救い主を待ち望む人々

2022年12月18日主日礼拝「救い主を待ち望む人々」マタイ1:18~25佐々木俊一牧師

■クリスマスは、救い主イエス・キリストがお生まれになったことを記念する日、お祝いするための日です。イエス・キリストは私たちひとり一人にとって、何よりも重要な存在です。なぜならば、イエス・キリストは私たちに命を与えてくださるお方だからです。命とは、永遠の命のことです。この永遠の命を与えるために、救い主イエス・キリストはこの地上に人としてお生まれになりました。

 マタイの福音書1章に、イエス・キリストの系図が書かれています。アブラハムから始まってマリヤの夫、ヨセフで終わっています。救い主についての言及はすでに創世記3章にあります。アブラハムの時代になると、その啓示はさらに具体的なものになっていきました。救い主がアブラハムの子孫から出ること、ヤコブの子孫から出ること、ユダの子孫から出ること、ダビデの子孫から出ることがはっきりと言われています。このように、人類の救い主が来られることは、イエス・キリストが生まれる2000年も前から言い伝えられ、待ち望まれて来たことなのです。

  イエス・キリストの系図はルカの福音書にもあります。みなさん、ご存知かと思います。この二つの系図には違いがあります。ルカの福音書では、イエス・キリストから始まって最初の人アダムまで遡っています。また、ダビデとマリヤの夫、ヨセフの間に出て来る名前がほとんど異なります。それは、マタイの福音書の系図がヨセフの父の側の系図であり、ルカの福音書の系図はマリヤの父の側の系図だからです。

 マタイの福音書では、ヨセフの父の名前はヤコブとなっており、ルカの福音書では、ヨセフの父の名前はエリとなっています。エリという名前はモーセの兄アロンの子孫、祭司職を担うレビ族に多い名前です。バプテスマのヨハネの母、エリサベツはマリヤの親戚であり、エリサベツはアロンの家系、つまり、祭司の家系なのです。ですから、マリヤは祭司の家系とも繋がりがあると言うことになります。ルカの福音書のヨセフの父エリとは、実は、マリヤの父であって、ヨセフにとっては義理の父と言うことになります。ところが、興味深いことに、マリヤもまた、ヨセフと同様にダビデとも繋がっていました。つまり、ダビデの子孫でもあるのです。これらの系図によって、イエス・キリストが旧約聖書で言われているとおりに、アブラハムの子孫、ヤコブの子孫、ユダの子孫、ダビデの子孫であることを明確に表しています。

■旧約時代に多くの預言者たちによって、救い主がお生まれになることが語り伝えられてきました。旧約聖書の最後に、マラキ書というのがあります。マラキは、バビロンに捕らえられていたユダヤ人たちがイスラエルの地に帰ってきた時の預言者です。マラキが神様のことばを語った後、400年間、ひとりも預言者が現れることはありませんでした。この時代は、イスラエルの民にとってさらなる困難な時代でした。バビロン捕囚時代と同様に、闇の中を歩むような時代であったのです。ペルシャ、ギリシャ、エジプト、シリヤ、ローマという大国によって支配された時代でした。そのような状況の中で、イスラエルの民は、ただただ、救い主を待ち望み、大国からの解放と神の国の建設を願い求めていたのです。そして、ついに、待ちに待った救い主がお生まれになりました。

 それでは、今日の聖書箇所を見て行きましょう。

■18節 「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」

 ヨセフの先祖はイスラエルの王、ダビデです。そして、栄華を極めたソロモン王です。それから1000年後、その子孫の一人であるヨセフは、貧しい大工(石工)でした。マリヤは祭司の家系でしたが、やはり、裕福ではなかったようです。彼らは、ガリラヤ湖の西側にあるナザレという町に住んでいました。幼い頃から、彼らの親同士の間で結婚の約束をしていました。彼らには、貧しくとも信仰がありました。神を愛し、神に従う家庭の中で育てられたと思われます。

 そんなある日、彼らにとって、人生がひっくり返るような出来事が起こりました。マリヤとヨセフはまだ婚約中であるにもかかわらず、子どもができてしまったのです。18節にこのように書かれています。「聖霊によって身ごもっていることがわかった。」 つまり、マリヤの胎の中にいる赤ちゃんは、男女の自然の法則によらず、神様の直接の働きかけによって、その体が形造られたということです。創世記の最初の人、アダムもまた、神によって直接造らた人です。聖書では、そのアダムが第一のアダムと呼ばれ、イエス・キリストが第二のアダムと呼ばれる理由はここにもあります。また、アダムの本来の意味が、「神の血」という意味であることも、とても興味深いことです。

■19節~21節 「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』」

 ヨセフの夢に現れたみ使いの名前は書かれていませんが、たぶん、み使いガブリエルだと思います。マリヤに現れたみ使いと同じです。み使いガブリエルはヨセフに現れる前に、すでにマリヤの前に現れて、これからマリヤに起ころうとしていることを前もって伝えました。ルカ1:26~38によると、その後、マリヤは親戚のエリサベツのところに行って、み使いガブリエルによって語られたことを話したのです。すると、エリサベツは、聖霊に満たされてみ使いがマリヤに語ったことを大いに賛美しました。マリヤは3か月間ほどエリサベツと一緒に過ごして、ナザレへと戻って行きました。 

 マリヤがナザレに戻ってしばらくすると、マリヤが妊娠していることがわかるほどにお腹が大きくなってきたのだと思います。もはや隠しておくことはできず、ついにマリヤはヨセフにすべての事を話すことを決心したのではないでしょうか。み使いがマリヤに語ったように、聖霊によって身ごもったのだということをヨセフに伝えたのです。しかし、どんなに丁寧に伝えたところで、「み使いが現れて、『あなたは男の子を産みます。その子は救い主です。』と言われた。」などと言う話をいったい誰が信じるでしょうか。この事を明かされたヨセフは、非常に困惑し、悩んだと思います。「み使いが現れて、あなたは男の子を産みます。その子は救い主です。」このマリヤの告白は簡単に受け入れることのできる話ではありません。「もしかしたら、マリヤは他の男と関係を持ったのではないだろうか。」と疑ってみても仕方のない状況です。もしもそうであれば、ヨセフはこの事を公けにしてマリヤを処罰することもできました。しかし、その処罰は非常に厳しいものでした。たぶん、ヨセフはとても優しくて真面目な人であったのでしょう。マリヤをさらし者にしたくはなかったので、周囲の人にわからないように別れようと考えました。

 そんなことを思い巡らしていると、今度はみ使いがヨセフに夢の中で現れました。ヨセフはみ使いから、マリヤから聞いたことと同じことを告げられました。そして、恐れないで、マリヤと結婚するように言われたのです。み使いはその子にイエスという名前をつけるように言いました。当時、「イエス」という名前はよくある名前でした。コロサイ人への手紙4:11にも別の「イエス」という名前の人物が出てきますし、訳によっては、あの有名なバラバと言う男も、イエスと言う名前を持っていたようです。現在も、スペイン語圏では、「イエス」という名前はよく聞く名前です。スペイン語では、「へスース」と言います。聞いたことがあるかと思います。

 み使いがイエスという名をつけるように言ったのには理由がありました。「イエス」という名前には、「救い」という意味があるのです。「イエス」という名前は、ギリシャ語の言い方であって、へブル語では、「イェシュア」とか「ヨシュア」になります。旧約時代に、エジプトから脱出したイスラエルの民を約束の地、カナンに導いたのはヨシュアでした。「ヨシュア」の意味も「救い」です。「イエス」とは、まさに、救い主なるお方にふさわしい名前で、この方こそご自分の民をその罪から救い、約束の場所である神のみ国へと導くことのできるお方なのです。  

■22節~25節 「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。 『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」

 み使いは、聖書のことばを用いて何が起ころうとしているのかをヨセフに説明しました。イザヤ7:14を見てみましょう。この箇所はイエス・キリストが生まれる約750年前にユダの王、アハズに向かって預言者イザヤが語ったことばです。アハズはとても悪い王様で、真の神を信じないで偶像礼拝をしていました。そんなアハズに、真の神に立ち返るように、イザヤは警告しました。その警告の途中で、この預言が突然現われます。「見よ。処女が身ごもっている。そして、男の子を産み、その子をインマヌエルと名づける。」 

 ヨセフはマリヤから聞いたことと同じことをみ使いから告げられました。こうして、ヨセフは、マリヤを妻として迎えることを決心しました。この選択はヨセフにとって大きなリスクを伴うものでした。婚約中からマリヤが身ごもっていたので、その事実を知った周囲の人々は当然白い目で彼らを見たことでしょう。マリヤのお腹の子はヨセフ以外の男との間にできた子どもではないだろうか、と言うようなうわさがあったかもしれません。また、結婚の祝宴の時まで待つことのできないヨセフは、自制心に欠けた情けない男であると思われてしまったかもしれません。そのような噂は瞬く間に、ナザレの町やナザレ以外の町にも、そして、親戚の間にも広がってしまったかもしれません。結婚式と言えば人生の一大イベントです。それは家族や親せきにとっても、またその地域社会にとっても同様にお祭りのよう行事です。結婚式は1日で終わることなく、1週間も続く祝宴の時なのです。人々の結婚式への思い入れは相当なものであったに違いありません。しかし、それがすべて中止となってしまったとしたら、その後、ヨセフとマリヤはどんなに肩身の狭い思いをしたことでしょう。ある牧師が言うには、ベツレヘムで彼らが泊まる宿がなかったのは、結局のところ、彼らのことが噂となって伝えられ、誰も泊めてくれなかったのではないだろうか、と言うことなのです。もしもベツレヘムにヨセフとマリヤの結婚式に行くはずの親類がいたのなら、結婚式を挙げる前にマリヤのお腹の中に赤ちゃんがいたと言うことはすでにベツレヘム中に広がっていたと思われます。

 ヨセフとマリヤも、そして、二人の家族も、たぶん苦しみ、悩んだと思います。二人は身内から非難されたと思います。しかし、彼らはその事に耐え、神様に従い続けました。なぜなら、彼らには神様からのことばがあったからです。そして、神様のことばによって導かれていたからです。神様からのことばがあり、神様のことばに導かれているのならば、周囲が彼らをどのように扱おうとも、彼らは強くなれたのだと思います。それは私たちにも言えることです。

■マリヤとヨセフは、神のことばに導かれて結婚しました。そして、イエス様がお生まれになりました。聖書には、イエス様の幼少時代や少年時代のことはあまり書かれていません。ルカ2章で、イエス様が12歳のときの出来事について少し書かれているくらいです。

 マリヤがイエス様を宿したときのことを知っている当時の人々は、たとえ、聖霊によって身ごもったのだと丁寧に説明したとしても、誰も信じなかったでしょう。人々の多くは、イエスはヨセフの子どもではなくて、本当の父親は他にいるのだと思っていたかもしれません。父親がだれかわからない子どもたちのことを、英語で「ラブチャイルド」と言います。でも、イエス様は「ラブチャイルド」ではありません。イエス様の父は、天の父なる神様なのです。

 ところで、「ピースチャイルド」ということばを聞いたことがあるでしょうか。「平和の子」という意味です。カナダ人の宣教師に、ドン・リチャードソンという人がいます。彼は「ピースチャイルド」という本を書きました。彼は、1962年にインドネシア領の西ニューギニアのジャングルに住む首刈り族の中に、妻と7ヵ月の赤ちゃんと一緒に入りました。そして、聖書を現地のことばに翻訳しながらイエス様のことを伝えました。イエス・キリストの十字架の贖いについてニューギニアの人々が理解するのは、初めは不可能だと思ったそうです。しかし、彼らの慣習の中に、贖いを理解するための鍵を見つけました。それは何かというと、「ピースチャイルド」なのです。ニューギニアには多くの部族が存在します。そして、部族間の対立が絶えずあって、常に戦いがありました。しかしながら、そんな彼らも平和を望んでいたのです。そのために、お互いの部族から一人の子どもを代表として選び、敵に与えます。その子どもは敵の部族の中で生きることになります。選ばれて敵に渡された子どもは彼らにとって、愛すべき尊い存在です。お互いにお互いの大切なものを与えることによって、お互いの思いを確認し、和解へと導かれるのです。イエス様の十字架の贖いと彼らのピースチャイルドという慣習を結びつけて救いを語るようになってから、彼らの多くがイエス・キリストを信じるようになりました。イエス様は人間の側の代表であり、また、神様の側の代表です。イエス様が両者の犠牲となって、神と人との間に和解と平和をもたらしました。

  イエス・キリストは十字架に死んで三日目によみがえられました。そして、この地上に再び来られることを約束して天に昇って行かれたことが、使徒の働き1章に書かれています。「来ない、来ない、来ない、いつまでたってもイエス様は戻って来ない。イエス様は本当に戻って来るのか。」と思うかもしれません。でも、いつか来られます。400年間の沈黙の後に、ベツレヘムに神のみ子イエス・キリストが人としてこの地上に来られたように、いつか必ず、今度は、平和の王として、この地上に来られるのです。マリヤもヨセフも、羊飼いたちも、そして、東方から来た博士たちも、彼らはみな救い主を待ち望む人々でした。私たちも、マリヤとヨセフのように、羊飼いや東方の博士のように、救い主を待ち望む人々でありたいと思います。それでは、お祈りします。