金持ちと貧乏人の行く末

2023年8月6日主日礼拝「金持ちと貧乏人の行く末」ルカ16:14~23佐々木俊一牧師

■8月と言うと、日本ではやはり、「お盆」でしょう。お盆になると、多くの人々が自分の故郷や実家に戻ります。日本人の心情として、この時期はお正月と並んで特別なものがあります。お坊さんを呼んで死者を供養したり、お墓参りをしたり、亡くなった人々を偲ぶ時なのです。 

 お盆とは、日本古来の先祖崇拝と仏教が融合した行事で、8月13日から16日の期間に先祖の霊や亡くなった家族の霊があの世からこの世に戻ってきて一緒に過ごす時なのだそうです。そして、16日には再びあの世に戻って行くと信じられています。

 ところで、話は変わりますが、2014年の世界の人口は約70億人でした。あれから9年後の2023年では、世界の人口は80億4500万人だそうです。10年にもならないうちに10億人以上増加しました。

 世界不平等研究所(本部・パリ)の調査によると、世界の資産の約38%は、1%の超富裕層の人々が独占しているそうです。現在、世界の人口は約80億人ですから、1%というと、8000万人です。新型コロナウィルス感染拡大の影響で、世界の富裕層と貧困層の格差がさらに拡大したそうです。下位50%の人々の資産は全体のほんの2%、そして、上位10%の人々の資産は全体の76%だそうです。

 日本ではどうかと言うと、上位10%の人々の資産は日本全体の58%、下位50%の人々の資産はたったの6%です。ヨーロッパほどではないにしても、非常に不平等な状態であることは確かのようです。

 この世界はあまりにも不平等で不条理で理不尽なのが現実です。しかし、だからと言って失望する必要はありません。この地上の営みは、永遠に続くわけではないのです。聖書によるならば、どんなに不平等で不条理で理不尽な人生を生きたとしても、イエス・キリストと言うお方が、イエス・キリストを信じる者たちのために、逆転の勝利を与えることが出来ると言うことがわかるかと思います。今日は、ルカの福音書16章からそのメッセージを受け取りたいと思います。

■この金持ちと貧乏人のお話を、イエス様は誰に向けて語ったのでしょうか。14節に、「金の好きなパリサイ人たち」と書かれています。文脈の流れからして、それは、イエス様を嘲笑ったこのお金の大好きなパリサイ人たちに向けて語られたお話であることが分かるかと思います。パリサイ人とはユダヤ人の宗教指導者であり、人に教え、人を導く立場にある人々です。ですから、お金には無欲な人々というイメージがありますが、お金には目がないパリサイ人も少なくなかったようです。もちろん、神のことばに真面目に取り組む人々もいました。たとえば、ヨハネの福音書3章に出てくるパリサイ人に、ニコデモという人がいます。彼には、真理に対する真剣な態度を見ることができます。彼は後で、イエス・キリストを信じました。

 私たちはどうでしょうか。お金は好きでしょうか。私自身について言うなら、嫌いではありません。好きか嫌いか、どっち?と聞かれたら、正直言って好きだと答えるでしょう。けれども、神様とお金のどっちが好き?と聞かれたら、どう答えますか。もちろん、神様と答えるでしょう。お金は多すぎず、少なすぎず、必要な分だけあればよいと思います。

 箴言30:8に私の好きなことばがあります。

「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とは誰だ。』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

■次に15節を見てみましょう。イエス様には、人の心の内側を知る力がありましたから、イエス様を嘲笑った金の大好きなパリサイ人たちの心の内側もよく分かっていました。彼らには一つの大きな問題があります。それは、自分は正しい者であるという思い込みです。ゆえに、神様の助けも救いも必要ありません。すでに、神様の前に十分に正しい者であるとの認識でしたから、行ないによって義となる自信に満ちあふれていたのです。実際に、彼らは人前で良いことをしていました。祈りもうまいですし、献金もいっぱいささげていました。身なりもよいですし、社会的地位も、財産も、名誉もあります。これほど立派な人が神様に認められないわけがありません。

 けれども、神様の目には、彼らの内側と外側のギャップが明らかでした。そして、イエス様は言うのです。「人間の前であがめられる者は、神の前で憎まれ、嫌われます。」ほめることも、ほめられることも、それ自体は良くも悪くもありません。的のはずれた思い違いをしてしまうことに問題があるのです。ほめられることによって、自分が他の人より特別な存在であって、何か偉くなったような錯覚にとらわれることが問題です。

■16節 旧約時代は律法と預言者の時代と言うことができるでしょう。神は、イスラエルの人々に律法を守るように命じました。そして、律法を守るならば、あなた方を祝福しようと約束しました。しかし、律法を守り続けることは彼らにとって至難の業でした。多くの人々がそれぞれの行ないによって裁かれました。しかし、そんな中で面白いことに、律法を完全に守ったわけではないのに、罪赦され、祝福を受け、神のみ国に行ったと思われる人々がいるのです。へブル書11章を参考にしていただきたいのですが、ノアやアブラハムが神のみ国に行くのはわかります。でも、やり方の汚いヤコブ、遊女ラハブ、大酒飲みで女好きのサムソン、人殺しのダビデ、彼らが神のみ国に行くのは律法からするとおかしいのではないですか。面白い聖書箇所があります。時間がありましたら、エゼキエル33:11~16を読んでみてください。

 旧約において神のみ国に入れられた人々は、行ないによって神のみ国に入れられたのではなく、その信仰によって入れられた人々なのです。その意味では今と同じです。イエス・キリストを信じる信仰ではありませんが、神を信じる信仰によって、神の判断によってよしとされた人々が神のみ国に入れられました。彼らに共通することは、神を信じて、悔い改めたということです。新約においても、旧約においても、行ないによって神のみ国に入った人は誰もいません。すべて信仰によってです。

 律法と預言者によって救い主が来られることが語り伝えられてきました。そして、ついに、救い主はこの地上に来られました。それが、私たちが知っている、イエス・キリストです。本物の救いがこの世にやってきて以来、神の国の福音は宣べ伝えられて、それまでとは比べられないほどにたくさんの人々に神のみ国への可能性が広がったのです。それまで考えられないような人々までその救いを受けるためにやって来ました。当時、罪人のレッテルを貼られていた、取税人や遊女たち、汚れた者として社会の隅に追いやられていた多くの人々がイエス・キリストを救い主として受け入れ始めました。それを見ていたパリサイ人と呼ばれる聖書を良く知っているはずの宗教指導者たちが、その動きを阻止しようとしたのです。

■17節・18節 神様にとってはすべてをリセットする方が簡単なのです。つまり、天地のすべてを滅ぼして、また初めから始める方がずっと簡単なのです。ノアの大洪水の時のように。しかし、神様はそうはしませんでした。神様は難しい方、律法の一画が落ちる方を選ばれました。

 神様は罪人を救うためにひとり子なるイエス・キリストを地上に送りすべての人の罪を負って十字架にかかって死ぬことをよしとされました。それにより救いは完成しました。イエス・キリストを救い主として信じる者はだれでも、その信仰によって義とされ、神のみ国に入ることができるのです。この神の計画により律法の一画は落ちたかに見えましたが、実は、そうではありません。かえって、それによって律法を確立することになったのです。

■19節~21節 ある金持ちとは、そこにいたパリサイ人たちのことであり、紫の衣や細布を着ることのできる人とは、金持ちで地位があり贅沢な生活をしている人々の典型的な姿です。そんな金持ちの家の門の前には、ラザロという貧乏人(ホームレス・乞食)が横たわっていました。彼は全身が皮膚病で炎症を起こしていました。体も弱っていて野良犬がやって来ては赤くただれた皮膚をなめまわしました。しかし彼にはそれを払いのける力さえなかったのです。彼が金持ちの門の前にいたのには理由がありました。残飯を期待していたのです。ラザロは金持ちの家から出た残飯を食べて何とか生きていたのです。

■22節 そして、時は経って、貧乏人ラザロが死んだとあります。彼のために葬儀がなされたのかどうかわかりません。たぶん、葬儀はなく、きちんと埋葬されることもなかったでしょう。けれども、み使いたちによって、アブラハムのいるところに連れて行かれたとあります。アブラハムのいるところとは、パラダイスのようなところと考えてよいでしょう。そして、その後、金持ちも死にました。きっと彼のためには立派な葬儀が行なわれたことでしょう。きちんと埋葬もされたことでしょう。

 ここでわかることがあります。お金があっても無くても、結局、人は死んでしまうのだということです。しかし、お金がなくても、神のみ国に入ることはできるのです。            

■23節 ところで、あの金持ちは死んでどうなったでしょうか。「その金持ちはハデスで苦しみながら目を上げると」と書かれています。ハデスとは、何のことでしょうか。どうやら、この金持ちはハデス、つまり、地獄に行ってしまったようです。正確に言うと、死後、神の裁きを受けるその時まで、待って過ごす場所のことです。

 貧乏人のラザロはパラダイスに、金持ちはハデスに行きました。どういう理由でこのような結末になってしまったのでしょうか。彼らがまだ生きていた時には、どちらかというと、金持ちが良い評価を受け、ラザロが悪い評価を受けていました。当時の律法の常識的理解によるならば、金持ちは、神の祝福ゆえに、富も地位も名誉も与えられたのであり、ラザロが貧乏で皮膚病だったのは、彼の罪に対する神の裁きなのだと考えられたのだと思います。しかし、神の判定はまったくの逆でした。ラザロは神のあわれみを受け、金持ちは神の裁きを受けました。

 イエス様は律法についてとても大切なことを言っています。マタイ23:23にこのように書かれています。「偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、10分の一の献金を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち、正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他の方もおろそかにしてはいけません。」金持ちは人の目には正しい者として見られましたが、しかし、神の目には、正義もあわれみも誠実も欠けているとの判定でした。金持ちは貧乏人ラザロのことを知っていました。けれども、彼は、ラザロのことについてはほとんど無視でした。無関心だったのです。25節にこうあります。「子よ。思い出してみなさい。お前は生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間悪い物を受けていました。しかし、今、ここで、彼はなぐさめられ、お前は苦しみ悶えています。」

 この地上には不平等があり、不条理があり、理不尽があります。しかし、それについても、神様のあわれみと慰めがあります。ラザロのように、この地上において良い物を受けられなかった人のためには、きっと、神のみ国においてもっと良い物が備えられていると信じます。

■律法によって測られるのなら、私たちの受ける報いもあの金持ちのようになってしまう恐れがあるのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストがこの地上に来て、神のみ国の福音を宣べ伝えて以来、行ないによるのではなく、イエス・キリストを救い主として信じる信仰によって神のみ国に行く道が開かれました。これについては、金持ちも貧乏人も区別はありません。チャンスはすべての人に平等に与えられているのです。こんなに素晴らしい救いを受けない理由はありません。また、この救いを与えられている私たちは本当に幸いな者です。そのことを感謝したいと思います。そして、いつも、主と人の前にへりくだって歩んで行きたいと思います。それではお祈りします。