目標をめざし一心に走る

2023年11月26日主日礼拝

「目標をめざし一心に走る」ピリピ3:13~14佐々木俊一牧師

■13節~14節 「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」

 パウロは何を捕らえようとしていたのでしょうか。パウロの目標とは何だったのでしょうか。この世の成功でしょうか。有名になることでしょうか。金持ちになることでしょうか。大きな教会を建てることでしょうか。この世の幸せでしょうか。いいえ、違います。それは、 神の栄冠です。神の栄冠とは、救いであり、永遠のいのちです。

 前の節、11節を見ると、「何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」と書かれています。それは、つまり、死からの復活です。死からの復活は、永遠のいのちを与えられて神のみ国に入ることを意味しています。パウロにとって最大の目標は、この救いをまっとうすることでした。パウロに限らず、すべての人にとって、救いよりも重要なものはありません。パウロは、イエス・キリストを信じる前、裕福な家に生まれ育ち、当時最高の教育を受け、社会的にも認められた立場にあり、何不自由なく生きていました。パウロは、まさにこの世の成功を手に入れた人物であったのです。しかし、それらのものはキリストの救いに比べるなら、ごみのようなものであるとパウロは言っています。キリストとその救いの価値を知ったパウロは、過去の何不自由ない生活も、最高の仕事も、快適な家も、財産も、すべてを捨てても、神様からの使命である異邦人伝道をパウロは選び、生涯を通してその使命に生きたのです。

■ヘブル12:1にこのようにも書かれています。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

 私たちは、ピリピ3章と同様に、このところでも、前のものに向かって進み、走り続ける信仰者の姿を見ることができます。ピリピ3:14のことばも、へブル12:1のことばも、マラソン競技者の競争を思い起こさせるような表現になっています。誰かと戦っていると言うわけではありません。もしも戦っているとしたら、自分と戦っているのかもしれません。その自分とは、古い自分です。私たちは古い自分と戦う時に、忍耐が必要なのです。 

 「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」とあります。これは、ある英語の聖書によると、「容易に私たちをわなにはめるすべての重荷と罪をわきに置いて」となっています。古い自分の性質から来る重荷や罪を引きずってはいけません。それらを過去のものにしなければいけません。私たちはそれらとの関りを捨てて、それらから離れるべきです。なぜならば、それらは、私たちを容易にわなにはめることができるからです。

■ここで、パウロの場合について見ていきましょう。パウロは、以前、教会を迫害するほどの熱心なパリサイ人でした。しかし、クリスチャンを捕えるためにダマスコに向かう途中、復活のキリストに出会いました。そして、パウロは、悔い改めてイエス・キリストこそがメシアであることを信じたのです。この時、イエス・キリストを信じたパウロを歓迎したクリスチャンもいましたが、パウロを警戒したクリスチャンもいました。パウロが教会をとおして働きができるようになるまでには、ある程度の時間がかかったかと思います。パウロはアンテオケ教会から送り出された働き人ですから、まず、アンテオケ教会のクリスチャンが過去において教会を迫害していたパウロを赦し、受け入れることが必要だったでしょう。そうすることによって、容易にわなにはめるすべての重荷と罪をわきに置いて、前へ進み出ることが出来たのです。こうして、アンテオケ教会は、世界に向けて伝道の働きを展開していきました。それと共に、それぞれのクリスチャンの信仰の旅もさらに前に向かって走り続けることができたのだと思います。

 その後、パウロとそのチームは宣教において大きな成果を出していきます。しかしながら、時には問題も起こりました。パウロが同労者バルナバのいとこであるマルコを伴って伝道旅行に出た時のことです。同伴したマルコが、リーダーであるパウロに何の断りもなく勝手にエルサレムに戻ってしまったことがありました。その事が議論を招き、パウロとバルナバとの間に亀裂が生じてしまったのです。それ以来、パウロとバルナバが一緒に働きをすることはなかったようです。しかし、パウロの手紙を見ると、マルコとの関係は修復されたことがわかります。パウロはマルコの働きぶりを評価し、再び一緒に働きをしています。

 また、パウロは、ペテロに対してさえ率直に意見を言う人でした。ペテロが元パリサイ人や律法学者であったクリスチャンを恐れて、異邦人との関わりから手を引こうとした時に、それは神の御心ではないことをはっきりとペテロに指摘したことがありました。きっと、その時もまた、パウロとペテロの関係がぎくしゃくしてしまったのではないでしょうか。しかし、ペテロやパウロの手紙を読むならば、二人の関係も修復されていることが伺えます。

 このように、私たちは福音伝道の働きのためにも、それぞれの信仰の旅のためにも、容易に互いをわなにはめるすべての重荷と罪をわきに置きたいのです。そして、前に向かって進んで行きたいのです。 

■次は、特に、それぞれの信仰の旅において、栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っていくことについてお話したいと思います。ピリピ3:13で、パウロはこのように言っています。「兄弟たちよ、私は、自分はすでに捕らえたなどと考えていません。」ここでパウロは、何について捕らえたなどと考えていない、と言っているのでしょうか。また、

 12節にも似たようなことが書かれています。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされたのでもありません。」ここでもパウロは、何について得たのでもなく、完全にされているのでもないと言っているのでしょうか。それは、11節にヒントがあります。そこに、「死者の中からの復活」とあります。つまり、それは、救いであり、永遠の命です。

 この段階で、パウロはまだ永遠の命をすでに得たのではない、と言っています。これはどういうことでしょうか。パウロは、ローマ書ではっきり言っています。救いは、行ないではなくて、イエス・キリストを信じる信仰によるのだ、とはっきり言っているのです。何か矛盾して聞こえませんか。でも、それが矛盾していないのです。救いが行ないではなくて信仰によるのだということは確かなことです。

 ある有名な牧師がイエス・キリストが救い主であることを否定して、教会から去ったという話を聞きました。十数年も大きな教会の牧師だった人が背教してしまったのです。また、最近イスラム教だった人がクリスチャンになったと言う話を多く聞くようになりました。そのような人々の証を提供しているYouTubeもあります。それは大歓迎です。しかし、反対に、甘ったるいキリスト教から厳しいイスラム教に改宗したと言う人々もたくさんいるのです。

 礼拝に参加していなくても、イエス・キリストを救い主として信じていれば救いから漏れることはないでしょう。けれども、礼拝や教会から遠ざかったことが、イエス・キリストへの信仰を失わせる罠になることはありえます。私たちが救いをまっとうするために、イエス・キリストが救い主であることを信じ続けることが必要なのです。もっと別の言い方で言うならば、救い主なるイエス・キリストとの関係を死ぬまで保ち続けることが大切なのです。

■私たちは、容易に私たちをわなにはめるすべての重荷と罪をわきに置いて、前に向かって進んで行きたいと思います。もしも、私たちを信仰から離れさせようとする重荷や罪があるのなら、私たちはそれらから離れなければなりません。今は良くても、将来、必ず、私たちにとって罠となりえます。 

 また、この地上において、私たちが幸せになることは神様の喜びだと思いますが、しかし、優先順位を間違ってはなりません。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の益があるでしょうか、というイエス様のことばを心に留めておきましょう。私たちは、ついこの地上の幸せを第一に考えてしまいます。しかし、私たちの真の目標はこの地上にではなく、天にあります。救いであり、永遠の命であり、神の御国なのです。 

 この地上に目標を持つことが悪いと言っているのではありません。どちらが優先されるべきことかをきちんと、とらえておく必要があるのです。この地上において私たちが目標を持つ時、常にその目標をクリアして成功できるとは限りません。私たちが目標をクリアできない時、大きな挫折感を味わうことでしょう。でも、その時、覚えておいてください。まだ、本当の目標を失ってはいないことを。

 私たちにとって、どんな良いものがあったとしても、また、どんなに大きな失敗と挫折があったとしても、それが自分にとって罠にならないように、何よりも重要な、救いという神の栄冠に目を向けましょう。イエス・キリストから目を離さず、目標をめざし一心に走り続けましょう。それではお祈りします。