聖霊を悲しませるってどういうこと?

2022年9月25日主日礼拝「聖霊を悲しませるってどういうこと?」エペソ4:30~32 佐々木俊一牧師

■ロシアにおいては、第二次世界多戦後初めて、兵力増強のために動員令が発令されました。これから、100万人の兵士を招集する予定だと言うことです。それに対して、ロシア国民のある人々は戦争反対のデモを行ない、抵抗しています。すでに、1400人もの人々が逮捕されました。逮捕と共に即、徴兵された者もいるようです。またある人々は、徴兵される前に国外への脱出を計っています。多くの人々がすぐにも脱出しようとするものですから、航空運賃が大きく跳ね上がっています。国民の多くが戦争に反対であることは確実です。強権的なプーチンとその仲間たちへの恐怖心のために、多くのロシア国民が黙認しているだけなのです。

 プーチンは、ウクライナ戦争を始める時に、ロシア正教のキリル総主教のバックアップを得て、ウクライナ戦争を国民の前に正当化しました。これは、プーチンがイエス・キリストの御名の乱用によって始めた、いわゆるプーチン流の聖戦です。言うまでもなく、プーチンは神様の側に立つ者ではありません。神の御名の乱用は、実に恐ろしい罪なのです。

 中国の動きも気になるところです。最近、習近平は、戦争に備えることに焦点を合わせ、さらに軍備増強をするように指示しました。2049年までに世界一流の軍隊を目指すと言うことです。愚かな目標です。

 習近平は、中国共産党のイデオロギーを正当化するために、聖書のことばをも変えるような人です。旧約聖書にも新約聖書にも、神のことばに付け加えたり、取り除いたりする者に、神は災害を加えられると書かれてあります。習近平は神を恐れることを知りません。神なんていないと思っているのですから、仕方ありません。しかし、習近平のやっていることは、実に恐ろしい罪なのです。

 それでは、今日の聖書箇所を見て行きましょう。

■30節 「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」

 神の聖霊とは何でしょうか。ただ、単に聖霊と言ってもよいでしょう。聖霊とは何でしょうか。この質問は、もしかすると、大変失礼な言い方かもしれません。なぜならば、聖霊は神なるお方だからです。神は唯一なるお方です。しかし、神は、父と子と聖霊のお三方からなっておられるのです。唯一なのに3人とは、どう説明したらよいのでしょうか。

 三位一体と言うことばをご存知かと思います。この言葉は神学上の言い方で、聖書には出て来ません。しかし、たとえば、マタイ28:19で、イエス様はこのように言っています。

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、」とあります。「父、子、聖霊の名において」とは、「父の名において、子の名において、聖霊の名において」と言うことです。「聖霊の名」と言うことは、つまり、父なる神や子なるキリストと等しく、一つの人格として、子なるキリストであるイエス様でさえ認めていることなのです。

 聖霊は、私たちと同じように人格があるのです。それゆえ、悲しむこともあれば、喜ぶこともあるのです。「神の聖霊を悲しませてはいけません。」とあります。聖霊は悲しむのです。聖霊は私たちの何を悲しむのでしょうか。また、聖霊は私たちの何を喜ぶのでしょうか。一緒に見ていきたいと思います。

■31節 「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。」とあります。ロシアのプーチンやラブロフ外相を見ていると、ウクライナへの底知れぬ悪意を感じます。彼らの目的を果たすために、平気で噓をつきます。嘘の上に嘘を重ねて悪行をも正当化し、その嘘が真実であるかのように人々にアピールする様は、本当に悪意の極みであると思います。エレミヤ17:9にこう書かれています。  

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」

陰険とは、何となくわかりますが、どういう意味でしょうか。調べてみました。「表面上はよく見せかけて、心の内には悪意を隠している様」、だそうです。自分はそこまで酷くないよな、と私も思っていますし、たぶん、皆さんもそう思っているでしょう。しかし、聖書が、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」と書いてありますから、私たちがどんなに否定しようとも、それは真実なのだと思います。悪意とは、相手に対して良くない結果を望むことであり、その時に生じる心の中の思いや考えのことです。また、相手にとって嫌なこと、困ることとわかっていてそのように行動することです。どう考えても、私はそこまで酷くはないと思うかもしれません。悪意とは、相手が祝福されることを望まないことです。そして、祝福されないように行動することです。神様は、無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい、と言っています。しかし、それがなかなかできないのが、人間です。聖霊は、これらのことをとても悲しんでいるのです。ただ、悲しんでいるだけではありません。悲しみながらも私たちのために、聖霊は、うめきをもってとりなしてくださっています。

■32節 「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神もキリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」

 神様は互いに親切にしなさい、と言っています。互いにと言うのがキーポイントです。親切にしてほしいと思うなら、まず初めに自分が親切にしなければいけません。親切な関係を長続きさせたいのなら、互いに親切にし合うことが必要です。一方的な親切は続きません。みんなが神様に従って親切であろうと努めなければ長続きしないのです。優しい心で赦し合うことについても同じです。思い違いをしてはいけないことがあります。謝りもしないで赦されようとするのは、大間違いです。赦すと言うことは、謝ると言うプロセスがあってこそ成り立つことです。それがなければ、赦すという行為が単なる甘やかしになってしまいます。相手が悪いことをしたと言う自覚があって謝る時には、赦すことが神様の御心に従うことです。そうしてこそ、私たちは、互いに愛し、優しい心で赦し合える関係を築き上げていくことができるのです。

■私の父が召される前によく言っていたことが、兄弟仲良くやってくれ、と言うことでした。これは、親の切実な願いではないでしょうか。私は思うのですが、この願いは親心であって、天の父なる神様からきている思いだと思います。親は誰でも自分の子どもたちが仲良くしているのを見ることが喜びであると思います。天の父なる神様にとって、主にある兄弟姉妹が仲良くしているのを見ることが大きな喜びであることは言うまでもありません。

詩篇133篇にこう書かれています。

 「見よ。なんという幸せ、なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって、ともに生きることは。それは、頭に注がれた貴い油のようだ。それは、髭に、アロンの髭に流れて、衣の端にまで流れ滴る。それはまた、ヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」

 頭に注がれた貴い油も、ヘルモン山からシオンの山々に降りる露も、神様の豊かな祝福を表しています。兄弟姉妹が仲良く生きることは本当に幸せで楽しいことであり、神様はそれを見て大いに喜び、大いなる祝福を注いでくださるのだと賛美しているのです。

 主にある兄弟姉妹が仲良くやっている教会は、そのこと自体が祝福です。そのことによって、教会もそこに集うお一人お一人も、祝福を受けます。また、その教会は、外部の人々をも祝福します。互いに互いの祝福を願い、そのように行動する人々が集まる教会は、祝福されます。自分が集う教会を祝福する人々は、祝福されるのです。

■終わりに、エペソ4:30の後半のところを少しお話ししたいと思います。

 「あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」

 贖いの日とは、別の言い方で、終わりの日とか主の日、裁きの時を意味しています。先ほど、エレミヤ17:9をお読みしました。続く、17:10にこのように書かれています。

 「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれの生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」

 つまり、それぞれの行いによって主は人を裁かれるのだ、と言っているのです。それに対して、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されている人々は、そこをパスできるのです。なぜならば、聖霊による証印とは、テテレスタイ、つまり、罪に対する支払いが完了したことを意味する印だからです。私たちはすでにその証印を受けた者なのです。何という幸いでしょうか。その上、フリーパスで天の御国に入って行けるのです。すべてイエス様のおかげです。イエス様がすべての罪の代価を支払ってくださったからです。聖霊はそのしるしです。はんこです。私たちの内におられる聖霊がそのことを証明してくださるのです。そのようなお方を私たちは悲しませるわけにはいきません。ですから、私たちは、聖霊を悲しませるのではなくて、聖霊を喜ばせるために生きたいと思います。オープン・ドア・チャペルをますます主にある兄弟姉妹が仲良く住むところとするために、お一人お一人が努めて行くようにしていきましょう。それではお祈りします。