イエス様のワーシップタイム

2023年8月27日主日礼拝「イエス様のワーシップタイム」ルカ4:14~22 佐々木俊一牧師

■今日のメッセージのタイトルは「イエス様のワーシップタイム」、もっと日本語にすると、「イエス様の礼拝の時間」と言うことになります。これはどういうことなのでしょうか。イエス様は、神なるお方であり、礼拝されるべきお方です。しかしながら、イエス様と言うお方は、不思議にも神なるお方であるにもかかわらず、この地上に人となってお生まれになりました。そして、33年半、人と同じ肉体をもってこの地上を歩まれました。

 私たちは神様の造られた被造物であり、ただの人です。しかし、それに対して、イエス様は神様であり、人でもありました。天と地の創造者、すべての生けるものを造られた神なるお方でありながら、完全な人でもあったのです。そのようなイエス様はこの地上で行われる公けの礼拝の場にどのように臨まれていたのでしょうか。少しの時間ですが、一緒に見て行きたいと思います。

■ルカ4:14~17 イエス様は荒野で40日間悪魔の試みを受けた後、まずガリラヤの地にある会堂(シナゴーグ)で教え始めました。その恵みのことばに驚いた人々は、イエス様のことをほめたたえました。この出来事は、イザヤ9:1~2のことばの成就と言ってよいでしょう。それから、イエス様は、自分が育ったナザレに行きました。いつもしているとおり、とあるのでこれが初めてではなかったのでしょう。イエス様は安息日に会堂に入って朗読しようとして立ち上がりました。すると、この時イザヤ書(本ではなくて、巻物)が手渡されました。そして、「こう書いてある箇所に目を留められた」、とあります。それは、イザヤ61:1からのことばです。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしを油注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」と言って、イエス様は人々に話し始めました。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」人々はイエス様の口から出てくる恵みのことばに驚き、そしてほめたたえたのです。しかし、ある人々は、そうではありませんでした。「この人はただのヨセフの子ではないか」と言って、何をばかなことを言っているのか、と言った風だったのです。イエス様はこの時30歳くらいでした。この年まで、イエス様は大工のヨセフの子として家業を営んできたのです。そんなイエス様ですが、安息日には会堂で聖書を朗読したり、時には聖書の解説なども行っていたのかもしれません。ですが、自分が神によって油注がれ、神によって遣わされた者だ、と突然言い始めたとしたら、「この人はただの大工ヨセフの子ではないか」、という反応があったとしても不思議ではありません。

■ここで、イエス様の時代において、礼拝がどのようにささげられていたのかについて少し、お話ししたいと思います。

 今日の聖書箇所からもわかるように、イエス様は安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)に会堂に入って聖書を朗読しました。そして、その箇所の講解らしきこともしています。このように、当時のユダヤ人の礼拝はシナゴーグ(会堂)で行なわれていました。BC586年ソロモン神殿(第一神殿)の破壊後、ユダヤの人々がバビロンの地へと捕囚されて以来、神殿礼拝はなくなりました。バビロンの地においては集会所(シナゴーグ)で礼拝が持たれるようになったようです。

 BC538年、バビロンのユダヤ人の一部は以前彼らが住んでいたユダヤの地に帰還しました。そして、神殿の再建を始めました。その後、神殿礼拝は回復し、イエス様の時代になると、神殿はヘロデ王によってさらに立派な神殿となっていました。ですから、イエス様の時代には、シナゴーグでの礼拝と神殿での礼拝の両方が行なわれていたのです。シナゴーグでの礼拝は、おもにパリサイ人や律法学者などが中心になって導いていました。また、神殿においては、大祭司や祭司として任命された者たちが中心になって礼拝が行われていました。律法に定められていたように動物のいけにえを捧げていたのです。

 これら二つの場所での礼拝は非常に興味深いものです。実は、ダビデの時代においても二つの場所で礼拝がささげられていました。一つは、エルサレムのシオンにあったダビデの幕屋での礼拝であり、その幕屋には、地上での主のみ座とされる契約の箱が置かれていました。ダビデは、楽器を弾く者たちの演奏に合わせて、賛美と感謝と祈りによって礼拝をささげていたのです。動物のいけにえは、一切ありませんでした。

 時同じくして、ダビデはギベオンの山に置かれていたモーセの幕屋でも礼拝を行なわせていました。モーセの幕屋は大庭・聖所・至聖所の三つの部分からなっています。以前は、至聖所に契約の箱が安置されていましたが、この時は契約の箱はダビデの幕屋に置かれていました。モーセの幕屋では動物のいけにえがささげられていましたが、そこにはもはや神様の臨在はありませんでした。なぜならば、契約の箱はモーセの幕屋ではなくて、ダビデの幕屋にあったからです。

■シナゴーグでのユダヤ教の礼拝では、聖書朗読があり、ラビによる聖書釈義や奨励があり、信仰告白があり、賛美があり、祈りがありました。現代のユダヤ教においても同じです。また彼らは共に食事をし、交わりもします。キリスト教の礼拝と非常に似ています。と言うか、キリスト教はもともとユダヤ教の一派、異端的なナザレ派として認識されていたのです。ですから、ユダヤ教とキリスト教の礼拝には類似点があって当然なのです。

 しかし、ユダヤ教には主の晩餐式もバプテスマ式もありません。とは言っても、意味することが違っていたり、あるいは、目的がわからないまま単に習慣として行っていることであって、類似している祭儀や慣習がユダヤ教には存在しています。主の晩餐式は、ユダヤ教の慣習としっかりリンクしていますし、バプテスマ式も同様です。旧約聖書の慣習はキリストの真理を比喩的に表し、影のようにその意味をぼんやりと映していると言ってよいでしょう。

■マルコ2:27~3:5 ここでイエス様は大切なことを言っています。それは、安息日は人のために設けられたのであって、安息日のために人が造られたのではないということです。

 ユダヤ人には神様から与えられた聖書があります。ユダヤ人にとって聖書とは旧約聖書の事だけで、新約聖書は含まれていません。そして、当時、彼らには文書化されていない口伝律法がありました。口伝律法とは、イエス様が、「なぜ自分たちの言い伝えを保つために神の戒めを破るのですか。」と言ったときの「自分たちの言い伝え」のことです。それは、先祖から受け継いだ有力なラビたちによる律法の解釈のことばでした。

 イエス様が再び会堂に入ると、そこに片手の萎えた人がいました。当時の標準的な考え方だと、片手の萎えた人は会堂の中にいてはなりませんでした。しかし、ユダヤ人たちは、イエス様が律法に違反するのを確かめるために、あえて片手の萎えた人を会堂の中に入れていたのでしょう。どうしたら律法に違反なのかと言うと、それは、もしも、イエス様が片手の萎えた人を安息日にいやしたとするなら、それは、律法に違反することなのです。なぜならば、安息日には何一つ働いてはいけないと考えられていたからです。イエス様が言われたように、まさに、人のために安息日があるのではなくて、人が安息日のためにあるような状態であったのです。口伝律法はそのような律法主義的な社会を作り上げていました。

 イエス様は、片手の萎えた人に、真ん中に立つように言われました。そして、イエス様はユダヤ人たちにこう話されました。「安息日に律法にかなっているのは、善を行なうことですか、それとも悪を行なうことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」ユダヤ人たちは黙っていました。

 イエス様は怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい。」と言って彼が手を伸ばすと、手は元通りになりました。その人の萎えた手はいやされたのです。

安息日は人のためにあるのです。人が安息日のためにあるのではありません。ですから、神様が、「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」と言われたのは、それは私たち人間のためを思っての事なのです。私たち人間が安息日に神様のことを覚えて礼拝をなし、仕事や労働から離れて体を休めること、家族とともに食事や交わりの時を持つこと、そのようなことが神の祝福をもたらすのです。その祝福は家族だけにとどまらず、奴隷や寄留者、そして、家畜に至るまで、すべてのものにとって祝福であることが十戒の中に盛り込まれています。

■ヨハネ5:16~17「そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。『私の父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。』」

 ユダヤ人たちがなぜイエス様を迫害したのか、その理由は、イエス様が安息日に人々をいやしておられたからです。そもそも、そのような状況を作っていたのはユダヤ人たちでした。彼らは、イエス様が安息日に人をいやして安息日を破るのを見るために、わざわざいやしを必要としている人々を会堂に連れてきていたのです。

 それに対してイエス様は常に人々の必要に応えておられました。会堂での礼拝においてイエス様は神のことばを語るとともに、人々の必要にも応じておられたのです。なぜならば、主は安息日の主、父なる神が安息日に人々のために働いておられるように、イエス様も人々のために働いておられたからです。

■神の御子なるイエス・キリストをとおして、神様がどのようなお方であるのかが明らかにされました。私たちはイエス様を通して神様を知ることが出来るのです。また、人としてのイエス様は、人としてどうあるべきかの良き模範を私たちに示してくれました。今年度は、礼拝のあり方について考えるように導かれています。イエス様が私たちに良き礼拝者としての模範を示してくれているのではないかと思います。

 エペソ1:22~23「また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストの体であり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」

 日曜日の礼拝の時こそ、キリストをかしらとするキリストの体である教会が教会として存在する時はありません。人々の必要に対して応えることはイエス様が礼拝の中で行っていたことではないでしょうか。もしもそうであるならば、人々の個人的な必要のために祈ることはキリストの体である教会にゆだねられたキリストのミニストリーと言うことができないでしょうか。礼拝の中でイエス様が人々のために働いておられたように、礼拝の中で教会が人々のために祈りをもって働くことは十分に礼拝の中で認められることであると結論付けられると思います。

 次回は、詩篇とダビデの幕屋の霊的な意味を考えながら現代の賛美を中心とした礼拝についてお話ししたいと思います。それではお祈りします。