従順は神の祝福をもたらす①

2023年3月26日主日礼拝「従順は神の祝福をもたらす①」エペソ6:1~9佐々木俊一牧師

■エペソ5章の後半では、夫と妻の関係についてお話ししました。人間関係の祝福は、夫と妻の関係から始まると言ってもよいかもしれません。聖書の中で、夫と妻の関係がキリストと教会の関係に比べられるように、それはとても重要で基本となる関係です。そこに根差す程度によって神様の祝福は私たちの人間関係に反映されるのだと思います。キリストが教会を愛し、その応答として教会がキリストに従うように、夫が妻を愛し、その応答として妻が夫に従う、そのような環境の中で子どもたちが育つならば、子どもたちの内には愛と従順が受け継がれていくのだと思います。常に夫が愛する方で、妻が従う方でなくても構いません。とにかく、夫と妻の間に愛と従順の模範があるのならば、子どもたちはそれを吸収し、それをベースにして生きていくことでしょう。聖書のことばに従うことは、本当に知恵ある者がする選択です。

 けれども、人間の自我は聖書の言うことをなかなか受け入れません。私自身、私の自我が今までどれほど多くの神様から受けることのできた祝福を踏みつぶし、受けそこなって来た事でしょうか。神様にもっと聞き従える自分であったなら、もっと神様の祝福を味わうことができたのに、と思います。

 しかし、そうだとしても、神様は赦しの神様であり、恵みの神様です。それゆえ私たちには、限りなく神様に聞き従うことを選択するチャンスがいつでもあるのです。まず、私たちは自我があって神様に従うことが難しい者であることを認めなければなりません。私たちは神様に従うことにおいて失敗します。時にはそれを繰り返します。それでも、神様の恵みによって、何度でも神様に立ち返る選択が出来るのです。たとえ失敗したとしても、再度神様に従う決心をすることが、私たちにできるベストの選択だと思います。私たちが再び神様に従って従順へと舵を切り替えるなら、その先には必ず神様の祝福が待っているのです。それでは、今日の聖書箇所を見ていきましょう。

■1節~3節 「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。」

 夫と妻の関係の次に来るのが、子どもと親との関係です。例外はあるかと思いますが、だいたい、夫と妻の関係が良ければ、子どもと親との関係も良いものです。これを聞くと、とても耳が痛いです。ですが、完璧に良い関係などは実際にはありえません。なぜならば、人はみな罪人だからです。誰でも必ず欠点や落ち度はあります。

 子どもたちは鋭い観察力でいつも大人を見ています。大人のやってしまう矛盾によく気が付きます。子どもがだんだん大きくなってくると、大人の言っていることと行っていることの間に矛盾を発見します。そして、とても厳しい評価をくだします。子どもたちにとって重要なのは、大人の言葉以上に大人の行動です。子どもたちは行動を伴わない大人の言葉を見分けます。どんなに素晴らしい聖書のことばを子どもたちに教えたとしても、大人がその聖書のことばに従っていないならば、子どもたちは聖書のことばを軽く扱うようになるでしょう。ですから、神様は子どもたちに言うのです。「主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。」と。人間は所詮不完全な者です。神様は、そのことを心得た上で子どもたちに言うのです。親が良くても悪くても、神様は、主にあって親への従順な心を子どもたちに勧めています。なぜならば、それは祝福の約束を伴うことだからです。3節に、「『そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く』という約束です。」とあります。親への従順な心は、子どもたちに神様の祝福をもたらすのです。それに対して、不従順や反抗心は、神様の祝福をもたらしません。

 しかしながら、たとえ親の言うことであったとしても、明確に神様のみこころではないということがわかっているならば、それについては従うべきではありません。「主にあって」とは、親の言うことが主のみこころならば、あるいは、正しいことであるならば、ということでもあります。

 また、親の言うことが正しいとわかっていても、命令口調の親の言うことに従うのは嫌だという場合があります。そのような時にも、主にあって親に従うことを選択した方がよいでしょう。そうするならば、そのことをとおして私たちは祝福されます。

 また、主のみこころでないので親の言うことに従わないということもあるでしょう。その場合は、従わないとしても親へのリスペクトは忘れないようにしたいと思います。それによって、親も子どもも祝福されます。子どもには主にあって、親の上を行く選択をしてほしいものです。

■4節 「父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。」

 女性の地位が認められていなかった時代においては、父は家庭における絶対的な権威者でした。現代においてはそうではありません。女性も男性と同じように権威者としての役割を社会の中で担っています。家庭においても、女性は母親として子どもたちに対して権威者としての役割を担っています。ですから、4節は、父親に対してだけではなく、母親に対しても、また、子どもたちに対して権威を用いるすべての者に対して語られていることばであると言ってよいでしょう。

 ここでは、子どもたちを怒らせないように、と勧めています。どうでしょうか。私たち親は子どもたちを怒らせることなく育てることができたでしょうか。私は、この点において、「いいえ」と言うしかありません。子どもを怒らせてしまったことがあったからです。ただ、言い訳になるかもしれませんが、怒りが習慣になるほどまで怒らせなくて良かった、と思いますし、また、信頼関係が壊れるほどに怒らせなくて良かった、と思います。

 私たちは子どもを育てる時に、子どもたちの内面にどんな気持ちが支配的になっているのかに注意することが必要だと思います。子どもたちの内面は習慣的なものです。いつも怒りが内面を支配しているならば、その子は一生怒りの気持ちに苦しむことになるかもしれません。また、いつも恐れが内面を支配しているならば、その子は一生恐れに苦しむことになるかもしれません。怒りや恐れの気持ちが長い間、子どもの内面にあり続けるならば、そのうちに怒りや恐れの気持ちは習慣化されてしまいます。そして、怒る原因がないにもかかわらず怒りっぽくなってしまったり、恐れるほどの事でないにもかかわらず、すぐにスィッチが入って恐れたりしてしまいます。ですから、子どもを怒らせることはあったとしても、怒り続ける環境を作らないように気をつけなければなりません。子どもたちの心の内に否定的な感情や思索ではなくて、肯定的な感情や思索が支配するように、祈りをもって努めていきたいと思います。

■4節の後半に、「主の教育と訓戒によって育てなさい。」とあります。みなさん、どうでしょうか。主の教育、主の訓戒と聞くとどのようなイメージを持つでしょうか。まず、イメージとしては、厳しいイメージではないでしょうか。なぜ、そのような厳しいイメージを持つのかというと、やはり、それは旧約聖書から来ていると思います。旧約聖書を読むと、強く印象に残るのは、罪に対する裁きとか、細々と定められた厳しい掟です。しかし、旧約聖書の役割は、罪の現実を示し、罪の裁きから人々を救うための救いの道を示すことです。その救いの道とは、イエス・キリストです。イエス・キリストが救い主であり、その救い主へと導くことが旧約聖書の役割なのです。 

一見旧約聖書は神の聖さと厳しい裁きに満ちていますが、旧約聖書の役割は、けっして、人を裁くことではありません。罪を示し、そして、救いの道を示すことなのです。注意深く読むと、旧約聖書の中には神様の愛、恵み、祝福、守り、情け深さや慈しみ深さを発見することができます。また、私たちが人として豊かに生きるために大切な知恵や知識を与えてくれます。それらは、子どもたちのための良き教育と訓戒となるでしょう。

 私たちはこれらの良き教育と訓戒を与えることのできる旧約聖書の教えや人物や出来事を子どもたちのために上手に用いなければなりません。主の訓戒によって、して良いことと悪いこと、善悪について子どもたちにきちんと教えなければなりません。そこで大切なことは、主の教育によって、と言うことです。どちらかと言うと、神様は厳しいお方と言う印象がありますが、けっしてそうではありません。私たちは正しい神観を持たなければいけません。一番よいのが、イエス様をとおして神様がどのようなお方かを知ることです。イエス様は子どもたちに対してどのような態度をとったでしょうか。子どもたちがイエス様に近づいてきた時に、弟子たちはそれを妨げようとしました。しかし、イエス様は弟子たちを戒めて、そして、近づいて来る子どもたちを歓迎して抱いて受け入れました。イエス様はそのようなお方です。子どもたちへの配慮があり、愛がありました。子どもたちを怒らせたり、落胆させたりするような態度はまったく見受けられません。

 4節の初めに、「自分の子どもたちを怒らせてはいけません。」と書いてありました。私たちはどんな時にも子どもたちが怒り続けるような状況を作らないように気を付ける必要があります。旧約聖書にしても新約聖書にしても、神様のことばは、子どもを怒らせるようなものではありません。その逆です。子どもたちが穏やかに成長するように神のことばは働かれます。ただ、神のことばを用いる私たちの態度や姿勢に問題があるならば、子どもたちの内に怒りや反抗心を生じさせてしまうことがあるのかもしれません。その点を私たちはイエス様から学び、子どもを育てていきたいと思います。

■聖書のことばは私たちにとって霊の糧です。その霊の糧を食べた後は、正しく消化される必要があります。正しく消化されるために、私たちはそれを実行へと進めていかなければなりません。つまり、聖書のことばに従うのです。それを重ねていくならば、私たちは少しずつ少しずつ、キリストに似た者と成長していくことでしょう。

 けれども、私たちの信仰の歩みはいつも順調なわけではありません。時には、神様のことばに従うことが難しく感じることがあります。従うことによって受ける祝福はわかるのですが、どうしても従えないことがあります。それは、誰もが体験することだと思います。私たちには自我があり罪があります。ですから、そういうことがあっても不思議ではありません。ありのままを認めたいと思います。それによって神様の愛が私たちから離れていくことはありません。かえって、このような難しさを感じたことのある私たちだからこそ、子どもたちの気持ちをよくわかってあげることができるのではないでしょうか。私たちは自分にできないことを子どもたちに求めないようにしたいと思います。子どもたちもまた、従うことが良いことであるとわかっていながら従うことができないこともあります。子どもたちに聖書のことばを強いることは、かえって、子どもたちに反発の思いを与えることになりえます。そのような時は、ただ、祈って神様にゆだね、信じて待つことがベストだと思います。

■従順という心の態度が神様の祝福をもたらすことは確かなことです。今回のWBCをとおして、大谷翔平選手の言葉と態度に大変感銘を受けました。彼は若いながらも、とても謙虚で従順な人です。彼は、親や指導者や先輩に対し、また、弱者に対してでさえ、リスペクトを表す人です。彼はクリスチャンではありませんが、それらのことをとおして神様は彼をきっと祝福されるでしょう。将来、彼が福音に対しても従順な者となることを祈りたいと思います。

 私たちにとっての最善の教育と訓戒は、イエス・キリストであり、そのことばです。イエス・キリストは、私たちにとって最高の模範です。私たちは子どもを育てるための知恵をイエス・キリストのことばとその生き方から学ぶことができるはずです。イエス様だったら子どもに対して何を語り、どのように導くのかを祈り求めつつ学んでいきたいと思います。親と子どもたちとの良い関係作りのために祈りましょう。子どもたちの内に従順な心が形造られ、神様の祝福をいっぱい受けるように祈りましょう。それではお祈りします。