主を待ち望む者への約束

2023年10月1日主日礼拝「主を待ち望む者への約束」詩篇33:13~22佐々木俊一牧師

■前回は、ダビデの幕屋についてお話ししました。今日お読みしたところも、ダビデがその幕屋で楽器を弾きながら歌ったのかもしれません。

 私たちは詩篇をとおして、神を信じる者への神の愛やあわれみを見ることができます。 詩篇の約半分ははっきりとダビデの名が記されています。神様とダビデの関係は、神様とイエス・キリストを信じ、新しい契約の中に入れられた人々にとって模範となる関係を表しています。ですから、ダビデが書いた詩篇をとおして、神様と私たちの関係がどのようなものなのかを知ることができるのです。

 ダビデはは羊飼いでしたが、後にイスラエルの王様になりました。羊飼いから王様になったのですから、大成功者です。きっと、彼は、贅沢で華やかな人生を送ったことと思われます。が、しかし、それだけではないようです。ダビデの人生は良いことばかりだったというわけではありません。親しい友人や身内の裏切りを体験し、多くの苦しみと悲しみの中を通りました。ダビデの時代と今の時代を比較するならば、知識は増し加わり、科学は大きく進歩しました。けれども、人の心はほとんど変わってはいません。出会う問題や困難は基本的に同じです。人間関係の問題、家族の問題、仕事の問題、経済の問題、国家間の対立、貧困、差別、病気、戦争、妬みや嫉妬、憎しみや恨み、殺人、死など、現代と何の違いもありません。人の心ほど進歩のないものはありません。人は昔も今も似たようなことで悩み苦しんでいるのです。ですから、ダビデの書いた詩篇は、今の時代にあっても、私たちにとって慰めであり、生きる模範として適用することができるのです。

■13節~15節 「主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。御住まいのところから地に住むすべての者に目を注がれる。主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。」

 このところを読むと、神様は一人残らずすべての人を見ておられるようです。ですが、人間のことを見ている神様がおられるところを、人間は見ることはできません。そう言えば、トルコに行った時、あるホテルの部屋は、浴室からは部屋全体を見ることができたけれども、浴室の中は外側から見えないようになっていました。

 また、神様は、だれがだれなのかを知っておられます。私の名前が俊一だと言うことを知っています。子どもの頃は友達から俊ちゃん、と呼ばれていました。家族からは僕、と呼ばれていました。つまらないことですが、神様はそのことも知っています。一人一人の心の中や、やっていることなど、すべてを知っておられるというのです。長所もあれば、欠点もある、完全な人は誰もいないことも知っています。地上のすべてのスーパーコンピューターの情報量を結集したとしても、神様のそれにはかなうものではありません。また、全知全能なる神様は、その情報を使って人間を管理しようなどとは考えてはいないでしょう。なぜならば、聖書には、神は地上のすべての管理を人に任せたとあるからです。神様は人に自由を与えているのです。

 主に信頼している人にとって、主が一人一人を見ておられることは、とても心強く安心できることです。時には、神様のみ心に従えないことがあるかもしれません。しかし、イエス・キリストの救いの中にいる者にとっては、そのことが、びくびくする理由にはなりません。何しろ、神様とその人との間は、父と子、親と子の堅い絆で結ばれているからです。子どもが悪いことをすれば、当然、親はそれを叱ります。しかし、それによって、親子の関係が切れるわけではありません。

■18節~19節 「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。」

 神様の目を、特にひきつける者たちがいます。それはだれでしょうか。一つは、主を恐れる者です。この地上の何ものよりも、主を尊ぶ者に主の目は注がれるのです。もう一つは、主の恵みを待ち望む者です。この地上の何ものよりも、主のあわれみに希望を託す者に主の目は注がれるのです。

 19節のことばは、ダビデ自身の体験から導かれたことばでしょう。非常に確信に満ちたことばです。ダビデは、イスラエル初代の王、サウルによって12年間不当な苦しみを受けました。何度も何度もサウルによって殺されそうになり、精神的にもつぶれてしまいそうになりました。しかし、その中で、ダビデは常に主に信頼し、主に希望を持ち続けて歩みました。そして、ダビデは守られてついに、イスラエルの王になりました。主を恐れる者には、主に与えられた役割があり、働きがあります。主の恵みを証するという役割であり、働きです。ダビデがそのことを示しているのではないでしょうか。その役割と働きをまっとうするまでは、その人は死にません。大丈夫です。守られます。ダビデはそのことを体験したのです。

 神様は、主を尊び、主の恵みを待ち望む者を、精神的な苦しみや不安や恐れに打ち負かされないように守ってくださり、脱出の道をも備えてくださいます。また、命の危険にさらされるときには、生きながらえさせるために守ってくださいます。神様は、その人が与えられている役割と働きをまっとうするまでは、いかなる困難の中に置かれたとしても、守りとおしてくださるお方なのです。

■20節~22節 「私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。私たちがあなたを望んだときに。」

 ここで、主語が「私たち」になっています。ここで、私たちは、神様のことばを自分たちにも適用するように導かれています。主が助けであり盾であることは、ダビデにとってだけではなくて、私たち自身にとっても同じなのです。主が私たちを守り導いてくださいます。何があっても主に信頼し続けるならば、その人は、必ず、主によって喜びのときを迎えます。そして、その時、私たちは神様の証し人として導かれていることを忘れてはなりません。神様の恵みを証する役割が与えられているのです。それは、神様がクリスチャンに与えた生涯かけての働きです。すべてのクリスチャンが主の証し人として召されています。主の証し人として召されている人々は、何があっても神様のみ手によって守られているのです。それが、このところに書かれてある約束です。主を待ち望む者への約束なのです。

 みなさん、聖書のある個所には後ろを振り返らずに、とありますが、主の恵みについてはそうではありません。後ろを振り返って主の恵みを思い起こしてください。何度、大変なところを通らされたことでしょうか。しかし、そのたびに、神様は守ってくださり、今、私たちは、このようにしてあるのです。そのことを証することは私たちに与えられた役割であり、働きなのです。その役割と働きを生涯かけてまっとうしていきましょう。それでは、お祈りします。