イエスが称賛した人々:罪深い女性

2023年9月17日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

ルカの福音書7章36〜50節

 

イエスが賞賛した人々:罪深い女性

 

   オンラインで、そして直接ここで共におられる皆さん、こんにちは。私たちは今日も、イエスが賞賛された人々に関する一連のメッセージを続けます。イエスが強調し、推奨したいと思われるこれらの人を見つけることによって、私たちは人間としての成長を進歩させようとしています。私たちは神様に、御言葉を学ぶこの時間を用いて、私たちの考え、言葉、行動が自然に神様の栄光と私たちの善につながるために、私たちの人格がよりイエスに似る者となるよう助けをいただきたいと願っています。

 

   皆さんが既に気づいておられるように、イエスが聖書の物語の中で褒め上げている人々は、しばしばイエスの話を聞く者たちを驚かせます。ローマの百人隊長には間違いなくほとんどの人が憤慨しており、バプテスマのヨハネはおそらく多くの人々にとって非常に奇妙に思えます。今日の物語の女性は「罪深い」とされているので、多くの人に見下されています(37節)。しかし、イエスはルカ7章でこれら3人の人物を選び出し、彼らに特別な注意を払います。それは彼らそれぞれに、当時そして今、イエスの話の聞く者が知る必要があり、また自分の人生に適用できる何かがあるからです。

 

   それでは今日も、物語に一つずつ目を通していきましょう。少し長いので、すべてを含めようとは思いませんが、「晩餐」の席で起こったイエスの物語を心の中で体験してみましょう。

 

   ルカは、人々がイエスを「罪人の友」と呼んだと語ったばかりです(7章34節)。今日の話(7章36〜50節)は、彼らがイエスについてこのように言うとき彼らが考えていることを例示しています。彼らはこう言う時にイエスに対する侮辱や一種のクレームを意味しているようですが、イエスは、罪人やご自分のところに来るすべての人、そしてご自分と救いという関係で生きようとする人の友として知られることを喜んでおられます。

 

   イエスはまた、7章35節(今日の話の直前)で、「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」と述べておられます。私たちは最近、人格の形成と発達について考えています。成熟した人格の重要な部分の一つは知恵です。おそらくほとんどの人が賢明になりたいと思っていますが、人々が知恵が何であるかを理解する方法はさまざまで、それが何であるか、そして知恵と愚かさを見分ける方法について共通の理解を持っていない限り、それについて話すことはほとんど意味がありません。

 

   私はユダヤ聖書完全訳(The Complete Jewish Bible)が35節でつけている「・・・知恵の証拠はそれが生み出すあらゆる種類の人々にある。」という表現が好きです。今日の話では、本当に賢明な人の例を見ることができます。そして、驚くべきことに、その女性は、賢明な言葉を聞く多くの人が想像するような人ではありません。繰り返しますが、私たちは彼女から学べることが沢山あります。そして私は、私たちが耳を傾ける時、神様が今日私たちのために考えておられるすべての方法で私たちがそのことに気づき、それを受け取り、形作られ、強められるのを助けてくださるよう神様に願っています。

 

   なぜイエスはパリサイ人との「晩餐」におられるのでしょうか? パリサイ人は、イエスがしばしば辛辣に話をされる人々であり、彼らも自分たちをイエスの敵として設定しています。しかし、ここでは彼らの一人がキリストを自分の家で食事(おそらく夕食)をするように招待し、私たちの主も彼と一緒に時間を過ごし彼を個人的に知ることを望んでおられます。

  

   佐々木さんが先月のメッセージで説明したように、ルカ4章15節では、イエスが地元のシナゴーグで教えておられることを語っています。イエスはあちらこちらの場所へ、特にガリラヤ地方を旅され、安息日にはシナゴーグで礼拝することを習慣とされます。そのことはルカ4章16節で学べます(それは私たちがイエスのようになるために同じことをする主な理由です)。そして、どこかの場所に到着されたときには、明らかにそこのシナゴーグで教えられることを習慣とされています。

 

   シナゴーグはしばしばパリサイ人によって運営されており、シモンはイエスがちょうど教えられている地元の礼拝所の指導者の一人である可能性が高いです。ルカは私たちにすべての詳細を教えていませんが、聖書学者のクレイグ・エヴァンスによると、最も可能性の高い考えでは、この食事はキリストがそこで行った奉仕に対して受け取る感謝として贈られたものであるということです。それは謝礼です。(私たちは、イエスがルカ11章で話された後にパリサイ人の家に行くのを見ます。またルカ14章でパリサイ人の家で食事をされるとき、それは再び安息日でのことです。)

 

   もしも晩餐がイエスへの謝礼であるのが主であるなら、シモンがイエスを自分の家の上席に招待する理由は、必ずしも彼がイエスとその教えを非常に尊敬していることからではありません。それはおそらく一般的な礼儀の問題か、シモンが習慣に従うことを期待されていると感じていることです。また、彼はただ単にイエスに興味があるか、自分が主催する晩餐で今有名になりつつある人物を歓待することによって、他の人の前で見栄えを良くしたいだけかもしれません。彼の動機のもう一つの部分は、ルカが6章7節で私たちに言ったばかりのことで、パリサイ人と律法学者がイエスを訴える理由を探しているということかもしれません。もしシモンがキリストのーご自分をトラブルに巻き込むようなー言質を捕える機会を見つけたら、彼は喜んでそれをするかもしれません。これらの動機のいくつかの組み合わせが、この晩餐が進むにつれてシモンの中に現れたのかもしれません。

 

   イエスの足を洗い、香油をつけ、髪で拭う女性は誰でしょう? 私たちにその名は分かりません。ヨハネ11章2節で似たようなことをしたと注目される女性でしょうか?後にヨハネ12章(2〜3節)の物語に登場するベタニーのマリアでしょうか?聖書の作家は私たちに明らかにしていません。彼女は、イエスが7つの悪霊を追い払ったマグダラのマリアでしょうか?(マルコ16章9節)  そうかもしれません。ルカはそれが事実かどうか言うことができるでしょうが、そうしません。だから、はっきりしたことは分かりません。

 

   この女性はそもそもどうやってシモンの家の上席に入ることができるのでしょうか? パリサイ人として、シモンが彼女のような「悪い」人から離れるべきだと思うなら、なぜ彼は彼女がそこにいることを許すのでしょう? 彼が積極的に彼女を中に入れる決定をした可能性は低いです。この物語当時のイスラエルの家のデザインのせいである可能性が高いです。それらの家は通常それほど大きくありません。例えば、4〜6つの部屋があると言えるでしょうし、しばしばU字型に設計されていて片側が開いています。エアコンのない暑い東地中海性気候では多くは人々は、今日一部の人々がパティオやベランダで食べるように、家の部屋に囲まれた中庭エリアで食事をすることを選択します。誰かが他人の家でこのような集まりに近づいてくるのは奇妙でも珍しくもありません。言い換えれば、女性はおそらく招かれずに晩餐に来て、普通よりもっと直接的に関わってくるのです。そしてそれはそれほど難しくないのです。

 

 37後段〜38節は彼女の行動について説明しています。

   その女は、香油の入った石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろで

   御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、

   香油を塗った。

 

   なぜ彼女はこれらの特別のことをしているのでしょうか? 当時の東方の文化圏に近い様々な場所では、これらのいくつかは人々が女性の使用人がゲストのために行うことを期待するものです。ホストは女性の使用人に客の足を洗わせるか、少なくとも客がそれをできるよう水を提供します。しかし、この女性はさらに進んで、自分の涙でイエスの足を濡らします。 使用人は通常、タオルで人の足をぬぐいますが、この女性はそれ以上を超えて、自分の髪でそれをします。ホストは歓迎と祝福のしるしとして訪問者の頭に普通のオリーブオイルを少しぬるかもしれませんが、彼女は特別な密封された瓶(おそらく彼女の首の周りにネックレスで吊るされた)に香油を持ってきて、それを使用しています。彼女は贅沢で溢れる愛を見せているのです。

 

   椅子や畳に座って、今日の私たちの文化で晩餐をするかのように考えると、ここで実際に何が起こっているのかを想像するのは少し難しいかもしれません。(彼女がイエスの後ろにいるなら、彼女はどうやってイエスの足の上で泣くことができるでしょうか?  大谷翔平やダルビッシュ優のような野球投手がカーブボールをたくさん投げるのを見たことがありますが、特定の場所に曲がって涙を流す人を見たことがありません。) 聖書の時代の早期では、食事はマットの上で提供され、ユダヤ人は自分の周りのマットに座って食べました。新約聖書の時代までに、彼らはソファに横たわりながらテーブルから食べるというローマの習慣を取り入れていました。(この絵ではっきりとしたイメージがわかるでしょう)

 

  

 

    なぜ彼女は泣いているのでしょうか? おそらくそれは後悔の涙であり、彼女はしなかければ良かったと願ったことをしてきたと考えています。私たちは彼女の特定の罪が何であったかはわかりませんが、彼女は売春などの性的な罪の生活をしていた可能性があります。今や、彼女は自分の人生がどのようなものになりたかったのか、そしてそれが実際にどのようになったのかを思って涙が流れ始めるのでしょう。自分が経験した心理的および肉体的なトラウマを思い起こすと、彼女には多くの恥と単純な痛みがあるかもしれません。それは簡単に想像できますね?

 

   しかし、彼女の目からも神への感謝の涙があるかもしれません。彼女は明らかにどうにかして、人生を変える神の愛を知るようになったようです。彼女がただ単に晩餐に現れて泣き始めるなんて想像しがたいことです。おそらく彼女は、シナゴーグや町の別の場所で、イエスが神の救いの恵みについて教えておられるのを聞いたことがあるのでしょう。彼女は、天の父のリーダーシップ、保護、規定の下での生活が、それを進んで受け取る他の人と同じように自分にも与えられていることを知るようになりました。イエスはこれを神の国で生きることとして説明されました。神が自分をあきらめていなかったことを考えると、経験したすべてのことにもかかわらず、彼女は今できると考える唯一の方法でその愛を返すことを止められないのです。彼女はおそらく、自分が最終的に頼りとすべき唯一のお方である神に愛され、受け入れられていることに気がついて喜びの涙を流しているのです。 彼女の溢れる喜びは、彼女が今や他の誰かと同様に神様の目に価値があること、そして彼女が罪の人生を始める前と同じくらい重要であることに気がつくことから来ています。

 

   この女性は、人の人生を変える神の力の素晴らしさを物語る例です。それはイエスには通じています。しかし 44〜46節が示すように、シモンには通り過ぎているようです。私たちは、彼女がキリストにある新しい命に入る時に、この女性の肯定的な側面を通して学べるのと同じだけシモンの人格の欠如から多くを学ぶことができます。

 

   イエスは、シモンが良いホストではなかったことを示す態様を挙げています。なぜこの男は、この文化で客を歓待するために通常行うことをしないのでしょうか? (口づけでイエスに挨拶し、足を洗うことを確認し、頭に油を塗る)   私が前に言ったように、彼は本当にイエスを好きでも尊敬もしていないが、ただ習慣に従っているからかもしれません。彼は最終的には自分で計画した最も基本的なことを行うつもりだったかもしれませんが、この女性が最初にイエスにたどり着きました。イエスは45章で、その女性は「私が入ってから」ご自分の足に口づけするのをやめていないと言われます。シモンにとって、ひと度この女性がイエスと一緒にいれば近づかない理由となります。彼は彼女に近づきたくないのです。彼の最初の思いは「手伝わせてください」ではありません。

 

   彼はキリストに対する彼女の思慮深く親切なもてなしを見てそれに加わるという気持ちに駆られたり、おもてなしの心で満たされる時間を醸し出すために「私たちの家へようこそ、イエス」と言おうともしません。彼にとって、積極的な美徳を示さないまでも、自分を悪く見せないでおくことは人々との関係を深めるよりも重要なのです。

 

   39節で シモンは、「もしこの方が預言者だったら、誰が自分にさわっているのか知っているだろうに。この女がどんな女性か知っているだろう。彼女は罪人だ!」と心の中で思います。彼が使う「さわる」という言葉は、明らかに性的な行動を意味する可能性があります。彼女は結婚していないかもしれません。もしそうなら、公の場で髪を下ろすことは、この文化では、夫がタルムードの教えの下で彼女と離婚するほど十分な悪いことです。だから、シモンはイエスが愚かにも自分自身をみだらな何かに巻き込ませていると考えています。イエスについての彼の誤った仮定は私たちへの警告にもなります。私たちはどのようにしてイエスを誤解するのでしょう? 

 

   まず第一に、彼は、イエスが間違いなく町の外から来たので、その女性を知らないと思っています。シモンは「この男はおそらく彼女が私たちの家の召使いだと思っている」と考えているかもしれません。第二に、彼は、イエスが彼女が誰であるかを知っていた場合、彼女から離れるか、彼女がそのような下品なことをするのを止めるべきだと思いこんでいます。

 

   だからイエスが、彼女が罪深い人間であるという理由で背を向けたり、去らせたりせず、彼女が新しいスタートを切る助けとなる恵みを差し出すとき、シモンはイエスが本当に誰であるかという自分の答えを得たと考えています ー 明らかに本当の預言者ではありませんーというものです。39節でシモンは、真の預言者であれば、どんな女性が自分と一緒にいるかを知っているだろうと言います。どのようにして知り得るのでしょう? このような宗教文化では、人々は真の預言者は特に神の声と調和し、何が現実で、真実、そして良いものかを認識しているという期待を持ちます。

 

   目では見ることができない非常に重要なものを見る(または認識する)ことができる預言者や予言者の多くの例があります。エリヤとエリシャが列王記IとIIでこれをしているやのを見ることができるでしょう。例えば、敵国の攻撃してくるような時にです。 他の場合、預言者は、これらの出来事を超えて、神がご自分の民を罰する方法としてそれらを用いておられることを理解するでしょう。

 

   ヨハネは、イエスの人生の物語の中で、何人かの人々がイエスの奇跡に本当に感銘を受けたときのイエスの反応について興味深いコメントをしています。(2章24〜25節)。

 

           節、しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは全ての人を知って  おられるからで、節、人間について誰からも証ししてもらう必要がなたっかからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

 

   ルカ5章20〜24節では、幾人かのパリサイ人や他の人が、イエスがあなたの罪は赦されたと人に伝えるという恐ろしいことをしたと考えています。結局のところ、それは神の仕事だからです。しかし著者は(22節)『イエスは彼らが何を考えているかを知って、そこで「なぜあなたは心の中でこれらのことを考えているのですか?」と尋ねられた』と指摘しています。

 

   今、ルカ7章で、イエスは女性が誰であるかだけでなく、シモンが何を考えているかも知っておられます。44節には、「そして女の方を向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか?」と言われた。」とあります。この物語の完全な意味を得たいなら、興味深い言語に依らないコミュニケーションがここで起こっているのを見逃すべきではありません。イエスはシモンに話し始めておられますが、シモンには直面しておられません。その女性の方を向いておられます。もちろん彼女にも聞いてほしいと思っておられる。しかし、シモンに話しかけているときに彼から顔を背けていることはシモンに対して、無視されたり、割り引かれたり、真実に見られなかったり、理解されなかったり、感謝されなかったりすることがどのような感じなのかを彼に示そうとされているようです。

 

   多くの文化圏において、その人が自分にとって大切であることを示す一つの方法は、その人と話す時には、その人を見て注意を払うことです。そうしないとき、それはあなたはその人がそれほど重要だと思っていない、あなたの心の優先的な場所に存在するに値しないと感じていると言うメッセージを与えます。シモンはその女性をそのように扱っているようです。彼は彼女がそこにいることを知っていますが、彼女と交流しているとは見えません。シモンは彼女の評判が悪いので彼女を見下しているのは明らかです。間違いなく彼は、彼女に対して歓迎的な方法で行動すれば、自分自身や自分の評判を汚すと感じています。もしそうすると人々はどう思うでしょうか? 「シモンは彼女に親しげに振る舞っているけど、彼はどうやって彼女を知ったのかな。前に彼女と取引き(商売)したかもな。言っていることは分かるだろう。」 人々がそのようなことを考えているのを想像するのは簡単ですね。あらゆる種類の噂はすぐに始まっていくものです。

 

   だから、イエスが(47節)「しかし、少ししか赦されない者は、少ししか愛さない。」と言われるのは明らかにシモンについての話しなのです。しかし、これが聖書の物語だということを忘れないようにしましょう。

 生きておられる神は、今ここにいる現実の人々にこのことを通して話されています。この話の中には、私たちへの明らかな質問があります。このエピソードではあなたと私はどこにいますか? 私たちはよりその女性に近いですか? シモンのようでしょうか?

 

   私たちがこの女性のようなものなら、私たちにとって良いニュースがあります。それはすなわち戦争(諍い)は終わりということです。私たちは神に対する反抗の中で生きるのをやめ、神と平和に暮らし始めることができます。神は、私たちがこれまでに犯した罪を覆うのに十分なそれ以上の恵みを持っておられます。神は私たちを救うことができ、それを進んでなさるのです。この女性が明らかにそうしたように、私たちはただ神に目を向け、私たちの人生を神の御手に委ねるだけです。

 

   しかし、私たちがよりシモンのようであれば、まだしなくてはならないことがたくさんあります。だから、ここに私たち自身の生活の中で探していかなければならないいくつかのレッドカードがあります。まだ気づいていなくとも、私たちがシモンと呼ばれる三つのトラブルの兆候は、

   (1)あなたは自分の罪よりも他人の罪に腹を立てます。例えば、あなたは鏡で見

  るものよりもニュースで見るものについて怒りを感じます。

(2)あなたの礼拝は表面的です。あなたは毎日礼拝の行為を行なっているかも

  しれませんが、あなたと神の間には本当の相互的な交流はほとんどありませ

  ん。例えば、あなたが悪い選択をするとき、悔い改めず、あなたが間違ったこ

  とをしてしまったことに気付かないかもしれません。あなたが罪を犯したとき

  に何をするかは、あなたが福音をどのように理解しているかを物語ります。

(3)あなたの学びのすべては、あなたが神を愛し、人々をもっと愛するように導

  いてきたわけではありません。

   強い信念が必要ですが、思いやりも必要です。私たちはどちらか一方を持つ

  傾向がありますが、イエスは私たちが両方を持つように望んでおられます。

   ブルース・フランクという先生はこのように言っています。

 

   恵みのない真実は残忍。

   真実のない恵みは感傷。

   妥協もまた私たちをイエスと違うものにする。

 

 

    これらの警戒標識があなたに懸念を与えるなら、それは良いことになり得ます。最初のステップは、たとえあなたが評判の良い人であっても、自分が危険にさらされていることを知ることです。それは、この物語を通してイエスから私たちへのメッセージの一部です。あなたは、人に陰で悪いことをささやかれるというリスクはないかもしれませんが、さらに悪いことですが、あまり多く愛さない人になるという危険にさらされています。あなたは深く愛する能力のない人かもしれません。あなたは自分の人生経験を通して、愛を与え、受け取ることが何であるかをよく知らないのかもしれません。もしそうなら、これは小さな問題ではありません。愛の関係で生きることは、人間であることの意味のまさにその核心です。シモンはそのような愛のない人のようであり、私たちもそうなり得るのです。もしそうなら、私たちには、救われるべき深く、そして心からの必要性があり、それは罪を清められるだけでなく、本当の愛に欠けている人生の空虚さ、無意味さ、目的のなさ、孤独から救われることです。

 

    嬉しいことに、私たちには救いに至る霊的な必要性を意識するときに従うべき素晴らしい信仰のモデルがあります。それはイエスの足元にいるこの無名の女性です。シモンの家にいる誰もがおそらくこの女性の過去を知っているので、ほとんどすべての人が彼女と距離を置いている可能性が高いです。しかし、イエスはそうではありません。

 

    代わりに、イエスはみなの前で彼らの記憶に残る言葉を言われます。それは、彼女が評価され、受け入れられ、尊敬に値する人として地域社会で自分のために新しい場所を作り始めるような、将来この女性にとって大きな利益になるものです。 

 

    イエスは(47節)「この女の多くの罪は赦されています。というのは彼女はよけい愛したからです。」と宣言されます。彼女は何かを非常に強く感じたり、たくさん泣いたり、特定の奉仕の行為をしたので赦されたわけではありません。神が深く寛容な愛の神であるから赦されたのであって、彼女がその贈り物を進んで受け取ったからです。彼女の涙と謙虚な奉仕の行為は、神と彼女の間に起こったことの証拠です。行動を通して言っていることを心から信じています。

 

    イエスは、誰もが耳を傾けている中で、(1)「あなたの罪は赦された」と宣言し、彼女に直接話します。それから(2)「あなたの信仰があなたを救った。」最後に、(3)「安心して行きなさい。」です。順序が重要です。

 

    それは、2000年近く前から世界中のあらゆる種類の人々の生活を変えてきた良い知らせです。それは今も良い知らせであり、あなたや、私、私たちが知っている誰にでもそしてすべての人に与えられています。ですから、私たちを自由にしてくださり、清め、そして人生を変えることのできる神様の愛を私たちの心と精神にますます深く受け取り、毎日をより矛盾なく生きることを学び、それを他の人に伝えるのを助けてくださるよう主にお願いしましょう。

 

    謙虚な信仰を持ち御もとに来るすべての人のお父様、私たちはしばしば、「多く赦された者は、多く愛する」という言葉を聞きます。私たちがそのようになれるように助けてください。私たちは皆、あなたの前に罪人であり、自分自身を救うことができないことを知っています。私たちはあなたに50日分又は500日分の仕事の負債があるでしょう。人の目には良いか悪いかかもしれませんが、あなたはご存知です。私たちはあなたに負っている負債を返済することはできません。しかし、あなたは私たちの罪を覆うために恵みによる驚くべき贈り物を与えてくださいます。私たちがそれらに盲目になったり、否定したりするのではなく、正直にあなたの前に置いて、赦し受け、あなたと私たちの周りの人々と一緒に新しい人生の旅を再び始めることができますよう助けてください。毎日、あなたの驚くべき恵みによって生きるために、より十分に学ぶ機会を作ってください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

 

参考

 

Evans, C. A. (July 9, 2016). The Sinful Woman. Retrieved September 7, 2023 from    https://www.youtube.com/watch?v=ps4dPnl9cwU&t=1485s

De Champaigne, P. (c. 1656). Christ in the House of Simon the Pharisee. Retrieved          September 10, 2023 from https://www.philippedechampaigne.org/

Frank, B. (2020). Christ and Culture. Southeastern Baptist Theological Seminary. Retrieved September 10, 2023 from https://www.youtube.com/watch?v=   FOUr_1ECcB0

Packer, J. I. and Tenney, M. C. (1980). Illustrated manners and customs of the Bible.

Thomas Nelson Publishers.

Kulp, J. English explanation of Mishnah Ketubot. Ketubot 7:6. Retrieved September 9,    2023 from https://www.sefaria.org/English_Explanation_of_Mishnah_ Ketubot.7.5.3?lang=bi