イエス様について行く喜びと楽しみと期待

2023年7月9日主日礼拝「イエス様について行く喜びと楽しみと期待」ルカ5:27~31 佐々木俊一牧師 

■今日は、レビと言う名前の取税人をとおして、「イエス様について行くこと」について考えてみたいと思います。

 ルカ5:27~28 「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、『わたしについて来なさい。』と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」 

 ここに出てくるレビという取税人は、後のマタイです。彼をとおして、マタイの福音書が書かれました。当時、ローマ帝国はイスラエルの国を支配下に置き、国中に取税人をおいて、税の徴収を行なっていました。それをよいことに、取税人たちは、その立場を利用して、上乗せをして税の取り立てを行ない、私腹を肥やしていました。ここに登場するレビも、そうした取税人のひとりで、人々から嫌われていたようです。しかしイエス様は、そんなレビに、「わたしについて来なさい」と声をかけました。すると彼は、何もかも捨てて、イエス様に従って行ったと書かれています。このところには、「彼は何もかも捨てて、イエス様に従った」、と結果だけがあります。それ以上の詳しいことは何一つ書かれていません。きっと、レビはその時、自分の仕事を放り出してイエス様につき従い、その後、自分の家にイエス様を招いてもてなしたのでしょう。もしかしたら、奥さんや子どもたちもいたかもしれません。その後のレビは、イエス様からマタイ(神の贈り物)という名前をいただいて、十二弟子の一人としてイエス様と行動を共にしました。

 この状況の中に自分を置いてみましょう。もしも、自分がイエス様に、「私について来なさい。」と言われたら、あなたはどうしますか。それも、仕事中にイエス様が来られて、目を留められて、「わたしについて来なさい。」と言われたら、仕事も、家族も、家や地位も、何もかも捨ててイエス様の後についていくでしょうか。私たちにとっては、非現実的な出来事のように思えても仕方がありません。当時は今の時代と違って、そのようなことができたのかもしれません。あるいは、イエス様は、神のみ子なるお方であり、救い主なるお方ですから、それだけのインパクトを与えることができたのかもしれません。

■「わたしについて来なさい。」と言われたのは、マタイだけではありません。ペテロも、ペテロの弟のアンデレも、ヤコブもヤコブの弟のヨハネも、同じことを言われました。そして、同じように、「すべてを捨てて」ついて行ったと書かれています。彼ら4人は漁師でした。漁によって、生活の糧を得、家族を養っていました。彼らはその仕事を辞めて、イエス様について行きました。仕事を辞めた後、家族がどうしたかについては書かれていません。しかし、その後も家族と関わり続けた形跡は聖書の中に見ることができます。ですから、すべてを捨ててついて行くということは、家族との関りを完全に絶つというわけではありませんし、また、そのように勧めているのでもありません。「すべてを捨ててついて行く」ということについて、私たちが受ける印象と、実際に意味するところは、異なっているように思います。

 弟子たちがイエス様についていくために、どうして、すべてを捨てる必要があったのでしょうか。彼らにとって、イエス様についていくためには、仕事を辞め、家族から離れる必要がありました。イエス様がなそうとしていたことは、弟子たちを教え、訓練し、イエス様と同じように働きができるように備えさせることでした。そのためには、イエス様と生活を共にし、イエス様と一緒に行動をする必要があったのです。  

 現代においても神様は同じことをしようとしているのでしょうか。私はそのようには思いません。私たちは、仕事を辞めなくても、家族から離れなくても、イエス様について行くことができると思います。イエス様がこの地上におられたときには、弟子たちは、イエス様と共に行動をしなければ、イエス様から学ぶことはできませんでした。イエス様がエルサレムに行けば、彼らも一緒に行く必要がありました。当然、それは、仕事を辞めなければなりませんでしたし、家族から離れなければなりませんでした。しかし、今は違います。ヨハネ14:16~17にはこのように書かれています。

 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」

 そして、ヨハネ14:26には、こう書かれています。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

 父、子、聖霊の三位一体なる神様が、この地上において今、イエス様に代わって聖霊をとおして私たちを教え、導き、慰め、励まし、力を与えてくださっています。弟子たちがイエス様によって教えられ、導かれていたように、私たちは、聖霊によって教えられ、導かれているのです。さらに、私たちには、旧約聖書も新約聖書も与えられています。自分専用の聖書を持っています。注解書だって手に入れようと思えば手に入れることが出来ます。これらを読んで、祈って、時には他のクリスチャンと交わり、互いに教えたり、教えられたりして、共に分かち合います。これらのことをとおして、私たちは教えられ、導かれるのです。

■ルカ5:29~30「そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。『なぜ、あなたがたは、取税人や罪人たちといっしょに飲み食いするのですか。』」 

 レビの周囲には、いろいろな人がいたようです。イエス様は、その人たちと食事をしました。当時、食事を一緒にするということは、その人たちと、とても親しい関係にあること、友であることを意味します。ですから、どうして人々から嫌がられている罪深い人たちと食事をするのかと問われても、当然と言えば当然なのです。当時の常識から考えると、イエス様がされたことは、非常識だったのです。

 ところが、つぶやくパリサイ人や律法学者たちに、イエス様は、このように応えています。

ルカ5:31~32で、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」とあります。

 実は、問いかけた彼らが非常識だと感じていたところに、神様の常識がありました。医者を必要としているのが丈夫なものではなく病人であるように、救い主を必要としているのは正しい者ではなく罪人なのだ、ということです。イエス様は罪人を招くためにこの地上に来られました。イエス様がそのことを告げると、彼らの常識は、いっぺんにくつがえされてしまいました。

 いつもそうだというわけではありませんが、人の常識の中には、しばしば神様のみこころと違うものがあります。そして、その部分に光を当てたのが、イエス様でした。神様は、取税人や罪人に救いをもたらすことをみこころとしておられました。そして、取税人だったレビは、招いてくださったイエス様を受け入れ、何もかも捨ててついてゆきました。

■ここで、「献身」と言うことについて考えてみたいと思います。献身と聞くと、牧師や宣教師、神学校に入ることなどを思い浮かべるかも知れません。もちろん、そのような形での献身があります。聖書や神学をある程度専門的に学んで訓練を受けた人材は教会にとって必要な人材であると思います。ですから、学びや訓練を受けるために遠く離れた町にある神学校へ行かなければならないこともあるでしょう。その場合、もしも配偶者や子供がいるならば、現代では家族を伴って一緒に行くのが普通だと思います。

 「献身」について、その入り口をもっと広くして考えてみたいと思います。実は、クリスチャンはだれでも、自分を主に献げるように導かれています。私たちクリスチャンはみな、イエス・キリストの尊い血潮によって買い取られた者たちです。私たち自身は、もはや、自分のもののようで、自分のものではありません。神様のものです。ですから、たとえ、神学校に行って学んだり、訓練を受けたりしないとしても、自分を主に献げるように導かれているのです。神学校に行くことや教会で指導者として働くことだけが献身ではありません。どんな仕事をしていたとしても、どのような立場であったとしても、誰もが自分を主に献げるように導かれています。

■イエス様は弟子たちに、「わたしについてきなさい」と言いました。声をかけられた弟子たちは、何もかも捨てて、イエス様に従って行きました。「献身とは、すべてを捨てること」と考えると、ものすごくプレッシャーを感じます。けれども、イエス様についてゆくことだと考えると、何か楽しくなってきませんか。イエス様に誘われた弟子たちも、たぶん、「イエス様についていくためにはすべてを捨てなければならないのだ」というようなプレッシャーを感じていたわけではないと思います。彼らにはイエス様について行くことへの喜びや楽しみや期待があったのだと思います。もしかしたら、最初は、自分中心の喜びや楽しみや期待であったかもしれません。しかし、イエス様と一緒にいて、イエス様から学んで、訓練を受ける中で、神様中心の喜びや楽しみや期待が分かる人へと変えられていったのだと思います。弟子たちが最初イエス様に抱いていた喜びと楽しみと期待は、その後、想定外の困難な状況によってすべて壊れてしまいました。しかし、彼らはそれで終わりませんでした。彼らがそこから立ち上がった時、彼らの自分中心の喜びと楽しみと期待は神様中心の喜びと楽しみと期待へと変えられていました。それと同じように、私たちがイエス様についていくと言いながらも、私たちの喜びと楽しみと期待は自分中心なものかもしれません。しかし、困難な状況が許されたとしても、それでもイエス様についていくことをやめなければ、やがて自分中心の喜びと楽しみと期待は神様中心の喜びと楽しみと期待へと変えられてゆきます。

 今日は、レビ(マタイ)や弟子たちの姿から、イエス様についていくことについて見てきました。祈って導かれるならば、どうか、牧師や宣教師としてイエス様についていってください。他の仕事や立場であったとしても、イエス様についていってください。どちらにしても、イエス様についていく喜びと楽しみと期待をもって進んで行くクリスチャンでありたいと思います。それではお祈りします。