神のことばは完全!

2023年10月8日主日礼拝「神のことばは完全!」Ⅱテモテ3:15~17、詩編19:7~8佐々木俊一牧師

■この前の日曜日は主の晩餐式を行ないました。私たちは、イエス様が再びこの地上に戻って来られるまで、主の晩餐の時を持ち続けるように言われています。それは、私たちが新しい契約の中にある事を覚えるためです。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。しかし、3日目に復活されました。そのことを信じる者は、罪赦されて神の子とされ、永遠の命を受けて神の御国を相続する者とされました。その事を、私たち自身がまず覚えるためです。そして、その事を世に向けて示すためです。

 私たちは主の晩餐式のためにパンとぶどうジュースを用いています。もともと、主の晩餐の起源はユダヤ教の過越しの祭りにあります。過越しの食事の中で、種なしパン、マッツアを3つ用意します。その3つのパンには表すものがあって、上から順番に、アブラハム、イサク、ヤコブを表しています。この3人はユダヤ人の先祖です。ユダヤ人は自分たちの神様を、アブラハムとイサクとヤコブの神と呼んでいます。真ん中の種なしパンは、イサクのパンと言われています。

 最近、ユダヤ人の中で、イエスをメシヤと信じる人々が増えています。彼らが主の晩餐を持つ時、種なしパンが表わすものはユダヤ教の人とは異なります。上から順番に、父なる神、子なるキリスト、聖霊を表しています。ユダヤ教のユダヤ人にとって、真ん中のパンはイサクを表しています。イサクはアブラハムのひとり子です。それに対して、メシアニックジュ―の人にとって、真ん中のパンはイエス・キリストを表しています。イエス・キリストは父なる神のひとり子です。この前、子どもメッセージでお話しました。イサクは、もう少しでいけにえとして殺されるところでした。しかし、危機一髪のタイミングで、イサクの代わりに神様によって雄羊がいけにえとして備えられました。実は、この時のイサクは、十字架に架けられたイエス・キリストをあらかじめ表しているものだったのです。メシアニックジュ―の人々は、イサク、あるいは、イエス・キリストを表わす真ん中の種なしパンをとって、それを裂いて主の晩餐の時に食べるのです。しかし、ユダヤ教の人々は、どういう理由から真ん中のパンを裂いて食べるのかわからずに食べているのです。

 このように、新約聖書のことばや出来事は、旧約聖書のことばや出来事と深い関わりを持っています。ですから、旧約聖書には、新約聖書の真理や出来事をもっと深く知るための手がかりがあるのです。イエス様がヨハネの福音書5章46節で、「モーセが書いたのはわたしのことだからです。」と言っているのは、そういうことです。モーセの書いたものとはモーセ五書の事ですが、旧約聖書全体の事と言ってよいでしょう。旧約聖書は、イエス・キリストの事を書いた書なのです。それでは、Ⅱテモテ3:15から見て行きましょう。

■15節 「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」

  この手紙はパウロからテモテへの手紙ですが、テモテは幼いころから聖書に親しんでいました。母の名前はユニケ、祖母の名前はロイス、二人ともに熱心なクリスチャンでした。母も祖母もユダヤ人のようですが、父はギリシャ人です。クリスチャンだったかどうかはわかりません。ですが、テモテは母と祖母の熱心な信仰を継承したようです。

 「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることが出来るのです。」とあります。ここで言う聖書とは、旧約聖書の事です。旧約聖書のことばを聞いたテモテは、イエス・キリストを救い主と信じ、救われたと言うのです。みなさん、信じられますか。私たちのほとんどは、新約聖書があるので何とかイエス・キリストを知ることができました。そして、信じました。もちろん、そこには、聖霊の働きがありました。私たちが旧約聖書を読むと、何を言っているのかよくわからない、と言う印象を持つ人が多いのではないでしょうか。本当に、旧約聖書のことばだけを聞いてイエス・キリストが救い主である、と言うことがわかるのでしょうか。ある意味、それはすごいことです。

 彼らは新約聖書の時代を実際に生きていた人々です。ですから、イエス・キリストについてはその時代の中で誰かから聞いたにちがいありません。もしかしたら、キリストの十字架の目撃者の一人から、イエス・キリストの事を聞いたのかもしれません。2000年後の現在、私たちが新約聖書に書かれていることを通してわかることを、彼らはその時代にあって誰かから聞いて知っていたのです。

 それにしても、旧約聖書は確実に彼らの信仰の糧になっていました。旧約聖書に書かれてある事と現実に起こった出来事をもとに、聖霊の助けを受けて彼らはイエス・キリストが真の救い主であることを信じたのです。そうであれば、私たちにとっても旧約聖書は、同じように、理解することのできることであり、信仰の糧にもなるはずです。もちろん、そこには、聖霊の助けがあり、働きがあってできることです。

■16節~17節 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」

ここで言っている聖書も、旧約聖書の事です。旧約聖書はすべて、神の霊感によって書かれました。霊感とは、聖霊の導きによって、と考えてよいでしょう。聖霊に導かれて書かれたのです。それは、何か恍惚状態になりながら書いたと言うわけではありません。

 旧約聖書にはイエス・キリストのこと以外にも、教えと戒めと矯正と義の訓練のために人にとって有益なことが書かれています。たとえば、子どもたちが正しい生き方ができるように訓練するために、また、人の悪い癖を矯正するために、必要な知恵や知識が聖書の中にはあるのです。さらに、神の人を神様の良き働き人として整えられるために、旧約聖書のことばは有益な助言を与えてくれます。神の人とは私たちクリスチャンのことです。私たち一人一人が神の人であって、神様の働きをする者として、それにふさわしく十分に整えられた者となるために聖書のことばを神様は用いられるのです。神様の目的がなされるために私たちがしなければならないことは、聖書のことばにふれると言うことです。聖書のことばにふれるために、私たちは聖書を読むことも聖書のことばやその教えを聞くことも必要なことです。読んだり、聞くだけにとどまるのではなくて、さらに、それを実行することが大切なことです。

 次に、旧約聖書から、詩篇19:7~8を見て行きたいと思います。きっと、テモテは詩篇をよく読んだことと思います。詩篇は私たちに、新しい契約に生きる人々が神様とどのような交わりを持って生きて行けばよいのかを示してくれています。特に、ダビデを通して語られていることばは、良い時も悪い時も、良き模範を示してくれていると思います。それでは、詩篇19:7~8を見てみましょう。

■7節 「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。」

 「主のみおしえ」とは、ここでは律法のことですが、聖書のことばと言ってよいでしょう。私たちクリスチャンにとって、聖書とは、旧約聖書と新約聖書のことです。聖書のことばは、完全であると言っています。聖書はすべて神の霊感によるものなので完全なのです。

 聖書の中身について誤りや矛盾点を指摘する人々がいます。言われてみれば、確かに、そのような箇所があります。しかし、聖書全体を見るならば、それは取るに足らないことです。それ以上に、1600年もの長い時間をかけて、また、40人以上もの著者によって書かれた聖書が、一つのテーマ、救い主なるキリストの来臨とその救いのわざについて書かれているということが、本当にすごいことだと思います。時間と空間を超えて、直接、接触するはずのない人々が、聖霊の導きによって共通のテーマについて書き続けてきたのです。

 私は、牧師という立場にありますので、その役割を果たすためには聖書を否定的にとらえていてはならないと考えています。聖書は、聖書に書かれてあるように、神の霊感によって書かれた、誤りなき神のことばとして受け取っています。人々の信仰を建て上げるために、神のことばを語ることが必要です。人々を神様にしっかりとつなぎたいならば、神のことばを語る牧師が聖書のことばに不信感をいだきつつ語ることはできません。もしもそんなことをするならば、神のことばは力を発揮することはできません。神のことばは、私たちの信仰とともに完全に働くからです。

 それでは、7節で、神のことばをどのように言っているのか見てみましょう。

①  神のことばは、私たちを生き返らせる!

 このことには、この地上のことと、神の御国のことの二つのことがあると思います。私たちがこの地上に生きている間、神のことばは、私たちを守り、祝福してくれます。私たちの体も心も霊もすべてが健康に、そして、健全に保たれることが神様の願いです。人は誰でも病にかかり、年をとって体は弱くなります。けれども、そのような中にあっても、神様の助けがあり、守りがあり、いやしがあります。また、人は誰でも恐れたり、心配したり、不安になったり、腹がたったり、怒ったり、憎しみや妬みが湧いて来たり、心が弱り果てたりすることがあります。けれども、そのような中にあっても、神様は私たちから離れず、共にいて私たちを守り、導いてくれます。体が弱るときも心が弱るときも、神のことばは私たちにとって力になります。神のことばは言います。「クリスチャンは倒れそうで倒れない。死にそうで死なない。大丈夫だよ。」と。聖書には、このようなことを意味することばや話がたくさんあります。探して見てください。きっと、見つかります。神様のことばには、私たちの体も心も元気にしてくれる力があるのです。

 次に、神の御国におけることというのは、永遠の命のことです。この肉体はいつか朽ち果てます。しかし、神のことばによるならば、救い主なるイエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストが十字架に死んで三日目によみがえられたように、終わりの日によみがえるのです。ですから、信じる者にとって、死は終わりでもなく絶望でもありません。新しい命の始まりなのです。

②  主のことばは、信頼するに値する! 

 「主のあかし」も、神のことばと言ってよいでしょう。聖書には、神のあかしでいっぱいです。「確か」とは、信頼するに値する、信じるに値するということです。聖書に書かれていることは、この世の何ものよりも信頼するに値します。この点について私は、信頼するに値するものに出会えて本当に幸運だったと思っています。若かった時よりも、年をとった今のほうがずっとそのように思えてなりません。

③  神のことばは、わきまえのない者を賢くする! 

 私は本当にそう思います。体験者だからそう言えるのです。私の若い頃は、実にわきまえのない者でした。けれども、真の神様に出会い、聖書を読み、神様のことばにふれてから、失敗を重ねながらも、少しずつ変えられてきました。自分のことばかりではなく、他人のことも考えることができるようになりました。自分のことしか考えていなかった自己中心の人間が、両親や家族のありがたさがわかるようになりました。非常識な人間が、よくもまあここまで常識をわきまえた人間になれたものだと我ながら感心します。Ⅱテモテ3:16にはこのように書かれていました。「聖書は・・・教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」わきまえのなかった私は、確かに、聖書のことばによって矯正され、訓練されたのだと思います。

■8節 「主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」

④神のことばは、人の心を喜ばせる!

 「喜び」は、イエス・キリストを信じる者の大きな特徴です。イエス・キリストを信じる者は、喜びの心の状態が習慣化するように導かれていると言ってよいと思います。Ⅰテサロニケ5:16~18に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」とあります。みなさんは、この箇所をどのように理解しているでしょうか。ある人は言います。「いつも喜ぶなんて無理。すべてに感謝するなんて無理。もしも、愛する人が死んでしまったら、その時も喜ぶの?そのことも感謝するの?パウロの言うことは律法的だ。」私は、このような考え方は一方の極端な考えだと思います。そして、もう一方の極端な例はこうです。1日に何回感謝できたのかをカウンターで数えて毎日記録していた人を知っています。まさしく、感謝するということが恵みではなくて、律法になっていたのです。カウンターで数えることによって、そのノルマを果たし、その行ないによって模範的なクリスチャンであることを自分で認めたかったのです。このようなタイプの人は、愛する人を失って悲しみのどん底にいる人を見たときに、こう言うでしょう。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これは、神様の命令です。神様の命令に従いなさい。」と。しかし、悲しみのどん底にいる人にとって、このような言葉ほど過酷なものはありません。喜んでいいこととそうでないこと、感謝していいこととそうでないこと、これらのことをわきまえることができないならば、人はその人の人格を疑うことでしょう。この二つの極端に共通することは、律法的な考えに縛られているということです。悲しいことがあった時には、悲しんでよいのです。辛いことがあった時には、辛いと言ってよいのです。

 ただ、気をつけなければならないことがあります。否定的な心の状態が習慣化してしまうことです。ストレスの多い現代社会において、人々があまり楽しくない気持ちで過ごすことは珍しくありません。物事が思うようにうまくいかない時には、不平不満が始終口から出てしまいます。人との関わりの中で、怒ったり、恐れたり、不安になったり、苦々しい思いになったりすることはよくあることです。

 また、私たちは、すでに与えられている恵みの大きさと多さに気づかないことがあります。与えられていることがあまりにも当たり前になっているので、与えられていないことに心を奪われてしまって、そのために、喜べない、感謝できない心の状態になっているのです。喜べない理由がいかなるものであっても、このような否定的な感情が習慣化することは、神様のみこころではありません。私たちは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」という神のことばに気づかされるならば、喜ぶことを選び、祈ることを選び、感謝することを選んで、私たちの心の向きを変えなければいけません。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」このみことばは、私たちが良い習慣を身につけることを目的としています。けっして、私たちを裁いたり、評価したりするための基準ではないのです。律法的にとらえることのないように気をつけたいと思います。   

■神のことばは、キリスト・イエスに対する信仰へと導き、その救いを得させる力があります。神のことばは、キリスト・イエスを信じる者たちに良い心の習慣を身につけさせて、すべての良い働きのために十分に整えられた者にすることができます。良い心の習慣を身につけることは、人の幸せと大きく関わりがあります。

 私たちは神のことばである聖書を毎日読みましょう。なぜならば、神のことばは私たちの心と霊の糧であり、私たちの心を造り、信仰を強くしてくれるからです。そして、神の働き人として整えていただきましょう。神のことばは聖霊と共に働いて私たちのうちで完全な働きを進めています。ですから、聖書を読むとともに、私たちは聖霊の導きに従いたいと思います。それではお祈りします。