妻は夫に従え!にある落とし穴

2023年2月26日主日礼拝

「妻は夫に従え!にある落とし穴」エペソ5:21~33佐々木俊一牧師

■この箇所をお話しすることは、10年前や20年前だったらそんなに難しいと感じなかったように思います。文字通りの事を語るならば、聞く人の多くは受け入れてくれたように思います。でも、2023年、今の社会の認識は、その頃と比べるとかなり変化してきています。以前は良いこととしてとらえられていた聖書の価値基準が、今は必ずしもそうでないことがあります。その変化を容易に受け入れるクリスチャンもいれば、その変化を受け入れがたいと感じるクリスチャンもいます。イエス・キリストを救い主として信じているからと言って、すべてのクリスチャンが同じ受け止め方をするわけではありません。また、中には、どちらがよいのかわからないと言うクリスチャンもいるかと思います。その場合は、無理やり答えを出さずに、どうしたらよいのかわかりません、と率直に神様に言えばよいのです。そして、祈りましょう。祈りつつ、神様のみこころを求めましょう。そのプロセスの中で、神様のみこころを受け取っていきたいと思います。時間のかかることかもしれませんが、神様のみこころをもっと深く知る良い機会になると思います。今日のメッセージ箇所も、同じクリスチャンとは言え、それぞれの受け止め方があるのだと思います。今日のお話を通して、この種のトピックを考える良い機会となり、また、参考にして頂ければよいかと思います。それでは、今日の箇所を見ていきましょう。

■22節 「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」

 このところを読んで、女性の方々、また、妻の方々はどう思われるでしょうか。「救い主なるイエス様に従うように、自分の夫に従いなさい。」

 どんな夫かによりますよね。イエス様のような夫であれば、従うことは簡単でしょう。けれども、実際はそうでないことが多いのではないでしょうか。残念ながら、イエス様のような男性、あるいは、夫はこの世には一人もいません。それが現実です。

 ところで、「主に従うように」が、「奴隷のように」だったらどうでしょうか。「妻たちよ。奴隷のように夫に従いなさい。」こうなると、女性の人権がまったく認められていないことになります。ある宗教では女性の人権が認められていません。女性は、ただ男性に仕えるためにある奴隷のような存在なのです。「主に従うように、自分の夫に従いなさい。」の方がずっと、ましだと思いませんか。

「主に従うように、自分の夫に従いなさい。」というこのことばは、男性にとっては有利なことばですが、女性にとっては不利なことばです。そんなだったら結婚しない方がましです、と言われる方がいるかもしれません。でも、このことばは、実を言うと、女性よりも男性の方がもっと多く、もっと大きく要求されているのです。なぜならば、このことばによって、夫は妻に対して、主と同じようにふるまうことが要求されているからです。

■25節「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。」

 キリストが信者のためにご自分のいのちを献げたのと同じように、自分の妻のためにいのちを献げるほどに妻を愛するようにと言っているのです。「主に従うように、自分の夫に従いなさい。」ということばは、これを前提に語られていることばなのです。しかし、そこまで考えている男性はたぶんいないでしょう。夫は、自分の妻のためにいのちを献げるほどに愛して初めて、「俺に従え!」と言えるのです。「妻は夫に従え!」と言う男性は、妻のために自分のいのちを献げるほどに愛するということを、主の前に果たさなければならないのです。そうでなければ、それを言う資格はありません。そういうことで、「主に従うように、自分の夫に従いなさい。」というこのことばは、夫にとって、不利に働く落とし穴のようであるわけです。これが今日のメッセージのタイトルである理由です。

■28節「同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。」

 自分自身を愛するということはとても大切なことです。自分自身を愛するということは、自分のありのままを受け入れることでもあります。私たちは思春期を迎えると、ありのままの自分を受け入れることが難しく感じることがあります。自分の顔や姿、自分の能力や性格などが気になり始めます。顔や姿がもっとカッコよかったらよかったのにとか、もっと能力や才能があったらよかったのにとか、急に自分への関心が目覚めて、そうでない自分を見て自分はダメだと思うのです。本当の自分と理想の自分があまりにもかけ離れているので、ありのままの自分を受け入れることができません。

 アダムとエバが罪を犯したとき、自分たちが裸であることに気づいて恥ずかしいと思うようになりました。それまでは、裸でいても全然恥ずかしいとは思わなかった二人です。なのに、罪を犯した結果、恥ずかしいと思うようになったのです。人に罪が入る前後で何かが変わったのでしょう。それは、罪を犯した後、注意や関心が自分に向くようになったことです。自分が見られているような気がして、自分の事が気になり始めました。思春期を迎えると、周囲の目が気になり始めます。そして、今まで気にならなかったことが気になるようになります。自分が人にどう思われているのか、とても気になるようになります。人から言われることに敏感になり、時には傷つきます。本当の自分を知られることに危機感を覚え、ありのままの自分を出さないようになります。しかし、そのような状態が続くことは、大きなストレスであり、孤独感を感じさせるものです。

 私自身も似たようなことを経験しました。そんな中で、自分にとって大きな変革をもたらしてくれたのが、やはり、キリストとの出会いです。私は自分に自信のない人間でした。にもかかわらず、人にはそんな弱さを気づかれないように、一生懸命繕っていました。それでも、時には、そんな弱さを見破る人がいて、はっきりとその弱さを指摘してくることがありました。そんな人には、私は二度と近づきませんでした。弱い自分を受け入れることが出来ず、また、弱さを見破って指摘する人を受け入れることが出来ませんでした。ありのままの自分を受け入れることは、私にとって非常に難しい事だったのです。

 しかし、キリストに出会ってから、少しずつ変わり始めました。なぜならば、神様は私の弱さを知りつつも、ありのままを愛してくれているからです。人が何と言おうとも、神様の愛は変わることがありません。たとえ、自分の弱さゆえに人が私を見放したとしても、神様は私を見放すことはないという自信があり、それは、私に安心感を与えてくれました。ですから、私が私自身に言い聞かせたことは、人の見方や人のことばを恐れる必要はない、自分が人にどう思われているかは小さなことであって、自分が神様にどう思われているかということが私にとって重要なことだ、ということです。

 私たちは神様によって受け入れられ、愛されています。だからこそ、私たちはありのままの自分を受け入れ、愛することが出来るのです。そして、それは、人をも受け入れ、愛するために大きな力となります。神の赦しと愛を体験した夫は、自分を受け入れ、自分を愛するように、妻を受け入れ、妻を愛することができるのです。

■次に、イエス様の女性に対する姿勢や態度について考えてみたいと思います。何を見たらわかるでしょうか。聖書です。4つの福音書を読めば、イエス様の女性に対する姿勢や態度を見ることができます。イエス様は、私たちの模範です。イエス様のことばやふるまいから、私たちは、男性であっても女性であっても、多くの事を学ぶことが出来ます。

 イエス様は、女性だからと言って、見下したり差別したりするようなお方ではありません。イエス様がそのように女性を扱うのを4つの福音書の中に見たことがあるでしょうか。イエス様はいつも、男性に対してと同じように女性に対しても誠実に向き合っていました。イエス様ほど女性を尊重していた方は歴史の中で他にいないのではないでしょうか。イエス様の見方は、神様の見方です。人間の社会は、この神様の見方から随分ずれています。

 昔の女性は、男性に虐げられ、大きな苦しみの中、長い間耐えてきました。ほかの国々でも同じかと思います。日本では、女性の地位が長い間低かったのです。男性優位、男尊女卑、女性差別の社会がずっと続いて来ました。その傾向は今も残っています。たとえば、たまに国会中継を見ることがありますが、議員のほとんどが男性です。女性議員も徐々に増えてきてはいますが、それにしても、女性に比べて男性の数が圧倒的に多いのです。これでは、女性の考えがほとんど国政に反映されないように思います。もっと女性議員が増えた方がより健全でバランスの取れた国作りができるのではないだろうかと思います。

 また、この前テレビを見ていた時に、さだまさしさんがなつかしい歌を歌っていました。「関白宣言」と言う歌です。その歌詞は昭和の時代は良かったのかもしれません。けれども、今聞くと、悪気はないのですが、少々違和感があるように思います。

■「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」とは、上下関係や主従関係を表しているものではありません。上下関係や主従関係は、人が罪を犯した後に始まった関係であると思います。つまり、罪を犯す前は、男と女の関係は、そのような関係ではなかったということです。

創世記3章を見てみましょう。アダムとエバの二人が罪を犯して後、神様が男と女に言われたことばが書かれています。神様は女に言われました。「わたしは、あなたの苦しみとうめきを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。また、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。」

 女の苦しみは子を産むことだけではありません。男との関係においても苦しみがあることが予告されているのです。男は女に対して、夫は妻に対して、支配的になると言うのです。それは、神様がそうしたくてそうなるのではありません。また、罰として神様が与えることでもありません。罪の性質が世に入った結果、必然的にもたらされた関係なのです。こうして、男と女の関係は罪によって大きく変わってしまい、男は女を支配するようになったのです。しかしながら、これは、神様が本来考えていた男と女の関係ではないことを私たちは知る必要があります。

■エペソ5:31~32「『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。」

 パウロが夫と妻の関係をとおして言いたかったことは、このことなのです。夫と妻の関係を通して、キリストと教会、つまり、キリストの犠牲によって救われた人々との関係を明確に表すことなのです。これが今日のポイントです。キリストと教会の愛の関係は、旧約聖書においても新約聖書においても、夫と妻の愛の関係で表されているのです。

■ガラテヤ3:26~28「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」

 マタイ22:29~30「イエスは彼らに答えられた。『あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天のみ使いたちのようです。』」

 この地上にはこの地上の秩序やきまりがあり、天には天の秩序ときまりがあります。復活のからだをいただき、私たちが天の御国に住むようになった時には、男も女もありません。天のみ使いのようだ、と言っています。そして、そこには神様が治める世界があるだけで、もはや、人による支配も、上下関係や主従関係もないのです。

 エペソ5:21に、「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。」とあります。これは、人間のすべての関係において言われていることばです。男性と女性、夫と妻も含みます。人間のすべての関係においてです。ですから、夫と妻は、基本的に、キリストを恐れて、互いに従い合う関係が導かれているのです。その中で、夫が妻を自分と同じように愛し、妻が夫を敬うその形の中に、キリストと教会の愛の関係が表されているのです。それでは、お祈りします。