みことばと内なる解放

2023年2月5日主日礼拝「みことばと内なる解放」メッセンジャー:佐々木俊子姉

 

テーマ「みことばと内なる解放」/中心聖書箇所:「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブの手紙1:17-22)

 

■はじめに(取り扱い説明書)

 秋に実家に帰った際に、家の中の片付けと同じく、家の庭の片付けをしなくてはなりませんでした。庭が結構広くて。木がどんどんと伸びて来ます。この前、春に行ったときに切った木の枝が随分たくさん置いてありました。おまけに、夏に業者の方にお願いして切った木も庭の奥の方に放りっぱなしになっていました。家の中の片付けがほぼ終わる頃に庭に取り掛かりました。でも、軽トラもないので、運んで捨てるには木の枝を50センチ程度に切り揃えて、燃やせるごみの袋に入れなければなりません。のこぎりで切るにはとてもじゃないけどできるような量ではなかったのです。

 しかし今回、弟がアマゾンで買ったチェンソーが押し入れに入っていました。でも弟はこの時家におらず、兄は体が不自由なので使えません。私が使うしかありませんでした。しかし私は一度も使ったことがありませんし、こんな瘦せこけたおばあさんがチェンソーなんて使えるのでしょうか?とても自信がありませんでした。だけど、お隣の奥さんは70代後半なのですが若いときから使っておられるので、使いこなせます。5,6才下の友だちもつい最近チェンソーを買って、旦那さんと二人で木を切ったと話してくれました。

 何とかなるだろうかと、取り扱い説明書を読みました。本当に初めて触る物なので、油が必要なことも知りませんでした。なにせ手ほどきしてくれる人もいないので、切る木をぐるぐる回るチェーンのどの部分に当てればよいのか、力はどのように加えればよいのか、などなど本当にわかりません。ゼロからの出発でした。それで、最初は本当にこわごわ動かしてみたのです。ですが、使えました!!取扱説明書通りに使ったら切れました!!取説ってすごいです。その通りにやればできるのです。立木はまだまだ無理ですが、家の庭に置いてあった枝などほとんど切ることができました。慣れてきたときには、3,4,5本とまとめて切ることもできました。ばんばんやっつけて行ったのです。

 私は外仕事が好きなので、一日外にいて、草刈りや木を切る仕事をしていても飽きません。ですが、こんなに体力のない自分にここまでの仕事ができるのは、なんでなのかな~と思うのです。主が共にいて働いていてくださるからだな~とつくづく思いました。

 少し話が変わります。12月の初めころ、主人が鉢植えの花を3つ買ってきました。きれいでいいなと思ったのですが、今まで鉢植えの花を上手に育てられたことがありません。買ってきたその時が一番きれいという経験しかありませんでした。唯一育てられるのは、多肉植物。または雑草のように強い物。それで、植物の世話を主人に頼みました。でもその結果、3つともしおれてきました。こういうときにいつも頼りになるのがスマホ先生です。ひとつの鉢だけは名前が分からないので調べられませんでしたが、ポインセチアとシクラメンは書いてある通りに温度、水のやり方、日光の当て方など管理すると、見事によみがえりました。特にシクラメンはこんなに可憐な花が咲くなんて…と驚きました。

■みことばから

 チェンソーも植物も取り扱い次第で何とかなると私は確信しました。厄介なのは人間の取り扱いですよね。人間の取り扱い説明書はどこにあるのでしょうか。聖書が人間の取り扱い説明書だと聞くことがありますし、確かにそれは自分も感じるところです。チェンソーは確かミヤタの製品でした。作った会社が取説を書いています。私たちの造り主は神様です。聖書は神の霊感によって書かれた物ですから、きちんとした取り扱い説明書であるはずです。

 神様との関係をどうするのかに始まり、他の人との関係をどうするのか、自分をどう扱うのか、聖書はこの疑問に答えていますよね。中でも自分をどう扱うのか、今日はここのところをお分かちしたいと思います。

 今日の聖書箇所は皆さん読まれて、「厳しいところだな。」と思われたのではないでしょうか。私も同じように感じます。でもここは反対に祝福の鍵であることが25節には書かれています。だって「みことばはあなたがたのたましいを救うことができるのです。」と書かれていますから。

 六十数年生きてきますと、日々の生活の中で何が一番大切なのかが分かって来ます。自分のことで恐縮ですが、私は心の平安が一番大切だな~と思っています。心に不安や恐れがあると、本当に生きているのが辛いですから。平安を奪ってしまうひとつのことがらに「怒り」と言うものがあります。「怒り」自体は必要な感情だと思いますし、怒ることイコール悪というわけでは決してないと思います。ただ怒り続けることに関しては「いけない。」と聖書には書いてあります。また、怒ったままでいることは悪魔に機会を与えることだとも言っています。(エペソ4:26-27)

 へブル書12:15を見ると、「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによってこれによって多くの人が汚されたりすることのないように」と書かれているのですが、これこそ怒ったままでいるときに私たちのうちにでてくる変化です。ずっと怒ったままでいると、苦い根が出てきて、そこが悪魔の足場になります。悪魔の目的は破壊ですから、その人の内や周りには破壊が起こってきます。

 では「怒り」にはどう対処しろと言われているのでしょうか?4:31「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、一切の悪意ともに、みな捨て去りなさい。」と書かれています。ヤコブの手紙1:21にも「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、」と書かれています。聖書のやり方は「捨て去る。」ということのようです。ある朝のテレビ番組で過去に「怒りを抑える方法」としてこんなことが紹介されていました。腹が立つことがあったら、紙にそのことを書いて、それから、その紙をビリビリに破いてごみ箱に捨てるというものでした。今考えると、すごーく聖書的だと思わされます。

 

■自分の証

 私は今白状しますが、自分は怒りっぽい方かもしれません。若いときよりは怒らなくなりましたが。ですから自分の感情を抑えることが大変なこともあります。主人はやさしい方の人です。でも、腹立つことも言ってきますので、時々ムカッとします。でもこの間ムカッとしたときに、自分はなんでこのむかつきを自分の中でキープしているのだろう?もう怒ることはやめようと思った瞬間、なんで怒っていたのかも忘れました。すっきりしたのです。そして最近の話ですが、久しぶりに人を妬む思いが湧いてきました。私はあまり現実に出会う人を妬むということはありません。でも、若いころ、はっきりと妬みを感じた人がいまして、それはアグネス・チャンでした。アグネスはすごい能力と人気があり、その上プライベートでも恵まれていて、子連れで海外留学までするようなことまでしていたので、何だか妬みを感じたのでしょう。アグネスに負けるもんかと思いました。もう負けていましたけど。でも今回、久しぶりに妬みをもってしまいました。そして、この妬みには正当な理由があるから仕方ないんだと理由も付けました。

 確かに私たちが怒ったり妬んだりするとき、そこには正当な理由があります。だから仕方がないんだ、これは正当な怒りなんだ、これは正当な妬みなんだと言い訳します。正当なだけに、なかなか捨てることはできません。自分の義を主張するのです。でもなんだか今回、こんな妬みはやめようという思いが来ました。それで、妬むことをやめました。そしたら妬みはどこかへ飛んで行き、すっきりしたのです。

 また近所の方のことですが、4,5年前からどうも「いやだなー!」と思うようになった方がいて、いろいろと気に障ることがあったのです。困らされました。嫌だと思うには十分正当な理由がありました。いつもこの辺(この頭の辺)にその方のことが思い浮かんでいやーな気持ちになるのです。もう何とかしないとと思うんですが、なんともできない。あるときは聖書のみことばから「もう赦しなさい。」と言われたように思いましたが、それでも実行に移せない。思い出す度に」むかーっときました。でもやっと思い腰を上げて、「赦します!」と宣言しました。そしたらその瞬間からその方がこの辺から消えました!エペソ4:32に、「お互いに親切にし、心の優しい人になり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」と書いてある通りです。素晴らしいな、と思いました。みことばを行うとこんな素晴らしい解放が来るんだと改めて思いました。「赦し」の場合は、「赦し合う。」ということが大切なのかもしれません。一方的に赦してばかりだと大変です。ずっと赦してきたのに状況がエスカレートしてしまったり、相手が悪いのに、いつになっても何の悔い改めもないような場合は、距離を置かなければならないこともあります。確かにいろいろな場合がありますが、「赦す」という基本は自分の内なる解放のために必要なことです。

 だれに言われたことばだったか忘れましたが、ある人が、「聖書のみことば、ひとつでもいいからやってごらん!そしたら変わるから。」と言ったことがあります。本当にそうですね。聖書のみことばは真理ですから。「真理はあなたを自由にする。」と書かれている通りです。

■最後に

 ごく最近、2日ぐらい前に分かったことなのですが、ここ2か月くらい、何か自分が変だ変だと思って暮らしていたのです。昨年夏に胃の具合を悪くして、一旦は良くなったものの、また12月ころから悪くなって、困っていました。肺の持病もあり、これについては日頃は忘れているのですが、冬になると寒さに負けて、倦怠感が出てきたり微熱が出たりするのです。最近はこの体調の悪さに気を捕らわれることが多くなりました。おまけに、主と過ごす時間がだんだんおざなりになって来ていました。

 以前皆さんにお分かちしたみことばで、ルカ9:24「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者はそれを救うのです。」というところがありますが、これは私にとって光輝くみことばのひとつです。大切なみことばなのです。マルコでは、「わたしのために」というところが、「わたしと福音のために」となっています。私は自分の健康のことばかりに心を注いでいたために、いのちを失う方向に向かっていたということに気づかされました。私が一番幸せを感じるときは、自分を忘れて主や周りの方たちに仕えているときだったということに改めて気づかされました。ベクトルが自分の方に向いていたということに気づかされたのです。

自分のことばかり考えているとき、自分のことばかりに気を取られているとき、やっぱり人ってどこか狂ってきてしまうのではないか。極端に考えないでください。自分や自分の家族に力を注がなければいけないときもあります。でも、原則「主と福音のために」自分の力を注ぐ生き方が私たちのいのちを救うのです。私たちは自分のことだけ考えて生きるようには造られていないのでしょう。主と主の栄光が互いの間に表されるように求めて生きるときに私たちは生き生きとした命に生かされる。み言葉は私たちのたましいを救うのです。