霊的閉塞感から脱け出るヒント

2023年11月12日主日礼拝「霊的閉塞感から脱け出るヒント」ルカ10:17~22 佐々木俊一牧師

■私がイエス様を救い主と信じたのは、1979年のことです。今から44年前です。その頃から、すでに、この日本でたくさんの人がイエス様を信じて霊的なリバイバルが起こるようにと、多くの聖会が行われ、そして、祈っていました。私も、定山渓や登別で行われる二泊三日のリバイバル聖会にはよく参加したものです。そこで志を新たにされて、また頑張ろうという気持ちになりました。

 けれども、そのような努力にもかかわらず、日本の霊的な状態は一向に変わる気配がありません。今に至ってもそうです。それどころか、ますます悪化して、最近では、信仰のリバイバルどころか、信仰のサバイバルとさえ言われています。1995年を境にして、人々の宗教に対する警戒心や無関心がさらに進んで行ったように思います。1995年に、オウム真理教のサリン事件や阪神・淡路大震災が起こりました。また、これについてはいいニュースなのか、悪いニュースなのか、どちらとも言えない、両面があると思うのですが、マイクロソフトのウィンドウズ95が発売されました。私もこの時、富士通のパソコンを25万円出して買ったのを覚えています。

 この後、キリスト教会にはいろいろな教えのブームがやってきました。その大きな一つは繁栄の神学です。イエス・キリストを信じれば、病気は治るし、お金も儲かる、というような物質的な豊かさや成功を中心にして説く、まさにご利益宗教的な教えが大きな影響を与えてきました。

 また、聖書のことばを神の啓示として受け取るのをやめて、人間にとって都合の良い解釈に変えて教えています。さらに、聖書の教えに聖書以外の教えを加えて人々が受け入れやすいようにアレンジしている場合もあります。たぶん、このような動きは、霊的な閉塞感の中で、人々にキリスト教が広く受け入れられるための人間的な知恵だったのではないかと私は思います。クリスチャンは誰でも、多くの人々にキリストの救いを、そして、キリストの教えを信じてほしいと思うものです。また、クリスチャンを良い人々であると好意的に見てほしいものです。しかし、そうだとしても、そのような妥協を神様は喜んではいないと思うのです。

 それでは、今日の聖書箇所を見ていきましょう。

■今から2000年前、イスラエルの人々は、ローマ帝国の支配と、当時の宗教的価値観に縛られた社会の中で生きなければなりませんでした。少数の勝ち組が勝ち誇り、大多数の負け組にとっては希望の持てない世の中でした。そのような中で、当時の宗教的価値観は、悩む人々に希望や喜びを与えるどころか、絶望を与えるものとなっていました。しかし、ルカ10章で私たちは、弟子たちの喜び、そして、イエス様の喜びを見ることができます。この喜びは 、どこから来る喜びなのでしょうか。

■21節に、「知恵のある者や賢い者」とあります。「知恵のある者や賢い者」とは誰のことでしょう。それは、当時の教育を受けた、社会的に地位のある者たちのことであり、政治家や宗教家たちのことです。彼らは当時の社会で選ばれた人々であり、この世の成功者でありました。ゆえに、彼らのほとんどは、イエス様の言われることに無関心であるか、あるいは、否定したり、敵対したりする者でした。それに対し、「幼子たち」とは誰のことでしょうか。それは、文字通り、小さな子どもたちも含めて、低くみなされていた者たちです。ここでは、10:1にあるように、新たに加えられた72人の弟子たちのことを指しているのでしょう。彼らの多くが教育を受けておらず、社会的にも地位の低い人々だったと思われます。しかし、彼らは、イエス様の言われることに耳を傾けました。自分を高くする者には隠されていて、自分を低くする者には現されるものがあります。彼らはイエス様に対して心を開きました。そして、彼らはイエス様のことばに従いました。その結果、彼らに現わされたのです。イエス様のみ名の権威と力を彼らは体験しました。自分を低くする者は神様のことばに従います。そうしたら、神様がどのようなお方かを体験するのです。自分を高くする者は神様のことばに従いません。ですから、いつまでたっても、神様がどのようなお方かを体験できないのです。彼らは、イエス・キリストのみ名の権威も力も認めませんし、神様がどのようなお方かを知ることもありません。 しかし、自分を低くする者は、知ることができるのです。

  これらのことを知った72人の弟子たちは、喜んでイエス様のもとに戻って来ました。そして、結果報告をしたのです。ルカ10:17に、こう書かれています。「主よ。あなたのみ名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」と、彼らはとても興奮してイエス様に報告したのではないでしょうか。そうしたら、イエス様が言われました。「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、私は見ました。」と。つまり、イエス様というお方は、悪霊どものかしらであるサタンでさえも天から落とすほどの権威と力をもったお方であることを、弟子たちに明確に示されたのです。イエス様はそのことを非常に喜ばれました。そして、聖霊によって喜びあふれて言われたとあります。

■イエス様のことばに従った者に、言い換えると、自分を低くする者に与えられたのは、大きな喜びでした。この喜びは、彼らをとりまいていた社会的な閉塞感や霊的な閉塞感を打ち破ったのではないでしょうか。今日は、特に、霊的閉塞感について考えてみましょう。

 彼らは、イエス・キリストのみ名の力をじかに体験しました。それにより、本当の神様がどんなに力強く素晴らしいお方であるのかを知ることができたのです。 また、その権威と力を授けたイエス様を通して、神様と言うお方が遠い存在ではなくて、彼らの身近で働いてくださるお方であることを知ることができました。彼らの誤った神観が崩れ去り、本来あるべき正しい神観が形作られるきっかけとなったのです。以前の神観は、当時の宗教指導者たちの影響がとても大きかったと言えます。ですから、それによってもたらされた神様のイメージは、裁きの神、厳しい神、恐い神、口うるさい、赦さない神でした。そこにあるのは絶望だけです。どんな努力も無駄なのです。それは、彼らに霊的な閉塞感をもたらしていました。しかし、イエス様がそれを打ち破ってくださったのです。

■また、彼らは、イエス様の指導の下、いきいきと働くことを体験しました。イエス・キリストのみ名の権威と力によって病をいやし、神様のメッセージを語りました。彼らは神様にとって役に立つ存在でした。以前の彼らは、自信のない、価値のない、希望のない、劣等感や罪責感に悩む人々でした。本当は、世の中の成功者になりたかったでしょう。もっと裕福な生活がしたかったでしょう。でも、彼らはそんな理想からほど遠い人々でした。ですから、セルフイメージがとても低かったのです。これもまた、彼らにとって霊的な閉塞感の原因だったと思います。しかし、イエス様が、彼らに自信と喜びを取り戻してくださいました。

■時代によって、国によって、個人によって、いろいろな異なる霊的閉塞感があると思います。日本は伝道が困難な国です。やっても結果が出ないので、敗北感を感じてしまうのです。福音を語りたくても語れない雰囲気があります。だから、霊的に息が詰まる感じがします。八方塞でだんだん動けなくなっていきます。そして、自信を失います。このような霊的閉塞感を感じている牧師や働き人が、日本にはたくさんいます。でも、神様は、日本のクリスチャンをこのような閉塞感から解放したいと願っておられると思います。そのために、私たちはどうしたらよいのでしょうか。

 実は、今までもいろいろと考え、いろいろとやってきました。中には、うまくいっている教会はあるでしょう。でも、ほとんどの教会は、同じ問題が続いています。

■この閉塞感を断ち切るために、私たちはどうしたらよいのでしょうか。まず、働きが思うように進まなくても、福音に自信を持ちましょう。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」とⅠコリント1:18に書いてあります。そして、 「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」とⅠコリント1:21に書いてあります。

 福音のことばを聞いて、幼稚に聞こえるのは当然です。それが神様の計画なのですから。神様は、その幼稚なことばを通して、人々を救おうと計画されました。この世のどんなに優れた知恵や知識によっても神を知ることはありません。それが、神の知恵なのです。宣教のことばは、信じない人々にとっては愚かであっても、信じる人々にとっては神の力です。私たちはこのことを、しっかりと心に刻みたいと思います。そしていつか、神の大いなる力を、私たちの思いをはるかに超えた形で実際に見るときが来ます。私たちはすでに、最高のものを手にいれているのですから、人が何と言おうとも、福音に自信を持たなければなりません。

 また、私たちが福音を語る時、誰も関心を示さなかったり、また、ある時はからかわれたりすることもあります。私たちが願うようには、福音を語っても信じる人はほとんどいません。そんなことばかり経験していると、もう語るのが嫌になってしまいます。でも、それは、昔からそうなのです。旧約聖書を見てください。預言者が人々に神のことばを語った時、人々の反応はどうでしたか。人々のほとんどは言うことを聞きませんでした。人間は今も昔もそうなのです。Ⅱコリント4:3~4には、こう書かれています。「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」人々に福音を語っても、人々が信じないのは、私が悪いからではありません。滅びる人の場合には覆いがかかっているのです。また、この世の神、サタンがその人々の思いをくらませているのです。ですから、私たちに原因があるのではありません。自分を責めなくてもよいのです。そのことで、落ち込んでいてはいけません。私たちに問題があるというよりも、信じない人の側に問題があり、また、その人の思いをくらましているこの世の神、サタンや悪霊のせいでもあります。私たちはそのことを事実としてとらえる必要があります。福音を語ることは私たちに任せられていますが、信じるか信じないかは人それぞれの責任です。自分がその責任を負う必要はありませんし、負うこともできません。あとは、祈り、神様にゆだねましょう。気持ちを切り替えて、自分自身は主にあって喜んで、いきいきと生きることをこころがけたいと思います。

 いきいきと生きるとは、常に、にこにこしていることではありません。たとえ、失敗したとしても、またやり直す力が与えられます。信仰によって進んで行くなら、その信仰が生き様となって表されます。そんな生き方を、もしも、神様が救いへと定めた人々が見るならば、きっと、その神様を知りたいと思うはずです。クリスチャンこそが、信仰によっていきいきと生きて行ける機会が与えられていることを覚えましょう。

 ルカ10:20に、「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい。」とあります。神様のみわざが現わされたり、人々が救いに導かれたりすることは、私たちにとって大きな喜びです。しかし、それ以上に、私たちにとって喜びとすべきことがあります。それは、私たちの名が天に記されていることです。そのことを何よりも喜びなさい、とイエス様は言っています。私たちの働きがうまくいっていないために、もしも、霊的な閉塞感を感じているとしたら、私たちはそんな思いを切り替えなければいけません。働きがうまくいっていなくても、私たちには喜ぶ理由がある事に気づきましょう。それは、イエス様が言っていることです。「あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい。」それではお祈りします。