教会の成り立ち

2023年5月28日「教会の成り立ち」マタイ16:15~19佐々木 俊一牧師

■私は2009年4月1日(水)より、オープン・ドア・チャペルの牧師として働いて来ました。早14年が過ぎました。私はフリー・ウィル・バプテスト教会でバプテスマを受けましたが、それから3年後、その教会はカリスマ的な教会として再スタートしました。その後私は25年以上もの間バプテスト教会とは関わりがありませんでした。ですから、私がオープン・ドア・チャペルに赴任してから1年間は北海道バプテスト神学校でバプテストの神学を学ぶように導かれました。残念ながら、現在、北海道バプテスト神学校はなくなり、代わりに北海道バプテスト研修センターとして信徒セミナーを中心にその働きを継続しています。

 バプテストの神学と言っても、私が以前学んだこととほとんど同じでした。信仰の中心がぶれなければ、教派が違ったとしてもそれは正統なキリスト教です。しかしながら、やはり、バプテストにはバプテストの信仰の強調点がありますし、また、バプテストにはバプテストの歴史的背景や伝統があって、バプテストの秩序があることに気づかされます。たとえば、バプテスト派は聖書のことばに忠実であるゆえに、幼児洗礼は絶対に認めません。イエス・キリストを救い主として自らの意志をもって告白した者だけが神の救いを受け、バプテスマを授けられて教会の交わりに加えられるのです。また、浸礼に重きを置くことは言うまでもありません。その他に、これは私の印象ですが、讃美歌中心のオーソドックスで堅い礼拝が一般的であり、感情よりも理性、メロディーよりも言葉や歌詞を重視し、神様に向かって直接語りかけるよりも、神様を証しする内容の賛美を歌うことが多いように思います。ですから、最新のワーシップソングなどはあまり歌いません。そんな中で、オープン・ドア・チャペルはとてもユニークなバプテスト教会です。讃美歌も歌いますが、新しいワーシップソングもたくさん歌います。

 オープン・ドア・チャペルの牧師として働くようになってから、それ以前の私自身のクリスチャンライフとの違いに気づかされることがよくありました。そこで、私が心がけたことがあります。それは、バプテスト教会にはバプテスト教会のやり方があり、大切にしている秩序があると言うことです。この群れの中にいる限り、その点は尊重し、従うべきであると心に決めました。私がここに導かれた理由は、バプテスト教会のやり方を変えることではありませんし、また壊すことでもありません。私がバプテストの教会であるオープン・ドア・チャペルに導かれたのは神様の導きであると信じていましたから、まず、私はここで何をするように導かれているのかを神様に祈って聞くようにしました。そして、自分が必要とされている部分で協力できることを喜んでやろうと思いました。そのために、それまで身に着けたやり方や自分の中で当然と思っていた事の中には捨てなければならないこともありました。

 この14年間、オープン・ドア・チャペルの兄弟姉妹だけではなくて、北海道バプテスト連合の牧師や教会の方々からもバプテスト教会のあり方についてたくさんのことを学ばせてもらいました。彼らはみな大切な仲間ですから、できる限り歩調を合わせて歩んで来たつもりです。

 先ほども言いましたが、この教会の牧師に就任してまもなく、私は北海道バプテスト神学校で学び始めました。その学びの中でいくつかのレポートを提出しました。その中から今日は、少しですが分かち合いたいと思っています。メッセージ聖書箇所は、マタイ16:15~19で、特に、18節のところをお話したいと思っています。

■「教会」はギリシャ語で「エクレシア」、「召集する、呼び集める」から派生したことばです。マタイの福音書16章を見ると、イエス様ご自身が「教会」ということばを用いています。ゆえに、「教会」が神様のご計画であることは疑う余地がありません。

「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。』シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは生ける神のみ子キリストです。』すると、彼に答えて言われた。『バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。』・・・。」

 「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」というイエス様のことばを何となく聞いていると、ペテロには岩と言う意味がありますから、ペテロと言う人物がすごい人物で、神様はペテロを用いて教会を建てる、みたいな解釈をしてしまいそうです。カトリックはそのような解釈でもって、ペテロを初代のローマ法王とし、ペテロが受けた権威を次の法王へと継承しています。でもその解釈は違います。「ペテロ」はギリシャ語で「petros」と発音します。意味は、一つの岩とか一つの石です。これは、あくまでもイエス様がペテロに与えた新しい名前です。この名前はその後のペテロの生き様の実質を表すことになりました。それに対して、「この岩」とはギリシャ語で「petra」です。意味は、岩の塊とか岩盤です。

 ペトラと言ったら、皆さん何を思い浮かべるでしょうか。私は、ヨルダンにある、あの有名なペトラ遺跡を思い起こします。映画「インディージョーンズ」ロケ地としても有名になりました。ちょっと、その画像を見てみましょう。

 ペトラ遺跡の岩盤はもともと一つの大きな岩盤だったそうです。ペトラとは、それほどまでに大きな岩を意味しているのです。「petra」は「petros」とは比較にならないほどに超巨大な岩なのです。ですから、それは、ペテロ個人を意味するものではなくて、ペテロの告白、「あなたは生ける神のみ子キリストです」、あるいは、神のみ子キリストご自身であると言うことなのです。神の教会は、この告白を土台として成り立ち、そして、神のみ子キリストがその礎石なのです。この告白がなければ、それは教会ではありません。

■イエス様の言われた「教会」が現実に動き始めたのは、天から聖霊が下られたペンテコステの時です。今日は、ちょうどペンテコステの日、聖霊降臨の記念日です。ユダヤ人にとっては、この日は七週の祭りの日であり、モーセが神様から受けた十戒のことを覚えて記念する日であり、そして、小麦の初穂を神様に感謝してささげる日でもありました。

 イエス様が十字架にかかって死んで3日目によみがえられた後、40日間弟子たちの前に現れました。その後、天に戻られましたが、イエス様が言われたように、エルサレムから離れずに、ひとつのところに集まって祈っていた弟子たちの上に天から聖霊が下られました。それから、「そして、毎日、心を一つにして宮に集まり、家で、パンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も、毎日、救われる人々を、教会に加えてくださった。」とあるように、信じる人々が教会に増し加えられていったのです。 

■次に、神の教会の使命とは何かについて見ていきましょう。すでに引用済みですが、使徒の働き2章46節と47節をもう一度見てみましょう。 

「そして、毎日、心を一つにして宮に集まり、家で、パンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も、毎日、救われる人々を、教会に加えてくださった。」

 信者たちは共に集まったのです。共に集まることは、その使命を果たす上で非常に重要な行為です。そして、礼拝と交わりのときを持ちました。共に集まることが、単に、仲間同士の内輪への影響だけではありませんでした。すべての民に好意を持たれたとあるように、集まることにより外部への影響があったのです。教会の目的は内部への目的と外部への目的があります。キリストが教会のかしらであるゆえに、教会はその目的のために機能してゆくことができるのです。エペソ人への手紙1章22節と23節に、「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」と書かれてあるとおりです。

 教会の使命は大きく分けて2つあります。一つは宣教です。マタイの福音書28章18節から20節に、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国々の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」とあります。なんと力強いイエス様のことばでしょうか。宣教の役割を果たすために、キリストをかしらとするからだとして機能していけるように、教会は整えられる必要があります。

 2つ目は、キリストの花嫁としての教会です。聖書には、教会がキリストの花嫁として描かれている箇所がいくつかあります。エペソ人への手紙5章25節から32節もそうです。キリストは教会への愛ゆえに、教会のためにご自身をささげられました。十字架の血潮によって、教会はきよめられ聖なるものとされたのです。しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を神のみ前に立たせるためです。キリストが教会を愛したように、神は、教会に、キリストへの愛を求めます。それは、真の神のみを礼拝し、愛し、従う信仰です。教会において、礼拝、祈り、みことば、感謝と賛美、互いの交わりの中で、聖霊によって、キリストのからだなる教会、神によって呼び集められたお一人お一人はキリストの似姿へと成長してゆくのです。そのプロセスは、けっして楽しい事ばかりではありません。かえって、その反対です。皆さんもお分かりかと思いますが、教会生活と言うのは楽しい事ばかりではありません。苦しいことも辛いこともあります。しかし、そのような中にこそ、私たちが成長して行くプロセスがあるのです。教会の2つ目の使命は、教会におけるいろいろな出来事を通しておひとりお一人をキリストの花嫁として整えることです。

■北海道バプテスト神学校において、これら二つの使命を果たしていくために、教会政治の三形態について学びました。一つは、監督主義です。監督主義は、「監督」の職務を重視します。「監督」はギリシア語で「見渡す者」、「見張る者」という意味です。ローマ・カトリック教会や聖公会がそれに当たります。

 二つ目は、長老主義です。長老主義の伝統に立つ教会はカルヴァンの改革派教会の流れです。

 三つ目は、会衆主義です。会衆主義は牧師と執事職のみを認め、各個教会が牧師の任免権をはじめ、すべての権限を掌握します。これは、聖霊によって「集められた群れ」としての各個教会が聖書の権威と聖霊の自由において、キリストの恵みを宣教し、すべてのことを決することができるという確信に立っています。他の教会による干渉や支配の及ぶことのできない独立性を保つ教会です。バプテスト教会の流れです。

 会衆主義教会は各個教会の自主独立が認められるすばらしい教派です。にもかかわらず、今日のバプテスト教会においていくつかの問題があることも認めなければなりません。各個教会が牧師を招聘し、すべての決定権を持つゆえに牧師が横暴になるか、信徒が横暴になるかの制度上の危険について直面しています。近隣の教会が直接介入できないゆえに、牧師の横暴をチェックしにくかったり、あるいは、信徒におもねる牧師も出てくるという問題が生じています。反対に、信徒たちが招聘制によって牧師の生殺与奪を持っているとばかりに信徒たちが牧師の言葉に耳を傾けないことも起こりえます。

 聖書的に言うと、元来、「キリスト」の教会があるだけで、「信徒の教会」はありません。教職と対立する「信徒」の概念は聖書的ではないのです。みことばが教会を建て、牧師がみことばを語るゆえに、牧師職は尊重されなければなりません。また、会衆が牧師の召命観を招聘によって承認している以上、教会運営においても一定の権限あるいは一定の権限が及ぶ領域があって当然なのです。ただ、バプテスト派のように会衆主義教会においては、権限主義型のリーダーシップよりも、権限分与・参与型のリーダーシップの方が望ましいとされています。

 会衆主義にとって、教会の主は牧師でも、信徒でもないことを肝に銘じるべきです。イエス・キリストこそが教会のかしらであるゆえに、聖書に根差し、主を主としていく意識的、継続的訓練が不可欠なのです。一人ひとりが聖書のことばと主キリストの主権を認め、主のみこころを第一とし、従ってゆく決意なしには会衆主義教会は無秩序化し、主の教会に与えた使命を担ってゆくことはできません。

 監督主義にしても、長老主義にしても、会衆主義にしても、真に、教会のかしらなるキリストを認め、主のみこころに聞き従うことに目を留める必要があります。しかし、人は罪人なので誤りに傾きやすいことを知らなければなりません。であるならば、互いに忠告できる関係性を維持しなければなりません。その点、対等に言い合える関係が可能な会衆主義・各個教会主義がよりよい教会としての形態であると言えるのです。対等にものを言える関係があるなら、どちらかが主のみこころからはずれた時に、忠告することができます。そして、私たちは互いに低くなって相手の言うことに耳を傾けなければなりません。そうするならば、互いに自浄作用を常に持てる教会でありえるのです。教会が自浄作用を失うとき、教会の秩序は壊れます。そこにあるのは混乱です。私たちは教会の自浄作用を失うことのないようにしたいと思います。それではお祈りします。