神のみわざを担う大切な人

2023年5月14日(日)主日礼拝(母の日)

「神のみわざを担う大切な人」詩篇139:13~16 

佐々木俊一牧師

 

■「卵が先か、鶏が先か」という疑問がよく話題になります。この疑問は、命がどのように始まったのか、また、世界がどのように始まったのかという問題を提示しています。「鶏が先である」というのが聖書的な答えです。

 人について言うならば、神は初めに男を造ったとあります。名前は、「アダム」です。「ア」は神を表す文字であり、「ダム」は「血」という意味のことばであると、昔、授業で習いました。「アダム」は「神の血」という意味があります。神は、男にふさわしい助け手として「女」を造られました。アダムをしばしの間眠らせてその間にアダムの肋骨の一つをとって女を造ったとあります。この話を聞く限りにおいて、多くの日本人は、神話かその類の作り話だろうと思うのではないでしょうか。

    そこで、「肋骨(ribs)」ということばに注目したいと思います。ヘブル語で「肋骨」を何というのか、グーグルで検索してみました。音を出してみました。「セラ」と発音していました。このことばは、周りが仕切られた一つの部屋のようなものを表しています。牢屋であるとか、船の湾曲した肋骨状の骨組みであるとか、鳥かご(cage)のようなものにこの言葉が使われていました。これもまた、昔、授業で習ったのですが、「cella」というのは、「cell(細胞)」の語源であると言うのです。 

 私たちが子どもの頃には想像もしなかったことが、現代の科学では可能になっていることが多くあります。倫理上の問題はありますが、科学的には一つの細胞から生命体(クローン)を造ることが不可能なことではありません。神様が女を一つの細胞から造ったと断定しているのではありません。人間でもそのようなことができるのであれば、神様が肋骨から女を造ることなどずっとずっと容易なことであるということです。

 それでは、詩篇139篇を見てみましょう。

■詩篇139:13~14「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。」

 139篇は、今から3000年前にダビデが書いた、創造主なる神様への賛歌です。ダビデは神様に向かって高らかに、これらのことばにメロディをつけて、楽器を奏でて歌いました。どんなメロディーだったのでしょうか。とても興味があります。神様が母親の胎のうちでダビデの内臓を造り、ダビデの体を組み立てるように造ってくださったことをほめたたえています。 

 ある英語の聖書(NIV)では、神様が母親の胎のうちで糸を編むようにして造った、とあります。また、そのページ下の注釈に内臓のことを腎臓とも書いてありますが、このことばは、体の奥の奥、深いところにあるものを意味しています。その意味で、霊とか命と言う意味にもとれることばなのです。ですから、神様はダビデの霊と命を造り、母の胎のうちでダビデの体を造られたと言うことになります。ダビデは、確かに、自分が神様によって造られた者であることを信じていました。自分の霊も魂も体も、本当に恐ろしいほどに精巧に素晴らしく出来上がっているので、畏敬の念をもって神様を賛美しているのです。神様のみわざは本当に素晴らしいものであると、ダビデは感動しているのです。

■少し話は変わりますが、みなさんの中で、金子道仁さんと言う名前を聞いたことがあるでしょうか。昨年、参議院選挙がありました。その時、維新の会から立候補して、比例代表で参議院議員に当選しました。彼は兵庫県のグッド・サマリタン・チャーチと言う教会の牧師をしています。牧師になる前は、外交官だったそうです。スペインや南米の大使館で働いていたそうです。しかし、30歳の時に、牧師になるために外交官を辞めました。結果、親から勘当されたそうです。

 彼が働いている教会は、とても大きな教会で、他にも牧師が5、6人います。現在、その教会は、インターナショナル・クリスチャン・スクールをやっています。フリースクールですが、カリキュラムはしっかりしていて高校卒業資格が取れるようになっています。カリキュラムの中には、聖書の授業があり、創造論を教えています。創造論と言っても、けっして、科学を否定しているわけではありません。ちゃんとした科学的な理科の授業行なっているのです。

 この学校の教育方針や目標などは、ホームページに書かれています。ホームページ上の学校名は、光の子どもクリスチャン・スクールです。小学生から高校生までのクラスがあります。大学進学多数となっていました。大学受験対応もきちんとしているのだと思います。

 教育目標の一つとして、このようなのがありました。「聖書によれば、子育ての第一責任者は親です。子どもに一番の影響を与えるのも家庭です。ご家族にも、子どものために責任を果たしていただき、協力して、最高、最善を与えていくことを目指します。」とありました。

 確かにその通りです。子育ての第一責任者はけっして学校ではありません。親です。子どもに一番影響を与えるのも学校ではありません。親であり家庭です。聖書を読むならば、聖書がそう言っていることに気づくはずです。親の協力がなければ学校教育は成り立ちません。親の協力があって初めて子どもにとって最善の学校教育が可能なのです。

■最近、遺伝子の研究がかなり進んでいます。自分の遺伝子を知りたいとき、今は2万円でその検査ができるようです。自分のルーツを調べることも出来るようです。母方のルーツはミトコンドリアDNAによってわかります。でも、父方のルーツはミトコンドリアDNAではわかりません。なぜならば、受精後に父方のミトコンドリアは消滅してしまうからだそうです。父方のルーツは男性だけがY染色体によってわかるそうです。でも、まだまだわからないことがたくさんあって、はっきりしたことは言えない段階のようです。

 それでも、はっきりしていることは、人間の祖先は人間であって、サルではないということです。多くの日本人が自分の祖先はサルだと言っていますけど、私は自分の祖先は人間だと思います。聖書は、神様がすべての植物や生物を種類ごとに造った、と言っています。ですから、人は人として造られ、サルはサルとして造られたのだ、と私は信じます。私の祖先はサルではなくて、人間です。サルを差別するわけではありませんが、私たち人間は人間なのです。アフリカ系の人々も、アジア系の人々も、ヨーロッパ系の人々も、みんな神様によって造られた尊い人間なのです。DNAは、いろいろな可能性が詰められている宝箱です。

 それでは、また詩篇139篇に戻りたいと思います。

■詩篇139:15「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。」

 私たち一人一人は、神様によって秘密の場所で組み立てられたようです。ある英語の聖書(NIV)では、13節と同じように、「(糸で)編む、織る」という言い方をしています。このところでも、糸でもって編むようにして、または、糸でもって織るようにして、組み立てられるという言い方がされているのはとても興味深いと思います。私は、このことから遺伝子の二重らせん構造を連想してしまいます。

 遺伝子のことを考えると、本当に面白いと思います。遺伝子についてとてもわかりやすい説明を見つけました。遺伝子を作る4つの塩基は文字の役割で、遺伝子は文の役割で、染色体は一冊の本の役割であるという説明を見つけました。このような形で体の中で情報伝達が行なわれているのです。とてもわかりやすい説明だと思います。

 染色体は対になっています。人の場合は父から23本、母から23本受け継ぎます。一本一本の染色体を引き延ばしていくと、2重らせん構造の遺伝子が見えてきます。その間に4種類の塩基がいろいろな組み合わせで並んでいます。それらは言語のように用いられて情報のやり取りをしながら体を組み立てたり動かしたりしているのです。

 ところで、遺伝子の画像を見ると、まるで2本の糸が絡み合っているように見えないでしょうか。先ほども言いましたが、遺伝子は二本の糸による二重らせん構造をしています。

 レビ記19:19に、こういうことが書かれています。「あなたがたは、わたしのおきてを守らなければならない。あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない。」と書かれています。

 この聖書のことばは現代に生きる人間への警告であるように私には思われます。異なる種の遺伝子のミックスによって造られた体は、神様の設計図にはありません。人の霊は神様によって設計された体に住むのがふさわしいのです。ゲノムテクノロジーは、神の領域にまで人の手を入れてしまう恐れのある分野です。中国では、人間とゴリラの中間の生物を遺伝子操作によって作ろうという計画があるようです。また、より優れた人間を作るために、遺伝子編集をしようとする試みもあるようです。レビ記19:19で言っていることばは、そのようなことに対する神様からの警告ではないだろうか、と私は思いました。

 自分の体や能力がより優れたものになるなら、遺伝子操作も良いのではないか、という誘惑が私たち人間にはあると思います。もしかすると、なんで自分はこんな風に生まれて来たのだろうか、と思ったことはないでしょうか。私は思ったことがあります。他人と比べて、ある時は優越感に浸り、ある時は劣等感に悩み、そんな不安定な時期が20代初めくらいまであったような気がします。確かに、人の目で人を比べると、人には優劣があるように感じてしまうものです。けれども、神様の目から見ると、人が感じる優劣は、ないに等しいのです。なぜならば、神様と人とではあまりにも優劣の差がありすぎるからです。

 私たち一人一人は、一方では本当に小さな存在です。ですが、私たち一人一人は神様によって恐ろしいほどに精巧に造られた、素晴らしい存在でもあるのです。ダビデのように、私たちも、自分が神様によって恐ろしいほどに素晴らしく造られている作品であることを覚えて、感謝したいと思います。

■詩篇139:16「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書き記されました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」

 このところは、少し難しいかもしれません。私たちが母親の胎の中で完成の途中であるにもかかわらず、もうすでに、私たちのすべてを知っておられ、私たちの人生のすべての日が、その中の一日だってまだ始まっていないのに、神様の書物にそれらのことが書かれていると言うのです。とても不思議なことです。確かなところは、いつか直接神様に聞くことにしましょう。 

 今日は母の日です。聖書のことばによるならば、お一人お一人が神様の目に高価で尊い存在です。その高価で尊い存在はお母さんのお腹の中で形造られました。お母さんがいなければ、誰もこの地上に生まれていません。お母さんは、神様のみわざを担う大切な人です。お母さんに感謝しましょう。そして、お母さんを大切にしましょう。それではお祈りします。