そのみこころに従うためには、祈りがなくてはできないのです。

 14節には、「心合わせ」とあります。心合わせて祈ることは、とても大切なことです。私たちは、もしかすると、心合わせて祈るということが欠けているのかもしれません。特に、教会のことに関しては、心合わせて祈るということがとても大切なことです。1回だけ心合わせて祈ればそれで十分なのではありません。心合わせて祈ることが習慣となるまで、私たちは心合わせて祈る必要があるのです。

■15節~20節 120名の人々が日々心合わせて祈っていました。そこで、ペテロが立って話し始めました。ペテロはここで二つの事を語っています。一つは、イエスを捕らえた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言している聖書のことばがある、と言うことです。そして、二つ目は、その聖書のことばは成就しなければならなかった、と言うことです。ここで言う聖書とは、もちろん、旧約聖書のことです。新約聖書は、この時まだありませんでした。

旧約聖書のどこに、イエス・キリストの十字架の死のきっかけを作ったイスカリオテ・ユダのことが書かれてあるのでしょうか。ペテロは心合わせて祈る中で詩篇のことばに導かれました。そのところは、詩篇69:25と詩篇109:8です。私たちには、今一、ユダの裏切りとその箇所の関連性がピンとこないところがあるかもしれません。しかし、ここでまず驚くことは、以前漁師だったあのペテロがこのようなことを発言しているということです。4年前は、まだ漁師をしていました。無学なペテロがこのようなことを言っているのには驚きです。漁師とはいえ、ペテロはイエス様から直接聖書を学び、訓練を受けました。ですから、その学びと訓練の賜物だとも言えるわけです。それにしても、イエス様が十字架に架かる時に、絶対にイエス様を裏切らないと断言したペテロなのに、イエスなんて知らないと言ってイエスを裏切ってしまった、そんなペテロが、このようにみんなの前に立って聖書から人々に向かって語っているのは、やはり驚きです。でも、それもまた、イエス様のおかげなのです。ヨハネの福音書21章を見るとわかります。ペテロは、復活のイエス様から必要なカウンセリングを十分に受けていました。ペテロは悔い改めて、イエス様の赦しと愛を受け取っていたのです。

 また、次に驚くことは、ダビデによって書かれた詩篇のことを、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばであると認識していたことです。詩篇には、イエス様の十字架の出来事に関する預言のことばがあちらこちらにあります。ペテロは、イエス・キリストを裏切ったイスカリオテ・ユダに関わることまで、詩篇の中に見出しています。旧約聖書は、単に、イスラエルの歴史書ではありません。また、単にユダヤ人の律法の書でもありません。旧約聖書の初めから終わりまでが、聖霊に導かれた人によって、イエス・キリストとその救いの事が書かれているのです。そして、その方がどのように誕生し、どのような働きをし、どのように死ぬのかについて、また、そのお方の周囲の事や人々のことまで予告的に書かれているのですから、それは驚きです。

 ペテロは、イエス様による学びがあり、訓練があり、そして、祈りがあって、当時のパリサイ人や律法学者よりも聖書を正しく深く理解することのできる人に成長していました。さらに、ペンテコステの日に聖霊を受けると、その賜物はもっと顕著に現れました。ペテロの内に住まう聖霊がすべてのことを教えてくれたからです。ペテロが旧約聖書に隠された真理に目が開かれたのは、まず、祈りがあったからです。次に、聖霊を受けたからです。ペテロが本気になって祈り始めたのは、イエス様が天に戻ってしまった後の事です。イエス様がゲッセマネで祈っていたとき、ペテロは他の使徒たちと同じように眠っていたのです。あの大変な時に、祈りもしないで眠ってしまったのです。そんなペテロの霊的な目が開かれたのは、本気になって祈り始めたときからなのです。

■21節~26節 ペテロは、祈りを通して聖書のことばから語りかけを受けました。みなが心合わせて祈るプロセスの中で、11人になっていた使徒たちに、もう一人の使徒を選んで補充することになりました。彼らは祈って、話し合ったことでしょう。結果、イエス様がヨハネからバプテスマを受けて天に上げられる日までの間、ともに行動した者で、十字架に架けられて死んで三日目に復活したイエス・キリストの証人となることのできる者、その条件を満たす者の中から選ぶことになりました。そして、候補者二名が選ばれました。バルサバとマッテヤです。私たちなら多数決で決めます。でも、ここでは、くじによって決めました。くじはだめでしょうか。あまりにも軽すぎるでしょうか。でも、箴言16:33を見てください。「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。」と書いてあります。ネヘミヤ記やそのほかの書にも、くじで決めたことが記されています。彼らはくじで決める前に神様に祈っています。イエス様の言われたとおりに、イエス・キリストのみ名によって祈ったのだと思います。くじで決める時は、必ず、イエス・キリストのみ名によって祈りましょう。そして、くじはくじでも、おみくじはダメです。おみくじは、おみくじ占いです。イエス・キリストのみ名によって祈られたのではなくて、他の霊によって祈られたものはダメです。霊だからと言って、何でも信じてはいけません、とⅠヨハネ4:1で言っています。真の神様からのものかどうか、ためしなさい、とも言っています。聖書に書いてあることに忠実でありましょう。私たちクリスチャンは神様に聞いて神様に従うことによって、悪いものから守られているのです。結果的に、くじはマッテヤに当たったので、マッテヤが12人目の使徒に選ばれました。

■今日のメッセージタイトルは、先週に引き続き、日々心を合わせて祈るとどうなる?です。日々心を合わせて、と言うと、本気の気持ちや熱い気持ちが伝わって来ます。ですから、本気で祈るとどうなる?、あるいは、熱心に祈るとどうなる?と言ってもよいかと思います。もちろん、私たちの主、イエス・キリストのみ名によって祈るのです。

 多くの人々にとって祈りとは、何か困ったことが起きた時にするものになりがちです。私たちは、何か問題が起こらなければ、神様に本気で祈らない傾向があります。けれども、祈りは、絶えず祈ることが大切です。なぜなら、祈りは、クリスチャンにとって、霊的な呼吸であり、神様との会話であり、神様とともに歩くことだからです。そのような歩みの中で、何か問題が許された時には、真っ先に神様に助けを求めましょう。神様は喜んで私たちのために働いてくださいます。でも、祈りはそれだけではありません。祈ることについて、今日覚えてほしい一つの事、それは、私たちは祈ることを通して強められるということです。強められることによって、私たちは神様のみこころを選び、神様のみこころを行なう力を受けるのです。私たちがいつまでたっても神様のみこころに従って歩めないとしたら、それは、祈らないからです。ペテロのような人でも導かれて本気で祈ると、あのように、神様のことばを理解し、神様のみこころに従って事を行う力をいただくのです。ですから、本気になって祈りましょう。熱心に祈りましょう。ある時は一人で、ある時は大勢で祈りましょう。祈る機会をお互いにもっと作るように心がけましょう。考えるよりも、話し合うよりも、まずは、心合わせて一緒に祈ることをもっとやってみましょう。

 祈ることについて、今日覚えてほしい二つ目の事、それは、祈ることによって霊的に開かれることがあると言うことです。ペテロが本気になって祈り始めたことが、彼に次のステップを導きました。ペテロは、聖書のことばが以前と違ってわかるようになりました。聖書のことば、聖書の出来事、旧約聖書や新約聖書に隠された神様の計画やみこころが、聖霊の助けと導きによって少しずつ少しずつわかるようになるのです。

 祈りは、ただ、自分の願いをかなえるだけのものであるなら、それは、クリスチャンライフの中で十分に祝福を味わっているとは言えません。祈りをとおして強められ、神様のみこころを知り、神様のみこころに従って歩むことが、私たちの喜びとなっていくのです。また、そのような信仰の仲間と共に歩む中で、主にある一致と喜びを感じることは本当に素晴らしいことです。

 また、祈りを通して、私たちの内におられる聖霊によって、聖書のことばが開かれてきます。ペテロがそうであったように、聖書のことばの意味が開かれるならば、聖書を調べることがおもしろくなってきます。そして、それは、私たちの力となり、互いにそれらを分かち合い、お互いに霊の糧をもって祝福し合うことができるようになるのです。祈りは、そのようなことの始まりを作ってくれます。日々心を合わせて祈るとどうなるのか、本気で祈るとどうなるのか、体験しましょう。一人で祈る祈り、みんなと一緒に祈る祈り、そのような機会をもっと増やしていきましょう。それではお祈りします。