旧約聖書はキリストを証しする!

2023年4月㉓日主日礼拝「旧約聖書はキリストを証しする!~旧約聖書がおもしろく読める見方」ヨハネ5:39佐々木俊一牧師

■およそ二千年前の出来事です。キリストはよみがえられました。今は、父なる神の右に座しておられます。私たち人間の罪の代価を支払うために、十字架の上で死にました。しかし、それから三日目によみがえられたのです。その後、キリストはエルサレムにあるオリーブ山から天に昇って行かれました。この時、キリストは再び戻って来られることを約束して天に上げられました。今度、キリストが戻って来られる時は、十字架にかかるためではありません。王の王として、この世を裁くために戻って来られるのです。

 この世を裁くために戻って来られると聞くと、少々怖い気がします。しかし、それは、私たちクリスチャンにとっては良いニュースです。なぜならば、キリストはこの世を裁くとともに、キリストを信じる者たちを神の御国に連れて行くために戻って来られるからです。

 十字架にかかって死んだキリストも、そして、将来、王の王として再び戻って来られるキリストも、ともにキリストであり、旧約聖書の中に両方のキリストが証しされている同じキリストなのです。そこのところが、当時のユダヤ人も現在に生きているユダヤ人も受け入れがたいところなのです。しかし、その両方を理解するユダヤ人がだんだん増えて来ているのも確かです。ユダヤ人もキリストが来られるのを待ち望んでいます。彼らが待ち望むキリストは王の王、力強いキリストです。彼らにとって、十字架に架けられた弱いキリストはキリストではないのです。彼らの多くは、十字架にかけられた弱いキリストを信じません。

 しかし、旧約聖書にはちゃんと、十字架に架けられた弱いキリストのことも、王の王としてやって来られる強いキリストのことも、両方が共に証しされているのです。

■私たちクリスチャンは、よく「証しする」という言い方をします。「証しする」とはどういうことなのでしょうか。辞書で調べてみました。証しするとは、「証拠立ててはっきりさせる、ある事柄が確かであるよりどころを明らかにする、証言する、証明する、保証する」と書かれてありました。

 ヨハネ5:39でイエス様はこのように言っています。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」

 ここで言う「聖書」とは、旧約聖書のことです。ユダヤ人にとって聖書と言ったら、それは旧約聖書を指しています。「あなたがた」とはイエス様に敵対するユダヤ人たちです。彼らは旧約聖書の中に永遠のいのちのことが書かれてあると信じていました。ですから、彼らはそれを調べていたのです。しかし、聖書はイエスがキリストであることを証言しているのにもかかわらず、彼らは信じようとしませんでした。

 ヨハネ5:46にこのように書かれています。「もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」

 モーセが書いたものとは、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五書です。そこに書かれているのは、天地創造から始まり、人類とイスラエルの歴史についてです。罪を犯してしまった人類のために神の救いの計画がイスラエルの民をとおして表されているのです。

 イスラエル人の信仰の父であるアブラハムは神様の御声に従って約束の地カナン、現在のパレスチナへと移り住みました。その後、その信仰と約束はアブラハムからイサクへ、イサクからヤコブへと引き継がれていきました。アブラハムと妻サラ、その子イサクと妻リベカ、その子ヤコブとその妻たち、そして、その12人の息子たち、これらの人物とこれらの人物によって繰り広げられる人生やその出来事の中に、神の救いの計画や救い主のことが編み込まれて描かれているのです。

 さらに、ヨセフをとおしてエジプトへ移り住んだイスラエルの民は時を経て奴隷となってしまいました。その後、エジプトの地から脱出し、イスラエルの民をカナンの地へと導き入れるモーセやヨシュアという人物の中に将来、来られるはずの救い主なるお方の姿が予告的に表されています。

 そのほかにも、神様の命令で始まったモーセの幕屋での五つのいけにえや、毎年のように行われる7つの祭り等の中にも救い主イエス・キリストのことが表されています。

 このように、モーセ五書は、人物やその出来事の中にキリストなるイエスのことが描かれています。なので、イエス様は敵対するユダヤ人に向かって、モーセが書いたことは自分(イエス)の事なのだから、もしも、モーセの言うことを信じているなら自分(イエス)の言うことをも信じるはずだ、信じないのは彼らがモーセの言うことを信じていないからだ、とイエス様は彼らに向かってきっぱりと言いました。

■前回、イースターの時に夜空を見上げるといつも満月です、完全な満月ではありませんが、ほぼ満月です、というお話をしたのを覚えているかと思います。そして、イースターは毎年日にちが変わります、ということもお話しました。ある年は4月中旬になったり、ある年は3月下旬になったりします。今年のイースターは4月9日でした。

 イースターは、キリストの復活を記念し、お祝いする日です。ちょうどこの時は、ユダヤ人にとって、とても重要なお祭りの最中です。そのお祭りは、過越しの祭りで始まり、種なしのパンの祭りが7日続きます。その間、日曜日には初穂の祭りが行われて、この一連のお祭りは終わりです。マタイ26章にそのことが書かれています。過越しの祭りが近づいたとき、イエス様は、ご自身が十字架につけられるために引き渡される、ということを弟子たちに告げました。実は、このことはすでに旧約聖書の中に予告されていたことなのです。

 出エジプト記12章をお開きください。この章では、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出しようとしている時のことが書かれています。今から3500年も前のことです。エジプトの王、ファラオは頑なにイスラエルの民がエジプトから出ることを拒み続けました。そして、ついに、神様の10番目の災いがエジプトの上に襲い掛かろうとしていました。

 2節にこう書かれています。「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。」この月の名前をアビフの月、または、ニサンの月とも呼びます。イスラエルでは太陰暦でした。太陰暦と言うのは、日没とともに1日が終わり、日没とともに新しい1日が始まります。アビフの月は、3月中旬から4月中旬の月です。この時から、この月が1年の始まりとなりました。因みに、現在のイスラエルでは、第7の月、ティシュリーが1年の始まりとなっています。西暦だとイスラエルの新年は毎年違う日にちになります。 

 アビフの月の始まりは、新月で始まります。新月とは、月が見えない状態です。それから、だんだんと、三日月から半月、半月から満月、ちょうど月の15日ころが満月です。満月から半月、半月から三日月となり、そして、また新月となって次の月が始まるのです。だいたい29日間から30日の周期です。

 3節「この月の10日に、それぞれ一族ごとに羊を、すなわち家ごとに羊を用意しなさい。」※4節「もしその家族が羊一匹の分より少ないのであれば、その人はすぐ隣の家の人と、人数に応じて取り分けなさい。一人ひとりが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。」

 この時のアビフの月の1日目が何曜日だったかはわかりません。そして、10日目も何曜日だったかわかりません。しかし、月はだんだんと満月に近づいていました。人々はこの日に家ごとに一匹の羊を用意しました。

 5節~7節「あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたは、この月の14日まで、それをよく見守る。そして、イスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。」

みなさん、もう知っていますよね。過越しの祭りは、イエス・キリストの十字架のことを表わしているのだ、ということを知っていますよね。

 イエス様が水でバプテスマを受けるためにバプテスマのヨハネの方へと近づいて行くと、バプテスマのヨハネは言いました。「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。」と。イエス様が真の神の子羊です。ほふられた傷のない一歳の子羊は真の神の子羊であるイエス様のことを表しています。イエス様がこの地上に来られた理由は、世の人々の罪を取り除くために、ほふられる子羊としてそれらの罪の罰を代わりに受けて死ぬためでした。

 羊は羊でも「神の子羊」であるために、子羊でなければなりませんでした。しかもそれは、傷のないりっぱな一歳の若い雄の羊です。それを、その月の14日までしっかりと観察して、もしも、傷があれば傷のないものと取り換える必要があったのです。イエス様は日曜日にエルサレムに入場しました。そして、人々は日曜日から木曜日までの間イエス様をしっかりと観察してイエス様には何の罪もないことがわかったはずなのです。

 過越しの祭りでほふられる子羊に何一つ傷があってはならないのは、救い主なるイエス・キリストに何一つ罪がなかったからです。にもかかわらず、十字架にかけられて死ななければならなかったことを、この子羊は表しているのです。

 イスラエル人たちは、14日から15日に変わろうとしている日没のときに子羊をほふり、その血を取り、家々の二本の門柱と鴨居にその血を塗りました。その夜は満月の夜でした。この満月の夜に、主の裁きがすべてのエジプト人に下って、彼らの長子から家畜の初子までもがすべて死にました。しかし、家の二本の門柱と鴨居に子羊の血が塗られていたイスラエル人の家々では、彼らの長子も家畜の初子も無事だったのです。その血の塗られていたところは神の裁きが通り過ぎて行ったからです。過越しの祭りがヘブル語で「ペサハ」、英語で「Passover」、意味は「通り過ぎる」です。子羊の血が塗られていた家々はその血がしるしとなって、神の裁きが通り過ぎて行きました。

 この出来事は、イエス・キリストの十字架の死を象徴しています。何一つ罪のないイエス・キリストが私の罪のために代わって十字架で死んでくださいました。その流された血潮が私の罪のためであったことを認め、イエス様を救い主として信じ受け入れる者は、神の裁きが通り過ぎて行くのです。神様は何を見て私たちを裁かないで通り過ぎて行くのでしょうか。私たちの体一面に血を塗らなければならないのでしょうか。そんなことをしたら大変なことになります。それでは、私たちのためのしるしは何なのでしょうか。それは聖霊です。イエス・キリストを信じる者たちの内には聖霊が与えられています。その聖霊が救いのしるしであり、保証なのです。新約聖書、エペソ人への手紙1章に、はっきりとそう書いてあります。

■イエス様は十字架にかかって死んで三日目によみがえりました。そのことも旧約聖書に象徴的に書かれてあります。レビ記23章の初めのところには、過越しの祭りのことが書かれています。それに続いて10節~11節に、「あなたがたがわたしが与えようとしている地に入り、収穫を刈り入れたなら、収穫の初穂の束を祭司のところに持っていきなさい。その束は主の前で揺り動かす。あなたがたが受け入れるためである。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。」

 聖書を読んでいて、「初穂」ということばを見かけたことがあるかと思います。旧約聖書にも、新約聖書にも「初穂」ということばを見つけることができます。レビ記23:10~11にも「初穂」ということばがありました。「初穂」とは、その年、最初に実った稲や麦の穂です。また、すべての穀物や野菜や果物の最初の収穫のことでもあります。聖書では、「初穂」は、神様にとって特別な物として扱われています。それらは聖別されていて、神様にささげられるべきものなのです。

 約束の地、カナンに入ったイスラエル人の最初の収穫は大麦でした。レビ記23章の初穂は、大麦の初穂です。この初穂を安息日の翌日、つまり、日曜日に大麦の初穂の束を祭司のところに持って行かなければなりませんでした。そして、この日曜日は過越しの祭りの時の日曜日です。その日曜日に大麦の初穂の束を祭司のところに持って行くのです。祭司はその初穂を主の前に揺り動かします。まるで、生きているかのように揺り動かすのです。Ⅰコリント15:20を見てみましょう。そこには、イエス・キリストが死んでよみがえられる者たちの初穂であることが言われています。

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」

 イエス・キリストを救い主として信じる者は、復活したイエス・キリストの後に続いて、将来、必ず復活するのです。イエス・キリストが復活の初穂であり、イエス・キリストを信じる者たちはそれに続いて、将来必ず復活するのです。

 過越しの祭りの日曜日に祭司が揺り動かした大麦の初穂は、日曜日に復活したイエス・キリストを表すものであることを覚えておいていただきたいと思います。

■イエス様と弟子たちが過越しの食事を持った時の様子がマタイ26章に書かれています。過越しの祭りは1日だけで、その後に、種なしパンの祭りが7日間続きます。けれども、おもしろいことに、マタイ26章では、先に種なしパンの祭りが始まっています。そしてこの日に、イエス様と弟子たちは過越しの祭りの食事を食べていたのです。後でまた説明しますが、ユダヤ人たちはこの日、過越しの食事を取っていないのです。この時は、アビフの月の14日目で、日没とともに木曜日が終わり、そして、金曜日が始まろうとしていた時です。ヨハネ13章にあるように、イエス様は過越しの食事を食べる前に、たらいに水を入れて弟子たちの足を洗い、手拭いで弟子たちの足を拭いてあげていました。過越しの食事を食べたのはその後のことです。イエス様は、このところで私たちが主の晩餐式で行なっていることを行ないました。それから、イエス様と弟子たちは部屋から出て、祈るためにゲッセマネの園へと行ったのです。結果、ついにそこで、イエス様は捕らえられてしまうのです。

 アビフの月の15日、金曜日の午前9時、イエス様はゴルゴタの丘で十字架につけられました。それから6時間後、午後3時、イエス様は息を引き取られました。

■ヨハネ18:28「さて、彼らはイエスをカヤパのもとから総督官邸に連れて行った。明け方の事であった。彼らは、過越しの食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中に入らなかった。」

 これは金曜日の明け方のころのことです。ユダヤ人たちはイエス様をピラトの住む総督官邸に連れて行きました。しかし、彼らはけっして総督官邸の中には入りませんでした。なぜなら、ピラトは異邦人であって、ピラトの官邸はパン種に満ちていたからです。この時ユダヤ人は種なしパンの祭りの中にありました。パン種のある所に行くと身が汚れてしまうので過越しの食事が食べられなくなってしまうのです。この時の過越しの祭りは、安息日(土曜日)と重なっていたのでしょう。金曜日にほふられた子羊は、日没後、安息日(土曜日)の始まりと共に、美味しくいただけるように準備されていたのです。過越しの食事の子羊がほふられた金曜日に、イエス様も同じ日にほふられました。世の罪を取り除く真の神の子羊として、死んだのです。

■安息日は何事もなく静かに過ぎてゆきました。日没とともに日付は変わり、17日(日曜日)となりました。月はほぼ満月です。そして、夜明け頃、イエス様は復活しました。ちょうどこの日、ユダヤの人々は大麦の初穂を祭司のところに持って行き、祭司は聖所でその大麦の初穂の束を手に持って揺らしたはずです。それが何を意味するのかを知らぬまま、ただ伝えられてきたとおりに、大麦の初穂の束を手に持って揺らしたのです。祭司によって揺り動かされた大麦の初穂、この奇妙とも言えるユダヤ人の習慣こそが、イエス・キリストの復活を表しているものであることを覚えてほしいと思います。

 今日お話しした過越しの祭りや初穂の祭りは、旧約時代からユダヤ人に伝えられてきたことです。それらの中に表されていた神様の救いの計画が、イエス・キリストをとおして成就しました。

■今日のメッセージタイトルにあるように、旧約聖書はキリストを証しするものです。私たちが聖書の見方をイエス様から学ぶならば、旧約聖書がキリストを証しするものであることがわかるはずです。私たちは、4つの福音書からその見方を学ぶことができますし、ほかにも、パウロやペテロの手紙からも、また、へブル書からも学ぶことができます。これによって、私たちはかなり興味深く旧約聖書を読むことができるようになると思います。

 これは、ある意味へブル的な見方と言えます。初代教会においてはこのような見方が普通だったのでしょうけれども、ローマカトリックの時代になると誰もそのような見方をしなくなりました。しかし、現在、この見方は世界中に取り戻されつつあります。真理はさらに多くの人々に明らかにされていくでしょう。それはとてもす素晴らしいことです。旧約聖書はキリストを証しするものであり、新約聖書はそれが実現したことを証しするものです。それではお祈りします。