神様は報いてくださるお方!

2023年9月3日主日礼拝「神様は報いてくださるお方!」へブル11:6 佐々木俊一牧師

■今日の聖書箇所からおわかりのように、「信仰」についてお話ししたいと思います。私たちは、神様がアダムを造っているところを見たことはありませんが、神様が最初の人、アダムを造ったことを信じています。これが信仰です。

  また、私たちは、私たちが生きているこの世界以外に、今は見えないけれど他の世界があることを信じています。私たちの五感によってこの地上の世界を感じ取りますが、たとえば、もしも、味覚を失ってしまうならば、何を食べても味がありません。しかし、だからと言って、この世界には味が存在しないというわけではないのです。ただ、味覚がないので、わからないだけです。私たちの五感では知覚できない世界があることを、聖書をとおして知ることができます。それを見ないで信じること、それが信仰です。

 私たちの信仰は、第一に神のことばを聞くことから始まります。私たちは信仰によってまだ見ていないものや見ていないことについて信じていますが、その信仰の原点は神のことばです。ですから、私たちが日々聖書を読むことはとても大切なことです。なぜならば、聖書のことばによって私たちの信仰は養われるからです。

 また、私たちが聖書のことばを読むときや聞くときには、ただ自分の力で理解するのではありません。内住される聖霊がその理解を助けてくれると聖書は言っています。私たちが信仰をもって神様に近づくとき、神様はそのことを喜んでくださいます。

■信仰とはどういうものなのか、さらに見てゆきましょう。へブル11:6に信仰について二つのことが書かれています。一つは、神がおられることを信じること、もう一つは、神を求める者には報いてくださるお方であることを信じることです。信仰についてとても簡潔に言っています。

 私たちの造り主であり、救い主であり、助け主である、三位一体の神様がおられることを私たちが信じるならば、神様は喜ばれるのです。また、私たちが、神様を求め、神様を尊び、神様に期待し、神様により頼んで、そして、それに対して神様は報いてくださるのだ、と信じて歩むならば、神様は喜ばれるのです。

■私たちはこれら二つのことを信じています。でも、実際はどうでしょうか。神様が存在するということを表明することは、クリスチャンにとって難しい事ではありません。けれども、神様は神様を求める者には報いてくださるお方であることについては、一応信じているけれども、正直なところ、必ずしもそうではない場合もあるような気がしてはいないでしょうか。

 私自身、若い頃の事を思い起こすと、祈っても、祈っても自分の祈りはなかなか聞かれない、という印象を持っていました。たとえ聞かれたとしても、なぜかいつも中途半端なのです。途中で問題が発生したり、望んだ結果を見ることができなくて断念してしまったり、そんなことが多かったような気がします。こんなに一生懸命やっているのに、どうして神様は私の願いを応援してくれないのだろう。あの人はあんなにうまくやっているのに、どうして私はいつも思うようにいかないのだろう、と思うことがよくありました。

 表面的な結果だけを見るならば、私は本当に惨めな者でした。けれども、冷静にあの頃の自分を観察するならば、別の見方がある事に気づかされました。あの時、私は事が思うように進まないのでひどく落胆しました。けれども、あの経験をとおして、自分の高ぶりが取り扱われ、低くされ、自己中心を矯正されたことを思い起こすのです。神様には目に見えるところでの働きと、目に見えないところでの働きがあるのだ、と思いました。

 30代になると私は少し変わってきました。結婚し、家庭を持つと、自分の事も、もちろん祈りますが、妻や子どもの事も結構祈らされました。その中で、私は、独身時代よりも祈りの手応えを強く感じたのです。自分以外の人のために祈る事、つまり、とりなしの祈りと言うのは、神様の応答をもっとよく知ることのできる機会ではないかと思います。神様は私たちが他人のために祈ることを喜ばれるのだと思います。

■聖書を読むと、神様がおられることを信じ、神様は報いてくださるお方であることを信じて歩んだ人々がたくさんいたのだ、ということがわかります。今日の聖書箇所であるへブル11章にもそんな信仰の人々の名前がたくさん紹介されています。その中にはありませんが、旧約聖書のルツ記に出てくるナオミという女性の体験をとおして、神様の報いがどのようなものなのかを具体的に見てみたいと思います。

ナオミの試練について、ルツ記1章に書かれています。イスラエルの王、ダビデが生まれる150年くらい前の事です。

 ユダのベツレヘムに、エリメレクとナオミ夫妻がいました。飢饉のため、二人は自分の土地を売って、二人の子どもを連れて、モアブの地(死海の反対側)に移り住みました。そこに10年住みましたが、その間に夫のエリメレクが亡くなり、続いて二人の息子が亡くなってしまいました。

 残されたのはナオミと、そして、二人の息子の嫁たちでした。二人の嫁はユダヤ人ではなく、モアブ人(外国人/アブラハムの甥ロトの子孫)でした。オルパという名前の嫁は実家に戻りました。けれども、ルツという名前の嫁はナオミと一緒にベツレヘムに行くことを強く願いました。

 こうして、ナオミとルツはユダのベツレヘムに戻りました。戻ったけれども頼る人もなく、先の生活の見通しはまったくありませんでした。さらに、ナオミはひどく傷ついていました。立て続けに夫と二人の息子を失ったのですから、それは当然でしょう。しかし、ナオミは傷ついてはいましたが、神様を否定したり、恨んだり、心を閉ざしたりしていたのではありません。神様が自分に許された人生を必死になって耐えて、生きて行こうとしているのです。しかし、神様は報いてくださるお方であるという信仰を持つことは、ナオミにとっては難しかったのではないだろうかと思います。

 その後、ナオミはどうなったのでしょうか。ボアズという男の人が出て来ます。彼は奈緒美と一緒にベツレヘムにやってきたルツと結婚することになります。どのように結婚に至ったのでしょうか。興味のある方はルツ記2章~4章をお読みください。そして、ナオミはどうなったかと言うと、ナオミは、ルツとボアズと共に暮らし、彼らの子どもを抱いて育てたと書いてありますから、ナオミの晩年はとても幸せなものだったに違いありません。

■ここで私たちは二つの希望を見つけることが出来ます。

 夫と二人の息子に先立たれたナオミの人生は究極の不幸とも言えるような最悪の状態でした。しかし、そんなナオミを神様は見捨てませんでした。神様は主がおられることを信じる者をけっして見捨てるようなことはなさいません。けっして揺るがされるようなことはなさいません。これが一つ目の希望です。必ず主は助けてくださいます。そのことを信じましょう。

 二つ目の希望は、この不幸な出来事の裏側には、神様の特別な計画が動いていたと言うことです。ルツはボアズと出会いました。ボアズは、ナオミの親類です。律法には、どの家系も消滅しないように、「買い戻し」という規定がありました。「買い戻し」ができるのは、親族か親類に限ります。ナオミの夫が手放してしまった土地と財産は、ナオミの親類のボアズによって買い戻されました。しかし、嫁のルツもその財産の中に含まれるため、ボアズは買い戻した時にルツも引き取らなければなりませんでした。しかし、それはボアズにとって喜ばしいことでした。二人の間に男の子が与えられました。その男の子が成人すると、その土地と財産を受け継ぐことになるのです。

 このボアズは、イエス・キリストの予表です。ボアズのしたことは、イエス・キリストがしたことを表わしているのです。「買い戻し」の事をヘブル語で「ガーアル」と言います。これは、「贖い」と同じことばです。私たちは、この出来事をとおして、「贖い」とはどういうことなのかを知ることができます。イエス・キリストは、ご自身の血を代価として私たち人間を悪魔から神様の方へと買い戻してくださったのです。そして、おもしろいことは、ボアズの母はカナン人のラハブです。へブル11:31にラハブの信仰について書かれています。カナン人ラハブとユダの子孫サルモンの間にボアズが生まれました。ボアズとモアブ人のルツの間にオベデが生まれました。ですから、オベデにはユダヤ人とカナン人とモアブ人の血が流れていました。そして、オベデからエッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれたのです。ボアズとルツはダビデの曽祖父と曾祖母です。アブラハム・イサク・ヤコブ・ユダ・ダビデの家系から救い主が生まれることが旧約時代に予告されていました。ダビデから1000年後、救い主イエス・キリストがこの地上にお生まれになりました。

 ナオミとルツの人生の中に、二つの希望を見出します。一つは、神様を求める者に神様は報いてくださるお方であると言うことです。ルツの行動は明らかに神を求める者の姿です。神様はルツの信仰をとおしてナオミとルツを祝福しました。もう一つは、人生に起こる出来事、良いこともそうでないことも、その裏には神様の救いの計画が動いていると言うことです。神様は多くの人々を救うために、それぞれの人生の中で働いているのです。ぜひ、そのことに気付いてほしいと思います。

■東郷勝明さん、というお名前をみなさん知っておられるでしょうか。確か1980年くらいにラジオ英会話の番組を担当しておられたと記憶しています。彼はクリスチャンで15年くらい前に「ありのままの自分を生きる」という本を出しています。彼が50歳くらいの事かと思いますが、仕事が成功して地位も名誉も財産もあってすべてが順調に進んでいるかのようでした。けれども、ないがしろにしていた家庭は危機的な状態にあったそうです。娘さんが不登校になり、家族の互いの関係がぎくしゃくするようになったそうです。そんなある日、奥さんが病に倒れ、続いて東郷さん自身も病気で入院することになりました。奥さんはこの時すでにクリスチャンで、教会に行っていました。東郷さんも徐々に信仰に心を開いて行ったようです。ある日、東郷さんは牧師にこう尋ねました。「クリスチャンになったら病気は治りますか。」牧師は答えました。「治りません。」そして、次に、「クリスチャンになったら何かいいことありますか。」と尋ねました。牧師は答えました。「いいえ、いい事も悪い事も起きます。」東郷さんは、牧師の答えに妙に納得したと言っています。もしも、牧師が、「クリスチャンになったら、病気も治るし、いい事ばかり起こります。」と言ったとしたら、信じなかっただろうと言っています。そして、こう証しています。クリスチャンになっても自分の周囲は何も変わりませんでした。変えられたのは自分自身で、変えられた自分が同じ周囲を見た時に、それが、それまでと違って一段と輝いて見えました、と言っています。神様の祝福、神様の報いが最初に及ぶのは、私たちの内面のようです。その後の東郷さんご家族は、娘さんが結婚して母となり、東郷さん夫妻はクリスチャンカウンセラーとして働きをされたようです。

■神様に不可能なことはありません。今すぐに病を治すことも、今すぐにいい事ばかりを与えることもできるでしょう。でも、あえてそうなさらないのは、何よりも私たち自身が変えられるためです。

 神様は求める者に報いてくださるお方です。聖書の信仰の人々をとおして、そのことを知ることができます。また、現在を生きているクリスチャンをとおして知ることができます。私たちはどんな時も、神様に心を閉ざさないで、神様に心を開いていたいと思います。神様を求める者には、神様は必ず報いてくださるお方であることを信じて進んで行きましょう。それではお祈りします。