イエスが称賛した人々:バプテスマのヨハネ

2023年8月20日英語礼拝

 

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

ルカの福音書 7章18-29節

 

イエスが称賛した人々:バプテスマのヨハネ

 

       ここオープンドアとオンラインで出席されている皆さん、こんにちは。先月から私たちは聖書の中でイエスが称賛した人々を取りあげ、私たちがキリストや御父について何を学ぶことができるのか、そしてどうすれば神が私たちに望んでおられるような人々になることができるのか探しだそうとしています。私たちは神の導きとその力の下で人格形成の探求を続けています。

 

       今日はその物語を一緒に見ていきましょう。ローマの百人隊長の物語(先月の物語)のすぐ後に、バプテスマのヨハネの物語があります。18節では、彼の弟子たちがローマの百人隊長のしもべをいやし、ナインの町の女性の息子を生き返らせたことなど、イエスが驚くべきことをしていることをヨハネに報告しています。

 

  この時、ヨハネは牢につながれていました。彼は、国主ヘロデに兄弟の妻ヘロデヤを自分の妻とすることは不法であると言ったために国主ヘロデによって牢に入れられました。マタイの福音書 14章でこのストーリーを伝えています。ヨハネがイエスがしている事をすべて聞いた時に、彼の二人の弟子をイエスの元に送り「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなおほかの方を待つべきでしょうか?」と質問させました。

 

  彼らが何を質問しているかを明確に理解すためには、旧約聖書に遡る必要があります。ヨハネの弟子たちは、そこに書かれているメシア、つまり神がずっと前から民を救うために神の民を遣わす約束された救い主について話しています。    

 

       当然、人々はこの人物がこの後どのような人物になるなかを知りたいと思っていました。そこには二つの思想が主流でした。一つはメシアは苦難のしもべであるというものです。イザヤ書 53章3、5節などの教えに基づいています。

 

  彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人  が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。しかし、彼  は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 

       メシア(ギリシャ語でキリスト①)のもう一つの思想の流れも最初の思想と同じく、神の言葉から生じたものですが読むと大きく異なる印象を受けます。例えばダニエル書 7章13-14節は来るべき救い主についてこのように説明しています。

 

       私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って  来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光  栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕える  ことになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅  びることがない。

 

       では、この二つのメシア觀の内どちらが正しいでしょうか?彼は苦難のしもべなのか栄光の王なのでしょうか?更にこれら二つの記述は基本的にお互いに非常に異なって見えるため、メシアは「二人いる」と言う人たちすらいます。多くの聖書学者はディベートがとても好きで、ナザレのイエスが生きていた当時から、来るべき救い主について何百年もの間議論が交わされてきました。事実、多くの今日のユダヤ人は来るべきメシアを待ち望んでいます。

 

       どうやらヨハネはイエスを二つ目の思想のメシア、つまり栄光の王として想像していたようです。イエスの生涯を描いた四福音書のすべてに、バプテスマのヨハネに関する部分が含まれていますが、そこで彼がイエスを紹介する方法はイエスの力と偉大さにより焦点を当てています。彼はメシアが罪を裁き、救いを受け入れる準備の出来ている人々にすくいをもたらすために来られると説明しています。例えば、マタイの福音書 3章11-12節では彼は以下のように言っています:

 

       私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、  私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方の  はきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖  霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分  の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で  焼き尽くされます。」 

 

       これは苦難のしもべイエスとは似ても似つかないですね。そこには「柔和で温和な優しいイエス」はいないように見えます。

 

       ヨハネも、温厚な性格ではありません。彼の話を聞き、バプテスマを受けるために人々が砂漠に出て来た時に、彼はそこに謙虚に真理を求めていない人々もいる事に気付きました。彼らは宗教的権威者で彼を調べに来ています。彼らが望むなら彼の邪魔をすることもできます。ところが礼儀正しく話したり、彼らの好意を得ようとしたり、または放っておいてもらおうとする代わりに、彼はこう言います。(マタイの福音書 3章7後半-10節):

 

       「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。  それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておく    が、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ば  ない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

 

       ヨハネもイエスの偉大さと善性を知っていて、悪を裁こうと計画しています。腐敗した政治家の決断のせいで獄中にいる今、彼は当然メシアがその驚異的な力で彼を解放してくれると望んでいます。何と言っても、ヨハネとイエスは親戚ですし(ルカの福音書 1章36節)、同じ目標に向かって働いています。ヨハネはその生涯をかけて、イエスをキリストとして人々が受け入れるために整えてきました。

 

       しかし、それは起こっていません。この時点でヨハネは一ヶ月または数年収監されていたかも知れません。そこの食事はどんなものだと思いますか?彼は夜に眠るための良い快適なベッドがあり、一緒に時間を過ごすフレンドリーで健全な人々がいたのでしょうか?恐らく違うでしょう。この状態で彼のメンタルヘルスはどんなものだったのでしょうか?うつ病に罹患している可能性はあるでしょうか?想像に難くないですね。

 

  彼の信仰も攻撃を受けているでしょう。イエスは旧約聖書からメシアの言葉として知られる言葉を引用しました。彼はそれを自らの言葉として用いて間接的にキリストであると主張しています。彼は「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、…しいたげられている人々を自由にし」(ルカの福音書 4章18節前半)ですからヨハネにとって、なぜイエスが自分を牢獄から出すことによってこの預言を実現させないのかは到底理解し難いでしょう。それは彼が真のメシアであることを知らしめる完璧な方法ではないでしょうか?もし私が彼の立場だったら全く同じことを考えたでしょう。私は神の善性と力を信じ、そして信じ続けることに大いに苦闘するかもしれません。そうですよね?深く誠実な信仰を持つ人であっても、弱くなる時があることを、ヨハネの例が私たちに思い起こさせてくれます。

 

  ですがイエスはヨハネの質問に彼が期待した通りには答えませんでした。あなたの信仰生活においても、神がそのように働かれていることに気付いたことはありますか?時には神は私たちの期待に応えてくださらない事もあります。私たちは祈りの中で、私たちが何を感じ、何を考え、何を必要だと信じていることを正直に神にお伝えできます。それはまさしく神が私たちに教えてくださっています。ですが私たちの心の内にあるものが神の私たちへの夢や御心、計画と一致しない場合もあります。また、私たちの期待と神の御心が一致する場合もありますが、神は私たちが望む時や方法で働かれることを選ばれないこともあります。 

 

  私たちは聖書を通してその例を見ることができます。アブラハムとサラは神が約束された子供を授かるために、とても老いるまで待ち続けました。神が王として選ばれたダビデが王になるまで、脅かされ、国中で追われる身となったことを思い起こしてください。

 

  イエスの時代は、ヨハネのような傑物でさえ、神と神の方法を理解するのに苦労していました。嬉しいことに、イエスはヨハネが自分自身で理解するように放ってはおきませんでした。ルカは私たちに、まさにその場でイエスが一連の奇蹟を行っていたと伝えており(7章21節)、ヨハネの弟子たちは自らの目撃証言をもってヨハネに報告できるでしょう。そしてキリストは彼らにそうするように指示します。(7章22節)

 

  私たちはこれらの言葉がヨハネにどれほどの励ましを与えたかを想像するしかありません。ですが23節には課題の言葉もあります。:②「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」(原文:“Blessed are those who do not give up their faith because of me.” (NIrV))ここで“give up their faith”(信仰を諦める)と訳されているのは古代ギリシャ語のskandalidzo(g4624)で、派生元であるskandalon(g4625)はスキャンダルの語源になっています。「だれでも私のしている事をスキャンダラスだと考え無い人は幸いです。」と言い換えられます。他の英訳では以下のようになっています:

 

those who have no doubts about me (GNT)

私に疑いをまったくもたない人たち

anyone who does not stumble on account of me (NIV)

私のせいでつまずかない人々

he who is not offended because of Me (NKJV)

私のせいで気分を害さない人

anyone who takes no offense at me (NRSV)

私に腹を立てない人は誰でも

 

  ヨハネはこれを脅しや非難として受け止めて暗い気持ちに沈みこむのではなく、課題として受け止めて前向きに対応するような人だったのではないかと思います。以前、私たちが学んだように、私たちへの神の愛は、私たちの状況が楽であるか、困難であるかによって測れるなどと言う間違えた考え方をしては絶対にいけません。エリザベス・エリオットと言う偉大な信仰の女性が書いたように、「その秘密は、私の中におられるキリストであって、別の状況の中にいる私ではない。」のです。③

  いずれにせよ、神のヨハネに対する最善の計画は彼がのぞんでいたものでも期待していたものでもありませんでしたが、もっと偉大なものである事がわかります。主は彼を故郷である天に召されることを選ばれました。主は不正と暴力が起こることを許されました。マタイの福音書 14章が物語るように、国主ヘロデの誕生祝いで、踊を踊った娘に、願う物は何でも必ず上げるという愚かな間違いを犯します。娘がバプテスマのヨハネの首を盆に載せて欲しいと願った時に、彼はあまりにも気質が弱くて断れませんでした。ヨハネは殺されました。神はこの悪事が起こることを選ばれ、ヨハネのこの世での人生の幕を降ろし、彼の完全な天にある家に入る道を備えられました。

 

       イエスはこの時点でヨハネに何が起こるかをすべて知っていたのでしょうか?それはすべてが明らかではありませんが、ヨハネの弟子たちが去った後に群衆にヨハネについて話し始めます。彼は過去の話をしていますので、これがヒントかもしれません。キリストは群衆に24節後半で「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。」と質問します。(NIrVでは“What did you go out into the desert to see? Tall grass waving in the wind?”となっています。以下、これに従い「葦」ではなく「草」と言います)草は風が吹く方向によってあちらこちらに揺れます。私たちは政治家や時には宗教やその他の指導者などが、最新の世論調査の結果次第で驚くほど簡単に立場を変えているのを目にしています。ですがヨハネはそのような事はしませんでした。彼の中心的メッセージは誰が聞いているかに関わらず代わったりしません。マルコの福音書 1章4節はそれをうまくようやくしています。「バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」私たちはヨハネの教えから学ぶことができます。私たちは皆、悔い改めて、主に私たちの心を清めて頂き、聖なら神がご自身が住まわれるにふさわしい家となる必要があります。主が私たちを一度きりで全てを許してくださった後であっても、私たちは皆、目標を達成できず、神に対して罪を犯し続けているので、定期的に悔い改める習慣を身に付ける必要があります。

 

  イエスはまた群衆に問いかけます(7章25節)「では、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。きらびやかな服を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。」マタイはマタイの福音書3章4節で「このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め」ている事を伝えています。彼は流行の奴隷ではなかったようです。彼の食べ物はいなごと野蜜と素晴らしかったようです。 

 

  ビル・ゲイツ(マイクロソフト他)は近年、将来の環境を守るためには昆虫食が必要であると人々を説得しようとしています。数年前にタイを訪れた際、昆虫のから揚げを幾つか楽しんだ事がります。味わったのは、揚げ油と塩の味が殆どですが、かなり美味しいとおもいました。

 

  なぜヨハネがいなごを食べていたかは判りませんが、恐らく彼が教える仕事をする為に砂漠に滞在していると言う事実に関係があると考えられます。入手できる食料が限られているのは、神が彼に与えた特別な仕事を成すために彼が喜んで捧げた犠牲の一部なのかも知れません。  

 

  その仕事とは何でしょうか?イエスは続けてそのことに触れます(7章26-27節):

 

  では、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。わたしはあな  たがたに言います。預言者よりもすぐれた者をです。この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』(マラキ書 3章1節④)と書かれているその人です。

 

       ヨハネは新約聖書に登場しますが、厳密に言うと私たちが読む聖書に登場する旧約聖書の預言者たちに彼は属していると言えます。モーセ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどが有名な例です。聖書の神の救いの物語において、これらの人々が果たす重要な役割の一つは、来るべきメシアを指し示すことです。私たちの世界における神の働きのパターンの一つは、神が真に重要なことをなさる前に、しばしばそれを前もって告げ知らせると言うことです。ここでヨハネはキリストの到来が間もなく起こるという事を宣言しています。これが神の御言葉を聞き、神の民にそのメッセージを伝えるという預言者特有の役割を果たしていると言えます。 

 

  預言者がこのような働きをする主な理由は、人々に備えをさせ、人々が待ち望んでいる間に希望を持って生きるのを助け、神の救いが到来した時に喜んで迎えるように彼らの心と生き方を整えさせるためです。ヨハネはイエスを個人的かつ直接的に見て、知っているという点で、他の預言者には無い方法でこれを行います。他の預言者たちは何世紀にも渡りヨハネがしていること、話していることを積み重ねてきたと言えるでしょう。その意味で、彼は最後の預言者であり、少なくとも他の預言者と同じくらい偉大です。そこでイエスはヨハネを非常に高く称賛しています(28節):「わたしはあなたがたに言います。女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません。」

 

  イエスがヨハネのことをそこまで考えているのなら、私たちはヨハネの生涯から何を学ぶべきかに注意を払う必要があります。今回はこのことについてあまり時間を割きませんが、聖書の物語の中で私の目に留まった事を4つ簡単に話しておきます。

 

  第一に、ヨハネには勇気があります。彼は権力者を含むすべての人に真実を語ります。彼はたとえ彼自身がトラブルに巻き込まれても、彼は真実を語り続けます。このように、彼は自分が説いた事を実践しています。特に原論の事由が保証されていない、あるいは弱体化しつつある国々では正直に話したり書いたりするには、ますます勇気が必要になっていると思われます。仮に私たちがそれを行おうとすれば、ヨハネに事件が思い起こさせるように、厳しい批判を受けたり、職を失ったり、場合によっては殺される可能性さえ覚悟しなければならないかも知れません。しかしながら、今日私たちは真実を語る勇気を持った人々をより多く必要としています。神様、あなたの指揮の下で、愛を以て真実を語る力と知恵を私たちにお与えください。

 

  第二に、ヨハネは道徳的な権威を持っていて、それを使っています。彼は聴衆が聴きたいと思っている事をただ伝えるだけではありません。「いいね!」をもらうことは彼の目的ではありません。彼は、神が民に告げておられると信じていることを彼らに話します。そして神は私たちが間違えたことをしているときに、人々に警告し、私たちをより良い方向を導いてくださる事を惜しまれません。そこで神は代弁者であるヨハネを通して次のような言葉を与えられました。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」(ルカによる福音書 3章11節)人々は善悪を知っているので、彼の言うことが真実であることを知ります。神は人類の心に、何が善で何が悪であるかという認識を与えてくださいました。私たちがそれを無視する事を意図しない限り、例えば赤ちゃんを殺すのは悪いことで、赤ちゃんを育てるのは良いことだとを、ある程度のレベルで知っています。ヨハネは、人々が光を愛し、闇を憎むように神が彼らに語りかけるために用いられました。

 

  第三に、ヨハネは彼の役割を知っています。彼は預言者であって彼自身がメシアではありません。そして彼は決してそれを忘れません。ヨハネは彼が何をすべきか、そして何をする必要が無いかを知っています。また、彼は自分の仕事が終わる時と、その時に彼は舞台から降りることを知っています。彼がイエスを世に知らしめた時、彼はヨハネの福音書 3章30節にある「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」と言う時である事を知っていました。神様、私たちがなすべきことをすべて始める勇気を与えてください。また、与えられた範囲を超えて更に行うことを無くすための知恵、そしてあなたの導きがもはやそこには無い時には、やめる知恵を与えてください。

 

  第四に、バプテスマのヨハネの物語全体の一種の要約として、彼は自分の生涯の中心にキリストを置いています。良い意味で彼は無私の人です。それは彼に人格や意思、そして個人的な考え方が無いという意味ではありません。彼はこれらをキリストの指導に委ね、彼の思考・言葉・行動の中心に自分自身ではなくイエスを置くことを選んだという意味です。そうすることによって、彼は最高の自分になり、多くの人を命の源であるキリストご自身に導くことができるようになれます。自分自身よりも大きなものに関わる事で、彼は自己中心性の束縛から解放されます。人々が彼を見るとき、彼らはイエスを見ます。ヨハネは、邪魔をせず、自分の人生を神の手段として用いて人々を神に導くことに優れています。彼はパウロがピリピ人への手紙 1章21節で「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」と書いた意味を理解していると思います。⑤

 

  最近、私たちは⑥“Turn Your Eyes Upon Jesus.” という歌を歌いました。バプテスマのヨハネは人々をそのように導きました。「目をイェスに向け そのみ顔見れば 栄光と恵みは照り 地のものは消え去る」私はこの歌が大好きですが、重要な点で誤解されやすいので、この歌を歌う時にはいつも少し奇妙に感じます。私たちが真にイエスに近づき、イエスのことをますます意識するようになると、時にはこの世の事柄に注意を払わなくなったり、気づかなくなったりすることがあります。しかし、イエスに近づくと、イエスが私たちをこの世界に送り返し、私たちの助けを必要としている人々にもっと注意を払うことになる場合もあります。もしキリストに注意を払うことが助けを必要としている隣人を無視することに繋がるのなら、私は本当にイエスが望む通りにイエスに従っているかを疑わなければなりません。ヨハネはそのようなことはしません。彼が人々をキリストに呼びよせるとき、彼はルカの福音書 3章14節後半に見られるように非常に「この世的」なことに導きます。「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」      

 

  最後に、イエスはヨハネをこれだけ高く称賛した後に、ご自身と、ヨハネと、今ここで生きている私たちを結び付けるコメントをします。彼は7章28節後半で「しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」と述べています。何ですって?もし私たちが神に人生のすべてを委ね、神をその王として迎えいれているなら、私たちは神の王国に住んでいることになります。ですが、私たちがヨハネのような人々よりも偉大になれるのでしょうか? 

 

  イエスは私たちがヨハネよりも道徳的に優っているとかより忠実であると言っているわけではありません。彼はヨハネが告げしらせ、イエスご自身が今、私たちの世界にもたらそうとされている大きな変化を指し示しています。ヨハネはマタイの福音書 3章2節後半で「天の御国が近づいたから。」と宣言をしました。

 

  すぐにイエスにバトンを渡して、マルコの福音書 1章14-15節にあるように「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」

 

  ヨハネからイエスへと私たちを導くことで、神は焦点を移しています。神は私たちを律法の時代から恵みの時代へと導き、行いによる救いから信仰による救いへと導き、旧約聖書から新約聖書へと導き、メシアへの準備からメシア自身の時代へと導いています。私たちは、恵みの時代である今日に生きることは信じられないほど恵まれています。神の御子イエスの生涯、死、そして復活によって、神の国で生きる機会が私たちに与えられました。 

 

  これこそが、今日私たちが再び受け取った良い知らせです。ルカはそれを最初に聞いた人たちは良い知らせに聞こえたと語っています。ルカの福音書 7章29節後半「神の正しいことを認めたのです。」⑦

 

  今日、神の御言葉を通して私たちが受け取ったメッセージについて神に応答するとき、彼らと一緒にそのことに同意してお祈りしましょう。

 

  天の父なる神様、あなたと共にいる永遠の命を得るために、喜んで働き、苦しみ、そして死ぬことすら厭わなかったバプテスマのヨハネのような信仰の模範に感謝します。あなたの御国における命が、どれほど素晴らしいかを理解できるように助けてください。私たちが喜びと感謝を以てそれを受け取り、毎日の生活のそれぞれの状況において、この世にあなたの王国をもたらすためにあなたが私たちに与えてくださったそれぞれの役割を果たすことができるようにしてください。これが私たちの祈りです。主、イエスの御名によってお祈り致します。アーメン。

   

 

参考

 

Elliot, Elisabeth. (2004). Keep a Quiet Heart. Revell. GoodReads. Retrieved August 12, 2023 from https://www.goodreads.com/quotes/618800-the-secret-is-christ-  in-me-not-me-in-a

 

訳者補足

「メシア」と「キリスト」

新改訳聖書第三版では

マタイの福音書 1章1節は

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

となっていますが、英語訳では“Messiah”の場合と“Christ”の場合があります。

今日のメッセージでは「メシア(ギリシャ語でキリスト)」との表記になっています。メッセージではNIrVを使っていますので

This is a record of the family line of Jesus Christ. He is the son of David. He is also the son of Abraham.

となっています。NIrVの元となったNIVでは

This is the genealogy of Jesus the Messiah the son of David, the son of Abraham:

となっていて、“Jesus the Messiah”となっています。

この“the Messiah,”がギリシャ語のΧριστοῦ(Strongs G5547)で国際発音記号(IPA)で“xriˈstos”となります。

この単語の音訳は“Christos”となります。

 

「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」

ルカの福音書 7章23節だけではなく四福音書の中で何度も「イエスにつまずく」という表現が多数あります。少し説明しておきます。

つまずきとは、人をつまずき倒れさせるものを言います。そのため、目の見えない人の前に置いてはならないと言われています(レビ記 19章14節)。ですが多くの場合,この語は比喩的に使われて、人を迷わせ落させる像などを指しています(イザヤ書 57章14節)。

新約聖書においては、つまずき(σκάνδαλον[skandalon])は、罠の餌をつける棒が元々の意味ですが、比喩的に人を誤らせ減びに導くものを表しています(ローマ人への手紙 11章9節)。

 

なお、このギリシャ語σκάνδαλον(g4625)は英語のScandal(スキャンダル)の語源となっています。

 

レビ記 19章14節

あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である。

 

イザヤ書 57章14節

主は仰せられる。「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。」

 

ローマ人への手紙 11章9節

ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。

 

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マラキ書 3章1節

「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。

 

ピリピ人への手紙 1章21節

原文は欽定訳聖書(KJV)から“For me to live is Christ, and to die is gain.” を引用しています主に使われているNIrVでは“For me, life finds all of its meaning in Christ. Death also has its benefits.”となっていて「私にとって、人生はそのすべての意味をキリストの中に見出します。死にもその恩恵があります」と訳せます。

 

“Turn Your Eyes Upon Jesus”は作者Helen Howarth Lemmelの讃美歌で、本来のタイトルは“O soul, are you weary and troubled?”です。Jim先生が引用している“Turn your eyes upon Jesus, Look full in His wonderful face, And the things of earth will grow strangely dim In the light of His glory and grace.”だけを歌詞とするバージョンもありますが「この歌詞は“O soul, are you weary and troubled?”の最初のリフレインパートだけを抜き出したものです」との注釈があります。

 

日本語に訳されているのは“O soul, are you weary and troubled?”が福音讃美歌415番「目を上げて主のみ顔を」だけですので、翻訳歌詞は福音讃美歌のものを使っています。

 

 

ルカの福音書 7:29はNIrVでは“All the people who heard Jesus' words agreed that God's way was right. Even the tax collectors agreed. These people had all been baptized by John.”となっています。

他には

“(All the people, even the tax collectors, when they heard Jesus' words, acknowledged that God's way was right, because they had been baptized by John.” (NIV)

“When they heard this, all the people—even the tax collectors—agreed that God’s way was right, for they had been baptized by John.” (NLT)

“And all the people that heard [him], and the publicans, justified God, being baptized with the baptism of John.” (KJV)

のように色々な記述がされています。“Jesus”とハッキリ記述している場合や“him”と代名詞の場合やNLTのように全く触れていない場合もありあす。

新改訳 第三版では

「ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。」

新改訳 2017では

「ヨハネの教えを聞いた民はみな、取税人たちでさえ彼からバプテスマを受けて、神が正しいことを認めました。」

となっています。新改訳 2017は「ヨハネの」に注釈があり「補足」である事が示されています。

最も留意して頂きたいのは、この節だけに注目しないことです。ルカの福音書 7章全体を通して語り手はイエスである事を考えると、日本語の(悪い)特徴である「意味が通じる場合は主語を省略」がなされていると推察できます。