信仰によって新しい景色を見る!

2023年1月1日主日礼拝「信仰によって新しい景色を見る!」イザヤ43:16~21佐々木俊一牧師

■2022年ほど、時代の分岐点を感じた年はありませんでした。その理由として、一つの大きな出来事を上げることが出来ます。1945年に第二次世界大戦が終結して以来、初めて、明確な形で大国が他の独立国家を侵略し始めたからです。2022年2月24日、ロシアはウクライナに侵攻し始めました。それ以来、ロシアのウクライナへの攻撃は残虐なやり方で今なお続いています。国際連合の常任理事国という立場にありながら、その立場を利用して平然と侵略戦争を続ける有様には、もはや、人としての良識を感じることが出来ません。その上、ロシア正教のキリル総主教は、彼らの起こした戦争を聖戦と呼び、命を失う者はそれによって罪赦されるのだ、と言って動員令を後押ししているのです。呆れて何も言えません。彼らは自己欺瞞の真っただ中にあります。このような動きはロシアに限ったことではありません。日本周辺でも同様に戦争の足音は聞こえているのです。私たちは、何が起こっても不思議ではない時代に生きていることは否定できません。ウクライナの多く人々も、ロシアが本当に攻めて来るなんて思ってもみなかったことなのです。

 このような時代だからこそ、私たちは神様のみこころを見失わないように、今日もまた、聖書のことばによって養われ、導きを求めたいと思います。それでは、今日の聖書箇所を見て行きましょう。

■16節~17節 このところは、モーセによって率いられたイスラエルの民が、紅海を渡ろうとしているときのことです。エジプトから脱出したイスラエルの民は、紅海に阻まれて前に進めない状態にありました。イスラエルの民を追って、エジプトの軍隊が近くまで迫っていました。危機迫る状況の中、神様は海の激しく流れる水の中に道を造り、すべてのイスラエル人がそこを通り抜けられるように導いてくださいました。そして、追ってきたエジプトの軍隊は水の中に飲み込まれてしまったのです。イスラエルの民は神が造られた道を通って救われました。

■18節 その後、イスラエルの民は、一ヵ月もあれば余裕で約束の地カナンに着けるはずでした。それなのに、彼らの不信仰の結果、到着するまでに40年を要しました。その間、彼らは荒野をさまよい、モーセに始終不平不満を訴えました。「こんなことになるなら、エジプトにとどまって、奴隷のままでいた方がまだよかった。」とつぶやくのでした。

 ところで、私たちはどうでしょうか。「こんなことになるなら、クリスチャンにならない方がよかった。前の方がずっとよかったし、楽しかった。」そんなふうに思ったことはありませんか。正直に言いますと、私はありました。私は学生の時に教会に行き始めました。日曜日の礼拝の後、英会話クラスがありました。私はそのクラスで英語を習っていました。月謝は3000円くらいだったと思います。その後、私はイエス様を信じて、バプテスマを受けました。すると、牧師から月謝袋みたいなものを渡されました。何だろうと思って見たら、月定献金・十一献金と書かれてありました。何となく察しました。あえて、「これは何ですか」、とは聞きませんでした。信仰をもって間もない私にとって、これは越えなければならないハードルでした。何とか、できる範囲で月定献金をささげるようになりました。教会生活はとても楽しかったです。しかし、そのうちにいろいろなことがあって、「どうしようかなあ、やめようかなあ。」と思ったこともありました。今思えば、やめないで本当によかったと思います。その時はまだ、人と人との関係だけにとらわれていました。イエス・キリストの救いの価値をきちんととらえきれていませんでした。父なる神様としっかりつながっていなかったように思います。自分の心にある問題から逃げないで、聖書を読んだり、お祈りをしたりすると、神様からの手応えを感じ始めました。そのような体験を通して、少しずつではありますが、物事を信仰的にとらえて対応できるようになって行きました。

 「昔はよかった。もしも、あの時、あっちを選んでいれば、こんなことにはならなかったのに。」と後悔することがあるかもしれません。けれども、神様は、過去のことに目を留め過ぎないように、心をとらわれ過ぎないように、私たちに言っています。それはなぜか。その答えは、19節に書かれています。

■19節 「見よ。わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。」 

 神様は新しいことをする、と言っています。その新しいことが今にも起ころうとしている、と言っているのです。「あなたがたはそのことがわからないのですか。あなたがたは、それに気づかないのですか。」と問われています。

 「新しい事」とはどのようなことでしょうか。それは、荒野に道を造ることです。また、それは、荒地に川を造ることです。荒野や荒地と言えば、道も川もありそうなところではありません。もしも、そこに道や川を造ろうと思うなら、それは簡単なことではありません。多くの困難を覚悟しなければなりません。それだけ、荒野や荒地に道や川を造るのは難しいのです。このように不可能と思われるところに、道や川を造るとはどういうことでしょうか。

■イスラエルの国土のほとんどは砂漠のような乾燥地帯です。雨季はありますが、年間の降水量は多くありません。また、ヨルダン川流域の土地は泥炭地のような湿地帯でした。畑として使えない不毛の土地であり、マラリヤを媒介する蚊もたくさんいました。しかし、そのような不毛の土地が、今は道が造られ、灌漑が施され、いろいろな種類の果物や野菜が生産されています。現在、食料自給率は93パーセント以上だそうです。農業生産物だけではなく、その技術も輸出しているのです。イザヤ書を見ると、何も育たない荒れ地や砂漠だった所がいろいろな花々や木々が育つような豊かな土地に変えられるであろうことが語られているのです。それは、ある意味、現在の大変身を遂げたイスラエルの国土のことであると言えるのです。

 その事と共に、ここで神様が言おうとしていることは、このような物理的なイスラエルの国土のことだけではありません。すべての人間の精神的なこと、あるいは、霊的なことについても言っているのだと思います。精神的なこと、あるいは、霊的なことについても言っているのだと思います。人々の心は罪によって、荒れ果てた土地のようになってしまいました。人々は、ますます、神様から離れ、自分中心の刹那的な生き方へとのめりこんで行っています。そんな人々が暮らす社会は、悲惨な出来事が増し加わり、人々の苦しみや悲しみも大きくなっていくばかりです。大抵の人々は、死という結末をできる限り考えないように生きています。でも、実際はその現実に怯えているのです。そんな人々のために、神様は救いの道を造り、新しい命への道を与えてくださいました。その道は、時代を超えて、長い時間をかけて造られました。その道を造る計画については、すでにアダムの時代から語られていました。そして、そのことが具体的に動き始めたのは、アブラハムの時からです。創世記12章の初めにある約束です。神様がアブラハムに語った約束から、新しい事は始まりました。荒野には道を、荒地には川を設ける計画は進んでいったのです。

 神様はアブラハムに約束しました。「あなたの故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行くならば、あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。・・・地上のすべての民族はあなたによって祝福される。」と。この時、アブラハムは75歳、妻のサラは65歳でした。この時、二人にはまだ子供がありませんでした。ですから、きっと、彼らは、どのようにして子供が与えられるのだろうかと思ったに違いありません。アブラハムとサラは、このことについてまったく疑いがなかったわけではないと思います。彼らがこのことを知らされた時、サラはおかしくて笑ったとあります。ですから、自分たちから子供が生まれるなんていうことについては、まさかという気持ちがあったのです。しかし、彼らはそのような気持ちに負けることなく、信仰を持って神様のことばを受け取ることを選びました。そして、ついに、アブラハムが100歳、サラが90歳の時、イサクが生まれました。こうして、神の約束のほんの初めの部分が成就するのを彼らは見たのです。

 へブル書11:10によると、アブラハムは堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたようです。つまり、それは、自分の子孫が増え広がって一つの国として成立することを真面目に信じていたことの証なのだと思います。しかし、へブル書11:13にあるように、アブラハムが生きている間に約束のものを手に入れることはなかったとありますから、アブラハムが生きている間にアブラハムの子孫が一つの国として成立することはありませんでした。それにしても、アブラハムは、不可能と思われるところから、神様の約束が動き始めるのを見ることはできました。ですから、アブラハムは、見てはいないけれども、将来、必ず神の約束が完全な形で成就することを信じて、喜ぶことができたのだと思います。神がアブラハムに造った道はそこまででした。その道にはまだまだ続きがありましたが、神の計画の長い道において、この部分だけをアブラハムは担ったのです。            

 救い主イエス・キリストがお生まれになったのは、アブラハムから数えて2000年後のことです。救い主の誕生が待ち望まれている間、救いの道を備えるために神様は数多くの人々を用いられました。数多くの人々が、それぞれの役割を担っていたのです。

■20節~21節 神様の造られた道にはいくつかの新しいことを見つけることができると思います。そして、最終的な「新しいこと」とは、アブラハムの家系に生まれてきた、神の御子、救い主なるイエス・キリスト、そのお方による救いの道の完成です。イエス・キリストの救いを通して、神が選び分ける神の民がいます。その人々に与えられる水は、けっして渇くことのない、永遠のいのちを与える水です(ヨハネ4:14)。また、ヨハネ7:38~39には、このようにも書かれています。「わたしを信じる者は、聖書が言っている通りに、その人の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊(聖霊)のことを言われたのである。」と。そして、その人々は神によって新しく造られた人々であり、彼らを通して神様の救いが宣べ伝えられるのです。

■中国の政治家、毛沢東は、共産思想を普及するために中国の至る所に道を作ったそうです。けれども、その道を利用して広がり続けたのは、共産主義思想ではなくて、イエス・キリストの福音だったという話を聞いたことがあります。人は自分で自分の道を造っているつもりでも、すべてを支配しておられるのは神様であり、すべては神様のみ手の中で動いていることなのです。

 今、もしかすると、あなたにとって不利なことや嫌なことが起こっているかもしれません。でも、主はそれをあなたのために、何か良いことへと導くことのできるお方です。その不利なことや嫌なことを通り抜ける時、きっと、神様は新しいことをあなたになしておられるに違いありません。また、主は、不可能と思われるところに道を造り、不可能と思われるところに川を造るお方です。もしかすると、主のみわざをあなたに見せるために、一時的にあなたは困難な道に置かれているのかもしれません。

■昨年12月に、カタールでサッカーワールドカップが行われました。スポーツを見て思うのは、技術や体力はもちろん重要ですが、それだけでは勝てないということです。メンタルが鍛えられているかどうかです。メンタルは勝利のために大きな鍵です。今回、日本は残念ながら新しい景色を見ることはできませんでした。でも、新しい景色の気配は感じることが出来たと思います。次のワールドカップでは8強には入れるんじゃないでしょうか。

 クリスチャンにとってはメンタルも大事ですが、信仰が重要だと思います。神様のことを宣べ伝えるためには、信仰の訓練が必要です。神様が造る道には、信仰の訓練を受ける機会があります。その中で、私たちは、神様がどのようなお方であるかを知り、そして、神様は信頼するに値するお方であることを学ぶのです。

 私たちの人生という道でいろいろなことが起こり、いろいろなことを経験します。その中には、なぜそうなったのか、いまだに答えを見いだせず、そのところから離れられないでいたりするかもしれません。考えても、考えても、どうしてなのか分からないことが、人生にはあると思います。

 イザヤ43:18~19を再度見てみましょう。「昔の事に目を留めるな。見よ。わたしは新しいことを行なう。」今私たちは、私たちが目を留めがちな過去の出来事を神様におゆだねしたいと思います。そして、これから神様がなさろうとしていることに目を向けて行きたいと思います。神様に期待しましょう。そのことを通して、神様が備えている新しい景色を共に見ていきましょう。それではお祈りします。