従順がもたらす神の祝福②

2023年6月4日主日礼拝 「従順がもたらす神の祝福②」エペソ6:5~9佐々木俊一牧師

■3月の第4週目に「従順がもたらす神の祝福①」をやりました。そのところでは、子どもたちに向けて、両親に従うこと、そして、両親を敬うことの大切さについて語られました。しかし、それは単に、子どもたちに課せられた義務と言うことではなくて、子どもたちを育てる側の親にある責任についても語られていました。親子の良い関係は、まずは親の子どもに対するふるまいや言葉が鍵を握っているのです。

 そして、今日は、親子間にある従順について語られていたように、奴隷とその主人の間にもそれに似た従順があることが語られていますので、見て行きたいと思います。

■奴隷制度と言うのは過去の事であって、今の時代にはないと考えているでしょうか。言い方を変えると、人身売買です。実は、現代でもあるのです。2017年の調査で、2016年にその犠牲となった人は、世界中で約4,030万人いたとの報告があります(※国連薬物犯罪事務所(UNODC)による)。そのうち、約25%は子ども、約70%は女性だそうです。その目的は、性的搾取、強制労働、強制結婚、臓器摘出、子ども兵士等です。原因は何かと言うと、それは、戦争や紛争であったり、貧困であったり、教育機会の不足であったり、そのようなことです。

 ヨハネの黙示録には未来に起こるであろうことが書かれています。18:13にとても興味深い記述があります。11節と12節からの続きです。「・・・シナモン、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、小麦粉、小麦、家畜、羊、馬、馬車、奴隷、それに人のいのちである。」このように書かれています。これらは、終わりの時代に、象徴的な表現であるかと思いますが、大バビロンと言われる国が商品として扱っている物の名前です。その中に、奴隷や人の命があると言うことがとても興味深いのです。人や人の命を商品として売買することが今も昔も同じように行なわれ、そして、未来においてもそれは変わりません。もしかするとそのようなことが、もっと盛んに行われるようになるのかもしれません。

 人や人の命が物のように扱われる風潮は、日本も例外ではありません。「現代の奴隷制度」と評された外国人技能実習制度は、国際社会から厳しく批判されています。この制度は、基本的人権の侵害を含んでおり、即刻改めなければならないことです。

 古代ギリシャや古代ローマにおいては、奴隷制度は社会的に認められた慣習でした。現代人からすると絶対に支持できることではありませんが、たとえば、戦争に勝ったならば、馬や家畜だけではなくて捕虜となった人間さえも戦利品だったのです。それらはすべて、お金で売買することができました。古代ギリシャ人や古代ローマ人にとって、奴隷は当たり前のことでした。しかし、それは古代ギリシャ人や古代ローマ人に限ったことではないのです。日本やアメリカ、世界中のどの国々においても、昔から今日に至るまで変わることなく、行われてきていることなのです。この現実には、本当に驚かされます。 

 では、聖書は奴隷についてどのように言っているのでしょうか。聖書は奴隷制度を容認しているのではないか、と言われることがありますが、それは本当なのでしょうか。

■創世記37章で、ヤコブの11番目の息子であるヨセフが兄たちの妬みを買って、ミディアン人の商人に銀20枚で売られてしまいました。その後、エジプトに連れて行かれたヨセフは奴隷として売られてしまうのです。ですが、そんなヨセフが神様のご計画の中でエジプトの王ファラオに次ぐ地位にまで上り詰め、エジプトの国を治めるまでになりました。それから、当時、中東を大飢饉が襲ったので、ヨセフは父ヤコブの全家族70名をエジプトに呼びました。彼らはエジプトに定住し、初めは順調でした。しかし、時が経ち、エジプトを大飢饉から救ったヨセフの事を知らない王様の時代になると、イスラエル人への態度が大きく変わってしまったのです。あまりにも大きな勢力となっていたイスラエル人はエジプト人にとって大きな脅威となっていました。そのため、エジプトの王ファラオは、イスラエル人を奴隷として扱うようになりました。こうしてイスラエル人にとって大きな試練が始まりました。

 神様がアブラハムに語っていたように、イスラエル人がエジプトに定住した期間は430年でした。奴隷として生きることはあまりにも辛く、イスラエル人は彼らの神に向かって叫び声を上げました。そして、ついに、神様は彼らのために動きました。神様はモーセに言いました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に・・・彼らを導き上るためである。今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。」と出エジプト記3:7~9に書かれてあります。このところから、何がわかるでしょうか。

・神様は奴隷とされているイスラエル人の苦しみを見ました。

・神様は奴隷とされているイスラエル人の悲痛な叫びを聞きました。

・神様は奴隷とされているイスラエル人の痛みを知りました。

・神様は苦しんでいるイスラエル人を救い出したいと思いました。

・神様は奴隷とされているイスラエル人を約束の地に導きたいと思いました。

 このところを見るならば、イスラエル人が奴隷状態にあることを神様は喜んではいないことがわかります。イスラエル人が受けている虐げから、神様は救ってあげたいと思ったのです。それは、イスラエル人に限られたことではなくて、同じ境遇にあるすべての人間に対する神様の思いなのです。ですから、奴隷制度が神様の容認されていることである、と言うのは大きな間違いです。次に、申命記を見てみたいと思います。

■申命記5:14「しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことが出来る。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が・・・あなたをそこから連れ出したことを覚えておかなければならない。・・・。」

 人間の社会には奴隷制度がいつの時代にもありました。奴隷制度もまた、罪の結果であると言えます。その原因は今の時代とそれほど変わりません。戦争や借金が原因であったり、時には、連れ去られて売られてしまうケースもあったでしょう。このようなことは、けっして、神様が認めている行為ではありません。人間の罪の結果なのです。

 この当時、イスラエルの奴隷たちは、ある意味、律法によって守られていた、と言ってよいでしょう。たとえ奴隷であったとしても、神様にとっては、尊いひとりの人間です。ですから、安息日は、奴隷にとっても安息日でした。仕事をしてはならなかったのです。聖書を読めばわかりますが、彼らは物としてではなくて、人として扱われました。他の国の奴隷たちはそうではありません。休むことなど許されませんでした。イスラエル人がエジプトで奴隷であった時もそうだったでしょう。その時のイスラエル人の苦しみを神様はご存知でした。ですから、神様はイスラエル人に言うのです。エジプトの地で自分たちが奴隷であったことを覚えておきなさい、と。神様がその苦しみの中から救い出してくださいました。同じような苦しみを彼らの奴隷たちに与えてはいけないのです。

 そして、さらに、奴隷たちは、イスラエルの民と一緒になって、お祭りの時に主の前で喜び、ともにご馳走に与ることが出来ました。ただし、男たちはすべて神との契約の印である割礼を受けることが前提です。この事は何を意味するのでしょうか。それは、たとえ奴隷であったとしても、神様の約束と救いを受けることが出来るのだ、と言うことです。ただし、イエス・キリストを救い主として信じることを通してです。それについては、自由人も奴隷も同じです。

■ローマ帝国時代において、多くの奴隷たちが農業や建築などの重労働を担っていました。ですから、新約時代の教会には多くの貧しい奴隷たちがともに集まり、ともに主を礼拝していたのです。新約聖書の手紙を見ると、その証拠となる記述があちこちに見られます。エペソ6:5~9にもその関連の記述です。5節から8節は奴隷に対して言われていることばであり、9節だけが主人に対して言われていることばです。

 5節~8節 「奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行ない、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。奴隷であっても自由人であっても、良いことを行なえば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなたがたは知っています。」

 奴隷たちは、地上の主人にどのように従うべきかについて語られています。まず第一に、キリストに従うように地上の主人に従いなさい、と言っています。キリストは、私たちにとって良いお方です。キリストは私たちのことを愛してくださるお方です。キリストは私たちのことを考えてくださるお方です。キリストは私たちの苦しみ、悩み、悲しみをわかってくださるお方です。キリストは私たちが困っている時に助けてくださるお方です。時には、キリストは私たちの罪を戒め、悔い改めへと導びき、そして、赦してくださるお方です。キリストは私たちの失敗をいつまでも怒り続けたりはしません。キリストは私たちに永遠の命を与え、神の御国に導いてくださるお方です。キリストは私たちを救うためにご自分のいのちを捨てたお方です。そのようなお方であれば、喜んで奴隷たちは従うことが出来ます。しかし、地上の主人は、キリストとは程遠い人かもしれません。キリストに従うように、地上の主人に従うことは簡単なことではないと思います。それでも、地上の主人に従順であることには、何かしら神様の特別な計画があるようです。ですから、主人に対して敬意を表し、真心から従うように、と言っています。主人がいる時だけ従っているように見せて、主人がいない時は手抜きをするような仕え方でいけないのです。聖書に書かれている言い方で言うならば、ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべ(奴隷)として、主人をキリストと思って、喜んで仕えなさい、と言っています。地上の主人をリスペクトし、キリストに仕えるように、喜んで主人に仕えるならば、何か良いことが起こるのでしょうか。この地上で何か良いことが起こるかどうかはわかりません。けれども、確かなことは、主からの報いは大きいということです。それは、私たちが期待する以上の事ではないかと信仰によって思えるのです。もしも、この地上でその報いを受けることがないとしても、天のみ国において、必ず、受けるのです。それは、主の言われることに従うならば、奴隷であっても自由人であっても何の差別もなく受けることができます。

 9節 「主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。あなたがたは、彼らの主、またあなたがたの主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。」

 ここでは、主人たちが奴隷たちをどのように扱うべきかについて語られています。主人たちに向けて、あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい、と言っています。同じようにしなさいとは、具体的にどういうことなのでしょうか。それは、主人たちもキリストに対するように奴隷たちを尊重しなさい、ということではないでしょうか。上から目線で見るのではなくて、自分を低くして彼らと同等な立場で彼らを扱うのです。自分の方が偉いなどという意識を持ってはなりません。主人たちの主も、奴隷たちの主も、天におられる主なのです。天におられる主にとって、主人も奴隷もただの人です。差別はまったくありません。平等なのです。差別はこの地上の価値観であって、天においては人の間に上下関係はありません。

■先週、教会の使命についてお話ししました。福音宣教とキリストを信じ救われている者として成長です。世界中の人々にキリストの救いを伝えることと、キリストの花嫁として父なる神のみ前に立つための備えをすることです。

 社会の変革は私たちに与えられた使命ではありません。けれども、もし奴隷の立場にある人々が自由になる機会が導かれているならば、そのために私たちは喜んで協力するでしょう。

 私たちが神様から受けている使命は霊的な変革です。霊的な変革は、私たちの心のあり方にも大きな影響を与えるものです。イエス・キリストを信じて、霊的に新しく生まれ変わることこそが重要なことです。キリストを信じている者たちの心は、この地上の価値観に従うのでなくて、神のみ国の価値観に従うのです。神様の価値観に従いましょう。神様の言われることに従順なものでありましょう。

 先ほど、奴隷として売られたヨセフのお話をしました。ヨセフは、奴隷の時にも自由人の時にも神様に従順な人でした。何に対しても一生懸命に取り組み、神様に対して、また、人に対しても従順な心を持っていました。従順は神様の祝福をもたらします。それは、自分だけにとどまらず、周囲にも神様の祝福を広げていくものです。従順であることを通して、神様のなさることを見ていきましょう。それではお祈りします。