人の思いを越えて

2023年12月10日主日礼拝「人の思いを越えて」イザヤ55:9~11佐々木俊一牧師

■旧約時代の預言者によって語られた多くのことがすでに実現しています。けれども、預言者によって語られていることの中には、成就してみなければどうなるのか断定するこのできないことが多くあります。神様のヴィジョンはあまりにも大きくて、人間の理解をはるかに超えているのだということを、私たちは知っておかなければなりません。

 イザヤ55:9に、「天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」とあります。わたしの道とは、神様の道であり、わたしの思いとは、神様の思いのことです。このみことばが言うように、神様の考えておられることは、私たちが考えていることと、あまりにもレベルが違いすぎるようです。神様の思いが人の思いをはるかに越えていることは、イエス・キリストの誕生の出来事について、人々がどのような態度で、どのように行動するのかを見てもよくわかります。

■マタイの福音書とルカの福音書に、イエス・キリストの誕生の出来事が述べられています。マタイは、イエス・キリストの目撃者であり、十字架の死と復活の目撃者です。しかし、ルカはそうではありません。しかも、彼はユダヤ人ではありません。唯一、ユダヤ人ではない聖書の著者です。福音書以外に使徒の働きの著者でもあります。彼は、初めからの目撃者である人々の証言をもとに、綿密に調べて、整理してルカの福音書を書き上げました。ルカ1:1~4を見るとそのことが書かれています。ルカは医者であったと言われていますから、物事を理論的に、そして、客観的に考えながら整理する作業に慣れていたことと思います。初代教会時代のローマ帝国においては、衛生管理に対する考え方がすでに確立していました。また、医学や薬学に関する基礎的な知識や技術もすでにあったようです。そんな医者であったルカが、これらの出来事が、確信されている出来事であり、正確な事実であるという結論に至って、ルカの福音書を書き上げたのです。

 イエス・キリストがお生まれになったのは、旧約時代、最後の神のことばが預言者マラキによって語られてから400年後のことでした。この400年の間のことは、「沈黙の時代」と言われていて、一人の預言者も現れることはなく、一つの神のことばも残ってはいません。この間に、イスラエルはいろいろな国々の支配を受けていました。ギリシャに支配され(有名なアレキサンダー大王、アレキサンダー大王が死んでギリシャ帝国が4分割された後に)、シリヤとエジプトに支配され、次にローマ(有名なカエザル)に支配されました。彼らは、これらの強国の支配下にあって、救い主の到来をずっと待ち続けていたのです。

 ある日、無名の一人の預言者がその沈黙を破りました。その時の様子が、ルカ2:21~38に書かれてあります。イエス・キリストが生まれて8日目に、割礼の儀式を受けさせるために、ヨセフとマリヤは、エルサレムの神殿にイエスを連れて行きました。そこに、シメオンという人がいました。彼は、救い主を見るまではけっして死なない、と聖霊のお告げを受けていたと聖書にあります。シメオンは聖霊の導きを受けて、イエスを抱くと、神をほめたたえて言いました。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたのみ救いを見たからです。み救いは、あなたが、万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの光栄です。」シメオンによって語られたことばの中には、当時、ユダヤ人の間で共通の認識とされていたこととは異なる点がありました。シメオンは、この救いがイスラエルの民のためだけではなくて、イスラエルの民以外の人々のためでもあることを宣言しているのです。旧約聖書を注意深く読むならば、救いがイスラエルの民のためだけではなくて、すべての国々の人々のためであることがわかります。しかし、当時、イスラエルの民にとって救いとは、イスラエルの民だけが受けるものであると考えられていました。さらに、シメオンは言いました。「ご覧なさい。この子はイスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなた(マリヤ)の心さえも刺し貫くでしょう。それは、多くの人の心の思いが現れるためです。」このところは、まさに、イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事を連想させることばです。イエスが30歳になると、人々の前に現れて、神のみ国と救いについて語り始めました。その時から、人々はイエスに大きな期待を寄せ始めました。長い間、大国の支配下にあって苦しめられてきたイスラエルの民は、イエスこそがイスラエルを他国の支配から解放し、神のみ国を彼らのためにこのパレスチナの地に建設してくださる王であるのだと期待したのです。しかし、イエスというお方は、人々の期待に応えることなく、十字架にかけられて死んでしまいました。多くの人々は期待を裏切られた思いで、イエスに失望して離れて行きました。でも、それで終わりではありませんでした。イエスは復活したのです。イエスは、イスラエルの民だけではなくて、すべての人の救い主となるために、十字架に死んで、そして、3日目によみがえられたのです。  

 イスラエルの民の中で、このイエスを信じたのは、割合から言って、僅かな人々でした。でも、その人々から始まって、福音は全世界に広がって行きました。先ほど、シメオンのことばに、「イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ」とありました。その通りに、イエス・キリストの十字架の死は、イスラエルの多くの人々のつまずきとなりました。しかし、ある人々は立ち上がって、イエスの復活の証人として、その出来事を全世界に向けて伝え始めたのです。また、シメオンはこんなことも言っています。「それは、多くの人の心の思いが現れるためです。」イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事を人々がどのように受け取るのか、一人一人の神様への思いがそれによって表わされ、明らかにされるのです。

 神様の思いは、神様によって必ず成し遂げられます。神様は神様が望むことを必ず成功させることができるのです。イザヤ55:11に、「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる。」と書かれてあるとおりです。神の救いのわざは、イエス・キリストがこの地上に人として来られ、十字架に死に、そして、よみがえられることによって、ほぼ100%成し遂げられました。

■先週からアドベントに入りました。「アドベント」の意味は、「現れ、来臨」です。救い主なるお方が来られるのを待ち望むために用いられることばです。約2000年前に、神なるお方、イエス・キリストがこの地上に人となって来られたとき、ふつうで無名の人々の間に、一人の人として生まれて来ました。この出来事に気づかされた、これらのふつうで無名の人々は、神様の導きの中で、救い主の誕生を祝福し、喜びをもって迎えました。この現れを初臨と言います。そのお方は、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで、三日目に死からよみがえられました。その後40日の間、弟子たちの前に現れて、神のみ国のことを教えられました。そして、エルサレムの東側にあるオリーブ山から弟子たちの見ている所で、天に戻って行かれました。この時、再び戻って来ることを約束して、イエスは去って行かれました。イエス・キリストは再び来られます。これを再臨といいます。アドベントには2つの意味があります。人の罪を贖うために人となってこの地上に赤子としてお生まれになったお方、救い主イエスの来臨を待ち望むことと、信じる人々を神のみ国へ招き入れるために、そして、この地上を裁くために再び戻って来られる救い主イエスの来臨を待ち望むことです。イエス様がこの地上に再び戻ってきた時に、救いのわざは100%完全に成し遂げられるのです。私たちが、私たち自身の死を迎えようとも、この地上が終りの時を迎えようとも、私たちの救い主であるイエス・キリストは、私たちにとって、変わることのない希望なのです。

■エレミヤ29:11に、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。主のみ告げ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」と書かれています。マリヤとヨセフのことを考えてみましょう。救い主イエス・キリストの誕生は、彼らが予想もしない形で起こりました。まさに、彼らに起こった出来事は、彼らの思いをはるかに超えていたことでした。特に、マリヤの夫であるヨセフにとって、この出来事は突然降りかかった災いのようなものでした。彼の葛藤と苦しみは非常に大きなものであったと思われます。しかし、ヨセフは、この出来事を神の導きの中で受け入れました。受け入れることができたのは、何よりも、ヨセフが神様を大切にし、神様の御心を求め、神様に従いたいと願う人であったからでしょう。彼は、自分の思いではなくて、神様の思いを選びました。彼は、ただの大工でしたが、神のみ前にへりくだることを知っていたりっぱな人でした。それは、イエス・キリストを取り巻く他の人々にも言えることです。マリヤは、もちろんそうですし、夜番をしていた羊飼いたちも、預言者シメオンもそうです。彼らは、ふつうの人々でしたが、神様を大切にし、神様の御心を求め、神様に従いたいと願い、神様のみ前にへりくだることを知っていた人々だったのです。だからこそ、彼らは、彼らの思いを越えてその向う側にある神の備えた希望を、信仰によって見ることができたのです。災いと思われる出来事の中には、もしかすると、私たちの将来を作り上げ、本物の希望へと導く道が隠されているのかもしれません。そして、神様の計画は、このような人々によって前進していくものであることを覚えておきたいと思います。

 天が地よりも高いように、神様の道は私たちの道よりも高く、神様の思いは私たちの思いよりも高いのです。どんな時にも、私たちの思いを越えたところに、必ず、神様が備えた希望が用意されていることを信じて歩んで行きましょう。それではお祈りします。