一ミナを使おう!

2023年2月12日主日礼拝「一ミナを使おう!」ルカ19: 11~23佐々木俊一牧師      

■11節 「人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。」

  人々には思い込みがありました。イエス様がエルサレムに近づいておられたので、まもなく神の国が現われて、ローマ軍を撃退し、ローマ帝国からイスラエルを解放してくれると期待していました。しかし、神の思いは人々の思いとは異なるものでした。そこで、イエス様は一つのたとえを話されました。

■12節  「それで、イエスはこう言われた。『ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。』

  ローマ帝国には多くの属国があり、それぞれにローマ帝国によって認められた王がいました。彼らは王位を受けるためにカエザルのもとに行かなければなりませんでした。そのようなことは、当時、誰もが知っていることだったでしょう。

  ある身分の高い人とは、救い主イエス・キリストであり、遠い国とは、天のみ国(神の国)です。イエス様は天のみ国に行き、王位を受け、そして、再びこの地上に戻って来られることを言っているのです。

■13節 「彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』」

似たようなたとえ話がマタイ25章にもあります。こちらの単位はタラントであり、ローマ帝国の貨幣単位です。ルカ19章では、単位はミナであり、当時のパレスチナの貨幣単位です。1ミナは100日分の給与です。

  ある身分の高い人は遠い国に行く前に、10人のしもべたちに、それぞれ1ミナずつ与え、留守の間、それを使って商売をするように言いつけます。しもべとは、弟子、あるいは、クリスチャンと考えてよいでしょう。

■14節 「しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王になってもらいたくありません。』と言った。」

しもべが弟子やクリスチャンのことであるなら、国民たちとは、パリサイ人や律法学者などの宗教家を初め、イエス様に敵対する人々と考えてよいでしょう。

■15節 「さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。」

お金を与えておいたしもべたちが、どんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出したとあります。お金とは何を意味し、また、商売とは何を意味するのでしょう。

<救いと報い>

  このところで、はっきりしておかなければいけないことがあります。それは、「救い」は「報い」ではないということです。「救い」は、イエス・キリストを信じたことに対する報いであると言えるのですが、本来、「報い」とは、何らかの働きに対する報酬なのですから、ただ信じるだけで与えられるものは報いではなく、まったくただで与えられる「恵み」と言った方がよいでしょう。「救い」は、イエス・キリストを信じる信仰によって受けることのできる「恵み」なのです。このことについてのたとえ話が、マタイ20章にありますので、あとでお読みください。

  一方、「報い」は、働きに対する報酬です。ですから、働きに応じて報いは異なるのです。それに対し、「救い」は、「報い」ではなく「恵み」ですから、働きにかかわらずみな同じものを受けるのです。報いの対象となる働きとはどういうものでしょう。ある人々は、福音を宣べ伝えることだと言います。また、ある人々は、どれだけ多くの人々を救いへと導いたかだと言います。また、ある人々は、どれだけ多くのお金や労力や能力や時間などを神様の働きのために用いたかだと言います。しかし、神の働きとは、単に福音宣教と、また、そのためにお金や賜物を用いることだけなのでしょうか。マタイ23:23や25:34~40を読むと、それだけではないように思われます。新約聖書において、福音を宣べ伝えることは非常に重要なことではありますが、神の働きのすべてではありません。クリスチャンとしてどのように生きるかが問われているのです。 どんなに熱心に伝道したとしても、どんなに多くの人々を救いに導いたとしても、どんなに多くの献金をささげたとしても、主にある兄弟姉妹が互いに愛し合うこと、互いに赦し合うこと、互いに思いやることを軽視しているのならば、忠実なしもべとは言えません。神の働きにおいては、福音を宣べ伝えることも、そのために、お金や時間をささげることも大切ですが、正義やあわれみや誠実さもともにあることが求められているのです。

  さらに、報いについて、とてもおもしろい記事があります。マタイ10:41~42を見てみましょう。「預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。まことに、あなた方に言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、けっして報いを失うことがありません。」預言者を預言者として受け入れるとは、その人を預言者と認めて何らかの形で助けたり協力したりすることだと思います。そうすることによって、直接的には預言者としての働きをしていないのに、その預言者が受ける報いを共有すると言うことです。つまり、その報いは預言者のものだけではなく、協力した人々のものでもあるということです。また、イエスの弟子だと言うので1杯の水を与えるのなら、その人は弟子の受ける報いを受けるのです。ということは、このようにも考えることはできないでしょうか。教会では、牧師 、宣教師、伝道師が中心になって働いていますが、その報いは、牧師や宣教師や伝道師だけが受けるのではなく、協力したすべてのクリスチャンが共に受けるものだということです。

「報い」について、他にもたくさんの記事があります。それらを探し出して、「報い」について総合的に考えてみるのもおもしろいと思います。

■16節~19節 「さて、最初の者が現われて言った。『ご主人様。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』二番目の者が来て言った。『ご主人様。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』」

  1番目と2番目のしもべは、与えられた1ミナを使って忠実に商売をしました。彼らは、主人によくやったと褒められました。彼らの報告に注目しましょう。ある英語の聖書では、「あなたの1ミナが10ミナもうけました。」「あなたの1ミナが5ミナもうけました。」になっています。このところで、私たちは2つのことを学ぶことができます。

①与えられたものが、神様の物であるという認識: 神様が私たちに与えているものについては、私たちがその管理を任されています。ですから、私たちの自由意志をもって判断し、使うことが許されているのです。しかし、これらの物が、私たちの物ではなくて、一時的に神様から預かっているものであるという認識が必要です。そのように認識することによって、私たちは、与えられているすべてのものを、感謝し、大切にし、積極的に、肯定的に、責任をもって用いることができます。私たちが受けているすべてが、神様から受けた1ミナであるという認識を持ちたいと思います。

②自分がもうけるのではなく、神様がもうけてくださる: 「あなたの1ミナが10ミナもうけた」のであれば、自分がもうけたのではなく、神様の1ミナがもうけてくれたのです。私たちの責任は、ただ、1ミナを用いることです。つまり、私たちに与えられている能力、時間、お金、御霊の賜物、御霊の実などを、神様のために用いるとき、その結果は神様が出してくださるのです。ですから、私たちの責任は、結果ではなくて、神様のために1ミナを用いたかどうかなのです。

■20節~27節 「もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものを取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたを裁こう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』」

  3番目のしもべは主人に叱られています。彼は何を表しているのでしょう。彼はクリスチャンでしょうか、それとも、クリスチャンではないのでしょうか。彼は裁かれるのでしょうか。それとも、救いは受けるけれども、報いは受けないクリスチャンなのでしょうか。たぶん、3番目のしもべはイエス様に敵対するパリサイ人や律法学者の事ではないと思われます。はっきりしたことは言えませんが、私たちは、3番目のしもべのようではなく、1番目か2番目のしもべのようでありたいと思います。

  ところで、3番目のしもべの問題は何を表しているのでしょうか。

①神様への不信、あるいは疑い: 彼は与えられているものが少なくて不満に思っているのです。こんなに少ないお金では何もできるはずがないと思っているのです。どんなに少ないと感じても、神様は必要な分を私たちに与えてくださっていることを信じたいと思います。そして、与えられているものを、ただ、忠実に用いて行きましょう。

②歪んだ神観: 神様がどのような方かを正しくとらえていなかったのです。そのため、神様との間に親しい関係がありません。彼の不信仰は、神観が誤っているからです。結局のところ、3番目のしもべは、間違った神観から出た自分のことばによって裁かれました。私たちは神様をどのようなお方であるととらえているでしょうか。自分と神様との関係はどのようなものでしょうか。

  天のみ国の価値観は、目に見える結果だけによって量られるのではないということを覚えておいていただきたいと思います。人には認められなくても、神様の目には尊くて、十分に認められている場合があるのです。たとえ、この地上でその報いを受け取ることができなくても、天において神様がその報いをちゃんと用意してくださっています。ですから、私たちのやるべきことは、私たちに与えられている分を神様の働きのために喜んで与えることです。私たちは自分が思っている以上に、与えられているものがたくさんあります。その与えられているものをいろいろな形で神様の働きのために用いることができるのです。結果は神様のなされる領域です。私たちは、結果は神様にゆだねて、神様が与えてくださっている1ミナを忠実に用いて行きましょう。それではお祈りします。