良い知らせを伝えることを通して神の誠実さを見出す

2022年11月20日英語礼拝

メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

ルカの福音書 24章33~48節

良い知らせを伝えることを通して神の誠実さを見出す

 

           あなたがご自宅にいても、ここオープンドアにいても、どこにいても、今日、皆さんと繋がって、一緒に神の御言葉の中で時間を過ごせることを嬉しく思っています。主が預言された約束を守るために用いられた聖書の登場人物についてのメッセージのシリーズが終わろうとしています。多くの場合、彼らは自分が世紀を越えて続く神の民を救う偉大な働きの一部であることさえ知りません。ですから、この説教シリーズは、「神の無意識の証人」なのです。

 

   最近、私たちは教会生活の5つの主要な分野に関して、神がどのように御言葉を守っておられるかを見ています。礼拝、共同体、奉仕に関連する神の誠実さについて学びました。来月は、霊的成長、つまり神との関係の発展に焦点を当てたいと思います。今日は、キリストの知らせを伝えること、または伝道について取り上げたいと思います。これはキリストに従う者としての私たちの生活のもう一つの部分で、そこでは神が預言を成就するために働いておられるのを見出すことができます。神は約束を守ってくださいます。そのことをより深く、より豊かに学ぶことは、私たちに神の誠実さを示します。それは私たちと神との関係をより親密にし、経験を通して神を信頼することを教えてくれるのです。このことを心に留めながら、一歩一歩、物語を進めていきましょう。

 

   イエスが弟子の一人クレオパともう一人の無名の弟子と一緒にいたところから始まります。 彼らは12人使徒の「内」ではありませんが(ユダがグループから脱退した現在は11人)、ルカがイエスが人々を癒し、教えを広めるために送り出した72人(10章1節)と思われます。 (いくつかの翻訳では70としています)。

 

   クレオパと「名無し」は、客と一緒に夕食を食べていたとき、復活したキリストと話していることにようやく気づきました。キリストがパンを裂いて彼らに渡されたとき、二人はそのことを認識しました。それは彼らが何か特別なことが起きているという最初のヒントだったかもしれません。客はホストに食べ物を渡さないのに、この人は渡したのです。もしかしたら、彼がパンを渡す為に手を伸ばした時に、釘の傷跡が露出して彼らは彼の死を思い出したかもしれません。あるいは、彼が他の多くの食事で同じ事をされた時の事を思い出しただけかも知れません。しかし、彼らは知っていました。そして、その瞬間彼は姿を消します。

 

   これは重大ニュースです。 彼らはエマオで夜を過ごす計画をあきらめ、他の弟子たちを見つけるために、はるばるエルサレムへ、どうやら夜中に歩いて戻ったようです(33節)。彼らは食事は食べ得たのでしょうか?食べ終えていないかもしれません。なぜならパンを裂くのは食事の最初であり、その時に、数時間前に死んでいた人と話していることが明らかになったからでしょう。単に食べる気が失せただけかもしれません。 暗闇の中、あの道を歩くのは安全でしょうか?今はそんなことは気にもしていないようです。言い換えれば、彼らは重大ニュースを伝える事を待ち切れません。イエスは生きていて元気で、動いています!

 

   クレオパと「名無し」が到着すると、重大ニュースを持っているのは自分たちだけではないことに気づきます。 他の人々も彼らに言います(34節)、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と。 彼らは、パウロが後にコリント人への手紙 第一 15章5節で書こうとしていることを学んでいるのです。「また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」私たちはその会話の詳細を聖書から学んだことはありませんが、それを聞くのは興味深いことです。

 

   ところで、二度目の11Kmの徒歩移動を終えたばかりの2人が、同じようなストーリーを持つ他の人たちに出し抜かれていた時に、どうのように感じたと思いますか?恐らく悔しかったり、混乱したり、興奮したのではないでしょうか?おそらく、これら全てを同時に感じたのではないでしょうか。 

 

   実は、その部屋の人たちは、イエスが生きておられることを最初に離したわけではありません。ルカはこの章の前半(10節)ですでに、マグダラのマリア、ヨアンナ、ヤコブの母マリア、及び彼女らと一緒にいた婦人たちが、最初に使徒たちに伝えた人たちだと語っています。しかし、彼らはそれを信じませんでした(11節)。 この文化、時代の人々が、女性を本来あるべきほど真剣に受け止めていなかったのを見ても、驚くことではないでしょう。 (ここにいる何人かは頭を上下に振って「今でもそうなんだ!」と言っているかもしれません)。 イエスの時代、女性の地位は低く、一般的に男性のように信頼されていませんでした。例えば、法廷での証言は許されませんでした。しかし、弟子たちのリーダーであったらしいシモン・ペテロが、基本的に同じ話をしたところ、人々はそれを信じ始めました。 

 

   今、エマオの男たちが現れ、形成されつつある大きな物語に独立した支持を与えています(35節)。グループ全体が、最初に自分たちの物語を受け入れなかったことを女性たちに謝罪するのに時間がかかるのは当然かもしれません。しかし、何が起こっているのか誰も知らないうちに、イエスが突然彼らと一緒にそこに現れ(36節)、「平安があなたがたにあるように」と言っているのです。      

 

   福音を伝えるという観点から、ここで何が起こっているか分かりますか?これらのキリスに従う者はすでに伝道者になっています。彼らはすでに良い知らせを伝えています。彼らはまだ自分自身をそのように考えていないかもしれません。彼らはおそらく、彼らが良い知らせを伝え始めた日には、神が世界中の、そして何世紀にもわたって多くの人々を救うために用いられるという福音を伝える上で重要な役割を担うことになるとは想像すらしていなかったでしょう。しかし、まさにそのようなことが起こり始めています。神は約束を守り、それを行うために彼らを用いておられます。 

 

   確かに、彼らは皆、多少異なる方法でメッセージを伝えています。誰もその内容や最適な伝え方を十分に理解しているわけではありません。誰も純粋さ、成熟度、知恵の模範とではありません。しかし、非常に重要なことが起こったので、彼らは自分たちが見聞きしたことを伝えなければならないのです。キリストの良い知らせを伝えるということは、無理をしてすることではありません。ほとんど「やらないわけにはいかない」のです。内面的な何かが劇的に変化したため、自然に出てくるのです。

 

   イエスは、私たちを含め、イエスの教えを広めるためにご自身に従う者たちを送り出すとき、少なくともこれらの点で最初の弟子たちのようになることを望んでおられます。「何か言わなければならないから話す」のではなく、「何か言いたいことがある」という気持ちで話すことを望んでおられるのです。   

 

           イエスに従う者たちが良い知らせを語るとき、イエスが共におられることを意識するようになったということも、注目に値すると思います。エマオでは、夕食を食べながら、そうしていました。同じように、エルサレムでは、キリストが生きておられるという良い知らせを伝えているときに、キリストはご自分を知らせておられます。もちろん、イエスはどんな場所でも、どんな時でも、どんな状況でも、ご自身を明らかにすることができます。しかし、キリストが私たちに教えてくださったことをしているとき、例えば(エマオの人々がしたように)客を迎え、キリストの言葉について話す時や、キリストが私たちの人生に何をしてくださったかを(エルサレムの人々がしたように)話す時に、人々がより深く、強い信仰に至ることは自然で、適切なのです。キリストの良い知らせを伝えることは、それを受け取る人々の利益のためであり、何よりも神の栄光のためです。しかし、私たちが主に従い、主の言葉を他の人々に伝えるとき、それは私たちにも助けにもなります。    

 

           イエスは唖然とするご自身に従う者たちに、ご自分が実際に生きていることを辛抱強く示します。イエスはここで、人々に良い知らせをどのように伝えるか、その模範を示しています。そして、彼らが説明を聞く準備ができたとき、イエスは次のように言います(44-45節)。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」イエスはここで旧約聖書を伝統的なセクションに分けて、それらがすべて今までずっとご自身を指し示してきたと言っています。「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開い(た)」(45節)。

   それがなければ、私たちがどんなに一生懸命に伝道しても、神が意図されるような永続的な結果をもたらすことはありません。それがあれば、主がご自分の次の大家族の一員とするために選ばれた人々を、主がご自分のもとに連れて来ることを止めることはできません。

 

   このメッセージシリーズでは、イエスの死に関する旧約聖書と新約聖書の預言について、すでにかなりの部分を見てきました。ですから、今はそれを追加するつもりはありません。ルカは、イエスが弟子たちに示した旧約聖書のどの部分の復活の預言を見せたのか、正確には教えてくれません。ここでは時間をとって詳しく説明しませんが、ここに静思の時(quiet time)の勉強のための良いガイドがあります。律法(聖書の最初の5冊)に戻って、アブラハムがイサクをささげる準備をしている創世記22章の物語を見てください。出エジプト記12章の過越祭の記述を見てください。詩篇の16篇8-11などにも、死から生への大きなテーマを見ることができます。

 

   私はいつも 主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。それゆえ 私の心は喜び私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。あなたは 私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びが あなたの御前にあり楽しみが あなたの右にとこしえにあります。

 

   預言書からは、たとえばイザヤ書53章10-12節に約束された復活を見ることができます。

しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」

 

   ホセア書6章1-3節も、復活したイエスが彼に従う者たちに良い知らせを伝える際に指摘したもう一つの箇所かもしれません。

 

   さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。

 

   今日は、神の良い知らせを広める神の民に関する旧約聖書の預言に焦点を当てましょう。律法から、申命記18章、15節、17節a、18節でモーセが、いつか来るキリスト、メシアについて次のように言っていることがわかります。

 

   あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。それで主は私に言われた。「…わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。

 

   詩篇では22篇22節、27節、30-31節に注目できます。.

 

   私は あなたの御名を兄弟たちに語り告げ会衆の中であなたを賛美します。地の果てのすべての者が 思い起こし主に帰って来ますように。国々のあらゆる部族もあなたの御前にひれ伏しますように。子孫たちは主に仕え主のことが 世代を越えて語り告げられます。彼らは来て 生まれてくる民に主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。

 

   預言書の中から、イエスは弟子たちにイザヤ書2章3節のような教えを指し示されたのでしょう。そこには、エルサレムの神殿に関する神のメッセージが書かれています。

 

多くの民族が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。

 

   イエスは47節で、メシアの良い知らせを伝えることに関する神の約束と意図の要約のようなものを与えています。「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、」

(訳註:「宣べ伝えられる」の主語である「彼に従う者」が省略されています。)

(彼に従う者は)「その名によって…宣べ伝えられる」ことに注意してください。自分の信念を強く主張して、そのために戦うわけではありません。ここでの最高の目標は、個人の自己実現ではありません。彼らは、民主社会やいかなる政治体制をも最高の目標として設定していません。これはキリストと彼のメッセージについてです。それは政治や生活全体に影響を与えますが、もっともっと大きなものです。もし私たちがイエスの教えを、特定の政治的見解やこの世界での生活の他の部分をサポートするために使用できるツールに縮小するなら、イエスの目的に大きな損害を与える可能性があります。

 

   イエスの人々が分かち合おうとしている良い知らせとは何でしょうか?その重要な部分は、人々が「自分の罪から離れて赦される」ことができるということです。私たちの罪は神に背くことです。聖書の罪のイメージには、的を外すだけでなく、道から迷い、何かに参加しないことも含まれます(また、間違いを犯すことや他のより抽象的な考えもあります。)

 

   「罪の赦しを得させる悔い改め」、「悔い改め」即ち「人が悔い改める」こと。言い換えれば「人が罪から離れる」ことは、赦しを得る理由ではありません。「悔い改め」は罪の代価を支払いません。それは正義と義を護るという神の律法の要求を満たすもんではありません。私たちが犯した悪い選択のために涙を流しても、それが洗い流されるわけではありません。キリストの民のための涙でさえも、そうではありません。しかし、キリストの血は私たちの罪の代価を支払ってくれます。それは神の律法の要求を満たすものです。私たちが持つべき赦しを与えることができるのは神の愛の行為だけです。キリストの良い知らせは、私たちが正直に自分の罪を告白できることです。そうすれば私たちは告白にとどまらず、悔い改め、罪を捨て、罪から遠ざかる方法があるのです。それによって、私たちは、神がご自分の民に望んでおられる自由と平和の中で生きるために必要なすべての赦しを必ず受けることができるのです。

 

   そして、イエスはご自分の御名について、「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」と約束されます(47節)この「あらゆる国の」という(NIRVでは“from every nation”)というフレーズは、たった3つの小さな単語しか含まれていませんが、イエスがこのように言われてから2000年の間に、どれだけの人が流れ出したかを見てください。オープンドアもその一部です。ここのメンバーである人は皆、良い知らせを受け取っています。私たち考えたり、それが最善の方法だと判断したわけでもありません。誰かが私たちに伝えてくれたのです。私の場合、それは両親、牧師、そして教会や地域の多くの人たちでした。他の人は、友人や同僚がキリストによる救いのメッセージを伝えてくれたのかもしれません。

 

   私たちは毎週ここに集まり、福住、札幌、北海道、そして世界の人々に、神の救いの愛の良い知らせを分かち合います。私たちは、今週土曜日にもう一度集まり、ゴスペル音楽を通して、良い知らせである福音を祝い、宣べ伝える予定です。私たちの教会としての未来は、特に若い世代の人々にキリストのメッセージを忠実に分かち合うことにかかっています。もし私たちが種を蒔くのをやめたら、健康で上部植物がどれだけ成長するかは良く判ります。しかし、もし私たちが神の導きによって種を蒔くなら、神はここに人を導き、オープンドアの信仰の家族を構成するでしょう。これらはすべて、失われた人々を神ご自身のもとに連れ戻すという、何千年にもわたって続いてきた神の救いの業の大きな動きの一部なのです。    

 

   それは私たちにも言えることで、イエスが弟子たちに「あなたがたは、これらのことの証人となります。」と言われたとき(48節)、それは少し異なった方法でした。彼らには、文字どおり、物理的にイエスを見ることができるという利点がありました。私たちは、書かれた新約聖書と、それ以来何百万人ものキリストに従う者の証言を持っているという利点があり、生きているキリストを知るのに役立ちます。それでも、私たちは証人です。イエスを私たちの主であり救い主であると知っている私たちは全てがそうなのです。彼は特別な種類の証人を作り、その仕事を教会の指導者や特別な訓練を受けた人々の手に委ねませんでした。私たちは皆、神から与えられたそれぞれ独自の信仰の物語を持っています。私たちが使用している新改訳には、「あらゆる国の人々に(イエスの名が)宣べ伝えられる」と書かれています。しかし、元のギリシャ語と多くの翻訳では、名詞の形で、私たちは「証人」であると名詞形で書かれています。(文字通り、それは「殉教者」です。信仰のために死ぬことによって信仰を証しする人々のようなものです。)

 

   復活されたキリストに自分なりに出会った者として、キリストのことを人々に伝えるとき、私たちは証しをすることになります。しかし、それ以上に、私たちは証人となるのです。私たちは、良い人でも悪い人でも、忠実な人でも不忠実な人でも、クリスチャンとして、その生き方によって人々にキリストの姿を示すことができます。それが私たちなのです。だから、イエスが使徒の働き1章8節でご自分の民に語ったのはそのためです「あなたがたはエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」”

 

   アッシジの聖フランチェスコ(米国のサンフランチェスコの名前の由来となったカトリックの聖人)から来たということわざがあります。「常に福音を宣べ伝えなさい。必要であれば言葉を使いなさい。」その言葉には何か魅力的で真実がありますね。しかし、問題もあります。この言葉は聖フランチェスコの言葉ではないらしいのです。カトリック教会内のフランチェスコ会のメンバーは、この言葉を彼の言葉として受け入れていません。彼は1221年の規則の中で、「すべての修道士は......その行為によって説教すべきである」と書いているのです。しかしどういうわけか彼は、忠実な行動がキリストの教えについて人々に忠実に話すことに取って代わることができるという教えとして広く引用されるようになりました.キリストのメッセージは、働きと言葉のどちらかまたは両方のメッセージです。とにかく、聖フランチェスコは私たちの人生のガイドではありませんが、キリストはそうです。そして、彼は明らかに行いと教えの両方を用いて、神の救いの愛の良いたよりを伝え、実証しました。それが私たちにも求められていることです。ですから、主の証人として生きるために、ますます学ぶことができるよう主に助けを求めましょう。   

 

   生きていて、愛してくださる、救ってくださる神、私たちを罪から救い出し、御自身と御国のために引き上げてくださることに感謝します。私たちは悔い改める機会という大きな贈り物を受け取り、今、あなたのそばを歩むことを阻むもの全てから離れます。私たちの心、思い、言葉、そして行動の中で、毎日、良い知らせが本当に良い知らせとなるように助けてください。それを通して、私たちをあなたの愛の力によって生きる平和の民に変えてください。私たちの中に良い知らせがあり、周りの人々に伝えることができるように、私たちを内側からますます変えてください。そして、あなたの御子イエス・キリストを通して、あなたの救いの愛を受けようとするすべての人に、その愛の言葉を広める働きのために、私たちを用いてください。イエス・キリストの御名によって、私たちはそれをお願い致します。アーメン。

 

参考文献

 

バトリック、G. A. (1952). インタープリターズバイブル第8巻 ルカ Nashville: Nashville: Abingdon Press.  

 

Gill, J. (1746-1763). John Gill's Exposition of the Bible(ジョン・ギルの聖書解説)。https://www.biblestudytools.com/commentaries/gills- exposition-of-the-bible/luke-24/ から2022年11月13日に取得。

Macarthur, J. (2008). “The Living Christ Dispels All Doubt.” Grace to You.         Retrieved October 31, 2022 from https://www.youtube.com/watch?v=VPEeS2dWkzY