闇は終わる!

2022年12月11日主日礼拝「闇は終わる!」イザヤ9:1~3 佐々木俊一牧師

■今年を振り返ってみましょう。どんな年だったでしょうか。コロナは3年目に入りました。いまだに、感染拡大が続いており、第八波の中にいます。

 2月24日、ロシア軍がウクライナ領土の侵略を始めました。いまだに戦争が続いています。現在、ロシア軍は意図的にウクライナのエネルギー施設を攻撃しています。寒い冬の中、ウクライナ国民の生活に大きなダメージを与えています。まるで、残酷な拷問のようです。

 コロナやウクライナ戦争のために食糧危機に陥っている国々が増えています。日本も含めてすべての国々で物価高騰が起こっています。中国は食糧やエネルギーや肥料等を買い占めて戦争の準備をしているとも言われています。台湾有事もそんな遠い先の事とは思えません。北朝鮮は頻繁にミサイル実験をしています。

 そんな中、一方では、北京で冬季オリンピックが行われました。そして今、サッカーワールドカップがカタールで行われています。これらについては明るいニュースではあります。実際に私たちは、大変楽しませてもらっています。しかし、世界には山積みされた多くの問題に対して明確な解決策を見出せない現実があります。世の中は、ますます暗くなって行く一方のように見えます。

 でも、私たちはそのような中にあっても行き詰ることはありません。なぜなら、信じる者たちのために、すべてにまさるハッピーエンドの神様の計画を知っていますから、心を騒がせる必要はないのです。神様の計画を知ることは、私たちにとって大きな励みであり、支えなのです。私たちの思いを主の平安で守ってくださいます。ですから、今日も聖書のことばをとおして力と導きを受けたいと思います。

 イザヤ書9章はアドベントの時によく耳にするところです。私たちの救い主、主イエス・キリストの到来に関わる有名な預言が語られているところです。それでは、今日の聖書箇所を見ていきましょう。

■1節 「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川の向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。」

 ヨルダン川の北側にガリラヤ湖があります。ガリラヤ湖はさらに北にあるヘルモン山の雪解けの水が流れて貯まる湖であり、その水がヨルダン川となって流れて死海に注ぐのです。それは今も昔も変わりません。しかし、その水量はかなり減ってきています。ガリラヤ湖の西側の土地はイスラエル12部族のゼブルン族とナフタリ族に与えられた土地です。ですから、ゼブルンの地とナフタリの地とは、ゼブルン族とナフタリ族の人々のことを言っているのでしょう。

 ソロモン王の後、イスラエルは北王国と南王国の二つに分裂しました。南王国はユダ族とベニヤミン族からなっていました。その他10部族は北王国に属していました。北王国はアッシリアに攻め入られ、まず、ガリラヤ湖の西側にいたゼブルン族とナフタリ族の人々がアッシリアへと連れて行かれました。BC721年には完全に滅ぼされてしまいます。多くの人々が捕囚としてアッシリアに連れて行かれました。残された人々は移住してきた異邦人と混じり合った結果、純粋なイスラエル人は少数派になっていきました。「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けた」とは、これらのことを言っているのだと思います。イエス様の時代、エルサレムやユダヤ地方の人々がガリラヤ出身者を馬鹿にしていたのは、そのような背景があったからでしょう。

 しかし、「異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける」とあります。栄誉の理由は何かと言うと、それは、ユダヤ人から対等に扱ってもらえなかったガリラヤ人の中で、救い主なるお方が育ち、その働きがガリラヤの地から始まり、12人の弟子たちもガリラヤ人の中から選ばれたことなどがあるからではないでしょうか。ガリラヤは、イエス様の働きが始まった地であり、拠点となった場所です。この箇所はそれらのことを意味しているのではないでしょうか。

■2節 「闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見る。死の陰に住んでいる者たちの上に光が輝く。」

 「闇の中を歩んでいた民」とは、だれのことでしょうか。それは、第一に、イスラエルの民のことです。第二に、すべての人類のことです。第三に、私たち一人一人のことです。

 預言者イザヤはBC700年代にユダ王国で活躍していました。BC700年代ですから、彼は北王国がアッシリアに負けて、アッシリアの捕囚となって連れて行かれるのを見聞きしたはずです。その後、アッシリアは南王国を征服しようとして攻めて来ました。この時、ヒゼキヤが王様でした。ヒゼキヤ王は良い王様です。イザヤはこのヒゼキヤ王のもとで預言者として仕えていたのです。アッシリア軍がユダ王国に攻めて来たとき、ヒゼキヤ王も預言者イザヤも彼らの脅しに屈することはありませんでした。ヒゼキヤとイザヤは神様に必死になって祈りました。夜が明けて朝が来た時、アッシリア軍は全滅していたのです。こうして、ユダ王国の人々は神様の救いを体験しました。しかし、それにもかかわらず、ヒゼキヤ王が死ぬと、彼らはまた真の神様から離れ、偶像礼拝へと傾いていきました。それから約150年後にはバビロンに滅ぼされ、捕囚となってバビロンへと連れて行かれてしまうのです。

 それから70年を経たときに、エレミヤが預言したように、捕囚となったユダ王国の人々は解放されて、自分たちの土地に帰ることが許されました。イザヤ9:2のことばは、この歴史的な出来事を予告しているとも言えます。バビロン捕囚時代は、ユダヤ人にとって闇の中を歩むような辛く厳しい時代でありました。ですから、この解放の知らせは、死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝くような出来事であったでしょう。この解放の知らせは、ユダヤ人にとって、まさに希望の光であったと言えます。

 エズラ記2章に、バビロンから帰還した人々の名前が載っています。その中に、ゼルバベルとヨシュアと言う人がいます。ゼルバベルはイエス・キリストの系図にある人で、ダビデの子孫です。ハガイ書を見ると、ゼルバベルは総督で、ヨシュアは大祭司となっています。この二人は、エルサレムの城壁と神殿の再建のために指導者として選ばれ、その再建を成し遂げました。

■3節 「あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。」

 エルサレムの城壁と神殿の再建を成し遂げた時、バビロンから帰還したユダヤ人たちは、3節にあるように大喜びしました。しかし、それは、永遠に続くものではありませんでした。その後も、彼らは、ペルシャ、ギリシャ、エジプト、シリヤ、ローマに支配され続けました。属国としての苦しみを味わい続けたのです。このような時代背景の中で、ユダヤ人たちは、強国を打ち破り、自分たちのために強い国をもたらしてくれるメシヤを待ち望むようになったのです。

 イザヤ9:6~7に、メシヤに関する預言がはっきりと語られています。私たちクリスチャンにとって、6節は成就したことです。しかし、7節はまだ成就していません。これから成就するのです。ユダヤ人にとっては、6節も7節もまだ成就していません。彼らはイエス・キリストをメシヤとして認めていないのです。

■先ほどは、「闇の中を歩んでいた民」とは、だれのことでしょうか、とお聞きしました。それは、第一にイスラエルの民であり、第二にすべての人類のことであり、第三に私たち一人一人のことです、と言いました。

 第二のすべての人類のこととしてお話をしたいと思います。先日、エペソ5:8~17をとおしてメッセージをしました。そのところに、光と闇という言葉が出て来ました。今日の聖書箇所にも光と闇という言葉があります。この前お話ししましたが、聖書では、光は良いことの象徴であり、闇は悪いことの象徴です。光はイエス・キリスト、あるいは、神様を表し、また、神様の支配を表します。それに対して、闇はサタン(悪魔)、あるいは、サタン(悪魔)の支配を表します。すべての人類は闇の中を歩み、死の陰の地に住んでいる状態にあります。なぜならば、悪魔の支配の中にあるからです。この地上では、まだ希望を持って生きることが出来ます。楽しいこともいっぱいあります。地上の生活もなかなかいいものです。しかし、それは生きていればの話です。死は誰にでもやってきます。私たちの前に立ちはだかる死によって、私たちは不安になり、失望するのです。  

 聖書は死の原因を明確に示しています。それは罪です。罪とは神なるお方を神として認めないことです。また、神として認めても、神を拒絶し、神に従わないことです。神様は人を悪魔の支配から解放し、神の御国へと帰ることが出来るように道を備えてくださいました。その道が、救い主なるイエス・キリストです。イエス・キリストこそがすべての人類にとっての希望の光なのです。闇の中を歩んでいた民が見た大きな光とは、イエス・キリストのことです。死の陰の地に住んでいた者たちの上に輝く光とは、イエス・キリストのことなのです。

■「闇の中を歩んでいた民」とは誰のことか、3つ目が私たち一人一人のことです。闇と言ったら、皆さんはどのようなイメージを持つでしょうか。闇は真暗で何も見えない状態です。「御先真っ暗」という表現があります。将来の見通しがつかず、絶望的な状態です。将来に希望を見出せない状態です。人生にはいろいろな困難があります。仕事のこと、学業のこと、人間関係のこと、経済的なこと、健康のこと、私たちはいろいろなことで心配し、恐れ、挫折し、絶望し、失望します。私も同じです。ふり返って見ると、私も今までに闇の中を歩むような体験をたくさんしてきました。自分がそのような中に置かれた時は、失望したり、絶望したり、まさに、御先真っ暗な気持ちに陥ってしまいました。けれども、今、こうしてお話ができているということは、私の体験した数多くの闇体験から私は救われてきたと言うことです。つまり、どの闇もいつまでも続くことはなかったと言うことなのです。闇にはいつも終わりがあったのです。神様はいつまでも闇が続くことを許しません。闇は終わります。

 長年人生を生きている人は、このことがわかると思います。ですから、特に、若い人々に語りたいと思います。御先真っ暗で将来に何の希望も持てないと感じたとしても、そんな闇はいつまでも続きません。必ず闇は終わります。終わらない闇なんてありません。確かに、闇の中を歩むとき一筋の光も見えないと不安になります。その状態が長く続けば続くほど、苦しみや辛さが増していきます。それでも、神様を信じて歩み続けてほしいと思います。困難な時にこそ、神様は良いお方であることを信じて歩み続けてほしいと思います。神様は必ず闇の中に光を輝かせてくださいます。闇のずっと向こうの方に見える光は最初小さいけれども、信じて歩み続けるときにその光は徐々に大きく見えていくはずです。その光を頼って歩み続けるときに、もしかしたら、自分が願っていたのとは違う方へ導かれることがあるかもしれません。でも、それが神様の導きであるならば、さらに一歩を進めるときに、そこには平安と喜びがあるはずです。

 若い人にとっては挫折も一つの闇体験になります。挫折したことがないという人も中にはいるかもしれません。ない人は、たぶんいつか将来挫折を経験すると思います。私は何度も挫折を経験したので言えるのですが、挫折しても大丈夫です。挫折して、その時は苦しくても、それはいつまでも続きません。神様は挫折の先にちゃんと楽しいことも嬉しいことも用意してくれています。イザヤ9:3に書いてある通りです。ですから、挫折しても、それで人生終わりとは思わないでください。挫折を乗り越えた先にこそ、みなさんへの神様の最善の計画が動き始めるのです。挫折という闇は終わります。挫折の向こうに光があるからです。その光を信じて、挫折の向こうにある喜びや楽しみを受け取ってほしいと思います。それではお祈りします。