あなたが祈る時、神の働きが前進する!

2023年7月2日主日礼拝「あなたが祈る時、神の働きが前進する!」エペソ6:18~20 

佐々木俊一牧師

■この前は、エペソ6:10~18をとおして、霊的戦いと私たちの霊的武具についてお話ししました。今日は、その続きです。「祈り」について見て行きたいと思います。この祈りも、ある意味、私たちにとって霊的な武具の一つであると言えます。祈りには、何かしら力があるようです。祈りが私たちの目には見えない世界に対して影響を与えるようです。

 エペソ人への手紙を書いたパウロは、この祈りの力を身をもって体験しました。だからこそ、パウロは手紙を出すたびに祈りをリクエストしているほどです。たとえば、多くの妨げがある中、主のみことばが早く広まるように、ひねくれた悪人どもの手から救い出されるように、もっとパウロとその仲間のために祈ってほしい、そうすれば、それだけ早くあなたたちのところに帰れるようになるのだからと言って、祈りを要請しているのです。祈りをとおして神様が働かれることをパウロはよくわかっていました。

 それでは、エペソ6:18から見て行きましょう。

■18節「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」、とあります。すべての祈り、すべての願いについて考えてみましょう。私たちは、日曜日の礼拝の中でいつも心合わせて祈ります。また、火曜日の祈祷会や水曜日のオンライン祈祷会、そして、その他の集まりの中でも私たちは様々なことについて祈ります。また、各自、日々の生活の中で、朝夕にデボーションや祈りの時を持つこともあるでしょう。私たちは、教会の働きのために祈り、世界中で起きている自然災害や戦争で苦しんでいる人々のために祈り、また、教会の兄弟姉妹やその家族・友人・知人のいろいろな問題のために祈ります。また、私たち自身や家族のためにも祈るでしょう。それらの祈りはすべて私たちの願いであり、多くの人々の願いです。私たちはそのような願いのために神様に祈り求めます。

 祈りは、単に私たちの願いだけではありません。祈りは、神様への賛美や感謝である場合もあります。私たちは私たちのためにしてくださった神様の祝福や恵み、神様の導きや助けに対して感謝をささげます。また、神様の素晴らしさやそのみわざに対して賛美をささげます。それらも私たちの祈りです。

 そして、大切な祈りとして忘れてはならないのは、悔い改めの祈りです。ヤコブ5:16に、「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」と書いてあります。私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じ、義人とされました。しかしながら、クリスチャンになったとは言え、罪をまったく犯さないわけではありません。時には私たちの罪が妨げとなって私たちの祈りが神様のもとに届かない、神様に聞き入れてもらえない、そのような場合があるのです。そんなとき私たちはどうしたらよいのでしょうか。私たちは聖霊の促しに素直になってただ従うのです。神様との親しい関係を妨げている罪を罪として認め、神様に告白するのです。ただそれだけで関係は回復します。

 祈りは、このようにして、神様と私たちを結び付けてくれます。祈りは、神様と私たちの交わりの時なのです。最初の人、アダム、そして、エバのときのことを考えてみましょう。アダムとエバが罪を犯して神様から離れてしまう以前は、人と交わるように、神様とも親しく交わっていました。けれども、人は神様からしてはならないと言われていた、たった一つの事を守ることが出来ず、つまり、人が罪を犯したために、神様と人との間にあった平和が壊れてしまいました。それ以来、神様との交わりが人にとってだんだんと難しいものとなってしまいました。ところが、神様は回復の道を備えてくださいました。救い主イエス・キリストをとおして、神様と人との間に平和を回復し、再び交わることができるようにしてくださいました。そして、神様との交わりを助けてくれているのが、聖霊です。

 イエス・キリストを救い主と信じた者には聖霊が与えられ、聖霊が内に住んでくださる、と聖書にはっきりと書いてあります。イエス様が天の父なる神様のもとに戻った後には、もう一人の助け主、聖霊が来られることを、イエス様ご自身がはっきりと言っていました。パウロはエペソの教会に対して、御霊によって祈りなさい、と言っています。それは、イエス・キリストを信じ、神の子どもとされている者ができる特権です。私たちは知性をもって祈ります。その時に、私たちの内におられる御霊も共に祈ってくださっているのです。

 また、「どんなときにも祈りなさい。」、とあります。私たちは、どんなときにも御霊によって祈るように導かれています。実は、私たちはいつでもどこでも祈れるようにできています。ユダヤ人にとって祈る場所は神殿であり、シナゴグでした。また、異邦人にとっては偶像が安置されている神殿であり、そして、その偶像に向かって祈りました。しかし、クリスチャンは場所に制限されていません。なぜなら、クリスチャンの内に聖霊なる神がおられ、クリスチャンの体が神殿と言われているからです。クリスチャンは歩く神殿です。ですから、どこででもいつでも祈れるのです。

 モーセの時代に幕屋がありました。幕屋は大庭と聖所と至聖所の三つの部分からなり、至聖所には契約の箱が置かれていました。その契約の箱は、地上における神様のみ座であり、神様のおられる所を表しています。一つの場所から他の場所へと移動する時には、レビ族の中から選ばれた者たちが木の棒で担いで移動しました。ある意味、契約の箱はクリスチャンを表していると言ってもよいでしょう。私たちは、いつでもどこでもどんなときにも御霊によって祈ることが可能です。なぜならば、私たちが行くところどこでもいつでも、私たちの内に聖霊なる神様が共におられるからです。

 ですから、私たちは、何か問題が起こった時には、考える前に祈りましょう。困り果てる前に祈りましょう。文句を言ったり、腹を立てたりする前に、まずは祈りましょう。もしも、考えるなら、祈った後に考えましょう。

■18節後半に、「そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」、とあります。祈ることが、目をさましていることを意味し、注意深くある態度です。もしも、私たちがあまり祈らない人であるならば、霊的な事柄について不注意になってしまう傾向があるかもしれません。そして、それは目をさましている状態とは言えないのです。

 また、パウロは、すべての聖徒のために祈るようにも言っています。すべての聖徒とは誰を指しているのでしょうか。すべてですから、すべてなのでしょう。当時はユダヤ教徒や異教徒たち、また、ローマ帝国によるクリスチャンへの迫害が非常に激しかった時代です。現在においても、迫害の中にあるクリスチャンはたくさんいます。中国のクリスチャンのために、北朝鮮のクリスチャンのために、イスラム圏のクリスチャンのために、私たちはもっと祈る必要があります。ロシア正教会の国々においてもプロテスタントのクリスチャンへの迫害があると聞きます。私たちは迫害を受けているクリスチャンのために祈らなければなりません。

 さらに、忍耐の限りを尽くして祈るように言っています。私たちは、すべての聖徒のために、根気強く祈り続けなければなりません。1回だけ祈ればよいと言うのではなくて、継続的に祈る必要があります。

■19節~20節 「私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」

 パウロは、自分の祈りの課題を出しています。パウロは自分のために祈ってくれるように頼んでいるのです。パウロほど祈りの事を深く知っている人は他にいないでしょう。そのパウロが、自分だけで祈るよりも他の多くの人にも参加して祈ってもらう方が、祈りが強力だという認識をしていたのです。パウロはそのようなことをどこで学んだでしょうか。イエス様のことばや、また、他の弟子たちから学んだのかもしれません。あるいは、パウロは旧約聖書をよく知っていましたから、そこから祈りについて学んだかもしれません。

 火曜日の聖書の学びと祈りの時に、ひとりの担当者の方がに、出エジプト記17:8~13をとおしてお話をしてくれました。そこには、イスラエルの民がアマレク人と戦ったときのことが書かれてあります。イスラエルの民がレフィディムというところで宿営した時に、アマレク人たちがやって来て戦いになりました。その時、モーセとアロンとフルの3人が丘の頂に立ち、他の男たちはアマレク人と戦いました。モーセはその戦いを丘の頂上からただ眺めていたのではありません。神により与えられた杖を手に持って、その手をずっとあげていたのです。おもしろいことに、モーセが手を上げている時はイスラエルが優勢になり、疲れて手を下げるとアマレクが優勢になりました。それに気づいたアロンとフルは、大きな石の上にモーセを座らせると、モーセがずっと手を上げていられるように両側から支えました。結果、ヨシュアが率いるイスラエルがアマレクを打ち破ることができたのです。神の杖をもって両手を上げることが、霊的にどういうことを意味しているのでしょうか。それは、祈りです。これもパウロの手紙ですが、Ⅰテモテ2:8に、「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり、言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」とあります。祈りは霊的な勝利を得るために必要な戦いの武器なのです。私たちは祈りによって霊的な敵の戦力を打ち砕いて行くことが出来るのです。そのようにして、私たちは、神の働きを前進させることに協力しなければなりません。

■パウロは自分の祈りの課題についてかなり具体的に言い表しています。「私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることが出来るように私のためにも祈ってください。」、とお願いしています。さらに、その時の状態をもっと詳しく説明しています。パウロは、具体的な祈りをエペソのクリスチャンに要請しました。「私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」と。

 パウロはユダヤ人宗教指導者たちの訴えに対して、ローマ皇帝カイザルに上訴しました。そのため、パウロはローマでカイザルによる裁決まで拘束されていたのです。パウロは自身で言っているように鎖につながれた状態にあり、外に出ることなどできませんでした。しかし、そのような状態あっても、面会は可能であったようです。神様はそのような不自由な状況の中でも福音宣教の機会を与えておられました。そして、パウロ自身、神の御国をより多くの人々に伝えるために神の御国から遣わされた大使としての意識を持っていました。パウロは神の御国の情報を人々に提供し、キリストの救いを宣べ伝えました。また、パウロは同じ神の御国の民、クリスチャンを励ますための活動も忘れることなく、手紙や人を送ることによって続けていました。パウロはいずれ、その時のローマ皇帝ネロの前に立つ日を覚悟していたでしょう。そうであったとしても、パウロが何も恐れることなく大胆に神の御国の福音を語れるように、と祈りを要請したのです。多くのクリスチャンの祈りのサポートの中、パウロは神の御国の大使としての役割をまっとうして天の御国へと凱旋して行きました。パウロはローマ皇帝ネロよってローマで殉教したと言い伝えられています。

■神様はキリストの体である教会をとおしてご自分の働きを進めておられます。神の働きが前進していくために、キリストの体であるクリスチャンお一人お一人の祈りが大きな力となって働いています。ですから、あなたが祈る時、神の働きが前進する!ことを覚えましょう。お祈りのことばが上手いとか下手とかのレベルの問題ではありません。あなたが祈る時、御霊が働かれることに大きな意味があるのです。すべての祈りと願いを用いて、日々御霊によって祈りましょう。それではお祈りします。