ヨベルの年、自由と解放!

2022年10月9日主日礼拝「ヨベルの年、自由と解放!」レビ記25:8~13 佐々木俊一牧師

■聖書研究をするときに、いくつかの方法があります。その中のいくつかを紹介したいと思います。まずは、原語の研究です。聖書の原語は、ヘブライ語とギリシャ語です。これらの原語の意味を調べることによって、キリストの救いについてより明確にとらえることが出来ると思います。たとえば、みなさんがよく知っているギリシャ語の中に、「テテレスタイ」と言う言葉があります。イエス様が十字架上で言われたことばの一つです。その意味は、「完了した」とか「支払い済み」と言う意味です。これは、法律用語です。犯罪者が刑期を終えて牢獄から出る時に、罪状書きの上に「テテレスタイ」と書いて渡されました。また、借金をしていた人がその借金の返済を終えた時にも、「テテレスタイ」という言葉が使われました。イエス様が「テテレスタイ」と言われたのは、人類の犯した罪に対してご自身の死、その血によって償ってくださったからです。イエス様の死と流された血潮によってすべての罪に対する支払いは完了し、支払い済みの状態にしてくれたのです。

 次に、聖書時代の習慣について調べることです。たとえば、モーセの幕屋やダビデの幕屋、さらにはソロモンの神殿でささげられていたいけにえや、また、そこに置かれていた備品などには、キリストやその救いについての深い意味が表されています。また、旧約聖書に出てくる過越しの祭りや七週の祭り、仮庵の祭りなどの祭りの中にも、キリストの救いに関して神の計画が予告的に表されているのです。

 続いて、型と言われるものがあります。旧約聖書に出てくる人物や出来事の中にキリストの事が表されているのです。たとえば、ヨセフの人生の中にはキリストを表している部分があったり、また、夢を見てそれを説き明かすヨセフは、イエスの父、ヨセフを連想させたりします。他にもあります。イサク、ルツと結婚したボアズ、ダビデ、預言者エリヤやエリシャ、ヨナなどもイエスの行なわれた奇蹟、そして、十字架と復活のみわざを表している要素があるのです。これらのことを型と言います。

 今日は、聖書時代の一つの習慣、ヨベルの年の中にあるキリストの救いと神のご計画について少しですが見ていきたいと思います。

■8節~9節 「あなたは安息の年を七回、すなわち、七年の七倍を数える。安息の年が七回で四十九年である。あなたはその第七の月の十日に角笛を鳴り響かせる。宥めの日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせる。」

 安息の年について説明したいと思います。今日はお読みしませんでしたが、前の節に安息の年についての説明があります。神様はこの安息の年についての命令をシナイ山でモーセに告げました。それはどのような命令かと言うと、イスラエルの民が約束の地に入ったら、その地は主の安息を守らなければならない、と言うことです。さらに、具体的に言うと、6年間は畑に種を蒔き、収穫をしてよいけれど、7年目は種を蒔いたり、収穫をしたりせずに、土地を休ませなければならない、と言う命令です。しかし、それは、その土地を守り、いつまでも豊かに食物をもたらすために必要なことであったのです。このように、安息の年とは、作物を作らない7年目の年のことなのです。そこで、7年目は何を食べたらよいのか、と誰もが心配になると思いますが、その分については神様がちゃんと6年の間に備えてくださることを約束してくださいました。

 安息の年が7回来ると、49年になります。そして、安息の年として第七の月を迎えます。第七の月の1日目は例年のようにラッパの祭りで始まります。ショーファーという雄羊の角でできた角笛を吹き鳴らすのです。その時から、イスラエルの民の悔い改めの時が始まり、その月の10日には断食をして身を戒め、さらに悔い改めの時を持つのです。その日のことを宥めの日、ヨム・キップ―ルと言います。その言葉には、罪を覆うと言う意味が込められています。日本語では、贖いの日、あるいは、贖罪の日とも訳されています。この日は、年に一度だけ、大祭司が雄牛の血を携えて至聖所に入り、契約の箱の贖いの蓋の上にその血を注いで、イスラエルの民のために宥めを行なうのです。そしてその後、第七の月の15日に仮庵の祭りが始まるのです。ラッパの祭り、宥めの日、仮庵の祭りは一連のまとまった一つの祭りなのです。

■10節~13節「あなたがたは五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰る。この五十年目はあなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落穂から生えたものを刈り入れてもならない。また、手入れしなかったぶどうの木のぶどうを集めてはならない。これはヨベルの年であって、あなたがたは聖である。あなたがたは野の収穫物を食べる。このヨベルの年には、あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰る。」

 第七の月をもって50年目を迎えていることに気が付いたでしょうか。もともと新しい年はエジプトを脱出した月、アビフ(バビロン捕囚後はニサンと呼ぶ)でした。しかし、ここでは第一の月アビフ(ニサン)から数えて第七の月、チスリが新しい年とされています。イスラエルの民が約束の地に入った後は、第七の月が新しい年とされたようです。現代のイスラエルにおいても同様に新年は第七の月、チスリです。西暦のカレンダーで言うと、9月中旬から10月中旬です。太陰暦なので毎年新年が変わります。2022年の新年は、9月25日の日没から9月26日の日没でした。そして、10月4日の日没から10月5日の日没までが宥めの日でした。

 イスラエルの新年は秋に始まります。安息の年が7回来た後にすぐにまた安息の年が来るのです。これをヨベルの年と言います。ヨベルとは、雄羊の角で作られたラッパ、ショーファーのことです。安息の年が2年続くと、実際には大変なことかもしれません。2年続けて作物を作れないのですから。しかし、神様はちゃんとその分も備えてくださることを約束してくださいました。とても信仰が試されることかもしれませんが・・・。

 ヨベルの年についてさらに見て行きたいと思います。「あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰る。」とあります。ヨベルの年は、ただ単に土地の生産性を保つためにだけあったのではありません。すべてにおいて現状を回復するためにありました。お金がなくて自分の土地を手放した者には、ヨベルの年になると一度売った土地が自分のところに戻って来るのです。また、お金がなくて自分の身を売った者は、ヨベルの年になると自由の身になれるのです。負債があって返すことが出来なかった者は、ヨベルの年になるともう返さなくてよいのです。ヨベルの年になると、すべての縛りから解放され自由にされるのです。こうして、すべてがリセットされて人々はもう一度人生をやり直すことができるのです。ヨベルの年に受けるこれらの恵みはまさにキリストの救いを表すものであり、神様のみ思いなのです。

 聖書にもあるように、土地も人も基本的に神の所有物です。神様はいつまでも土地や人が人の所有のままであることを許しません。人が人を束縛したり、人が人を支配したりすることを神様は嫌います。人が人を支配する時、人は人を束縛し、自由を奪います。しかし、神様が人を支配する時、そうではありません。神様は人を束縛しませんし、自由も奪いません。それが神様の支配です。神様の支配は、プーチンや習近平や金正恩のような支配とは異なります。

 現代のように、男性も女性もかなりの自由と豊かさをもって生きることが出来るようになったのは、そんな遠い昔の事ではありません。現代においても、束縛や不自由を感じながら生きている人々や国々があるのです。人間はずっと長い間、自由や解放を求めて生きて来ました。長い間、欲しいと思って来て、やっと手に入れた自由と解放です。ただ、私たちの自由と解放は、ちょっと自己中心的なところがあります。神様抜きの自由と解放はどうしてもそうなってしまいます。人は本来自由のある中で生きる者として造られました。しかし、神様の与えた境界線を越えてもっと自由を求めた結果、それは不自由な道への始まりでした。それは、悪魔の誘惑によって起こった出来事です。神様はもともと人間に対しては自由を望まれるお方です。罪をおかしてしまった後も、神様はずっと人間に自由と解放を与えるために働き続けておられます。

■今年、イスラエルでは、9月25日の日没に新年を迎えました。そして、その新年は彼らにとって非常に特別なものです。なぜならば、それは、70回目のヨベルの年だからです。1回目のヨベルの年は今から約3500年前、イスラエルの民が約束の地に入って50年後にありました。モーセが導くイスラエルの民がエジプトから脱出して約束の地に入ったのがBC1500年頃のことです。それから、約3500年後に70回目のヨベルの年を迎えたのです。

 過越しの祭りと七週の祭り(五旬節)の意味する霊的な事柄はすでに成就しました。イエス・キリストがこの地上に来られ、人類の罪を贖うために十字架に死なれ、三日目によみがえられました。その後、キリストは天に昇られ、そして、五旬節の時に聖霊が下られました。それによって、この二つの祭りの意味していたことは成就したのです。そして、ヨベルの年、一連の祭りとしての仮庵の祭りが意味することは、これから成就することなのです。どのようなことが待ち受けているのか、楽しみな反面、恐いような気もします。ですが、いつも神様が共におられますから、私たちはいつも心強いのです。私たちは日々主に信頼し、主と共に歩んで行きましょう。それではお祈りします。