人はなぜ偉くなりたいのか!?

2022年9月11日主日礼拝「人はなぜ偉くなりたいのか!?」マタイ20:24~28 佐々木俊一牧師

■みなさんは、イエス様のいいところはどこだと思いますか。みなさんは、イエス様のどんなところが好きですか。こんな質問をすると、神なるお方に対して何と言うことを言うんですか、って言われそうです。でも、私はイエス様のいいところは、対等に向き合って話してくれるところだと思います。また、イエス様は、平等なお方だと思います。イエス様は誰に対しても、えこひいきをしたり特別扱いをしたりしません。また、イエス様のいいところは、偉いお方なのに偉そうでないところです。私は、偉そうな人は苦手です。とても緊張し、ストレスを感じます。でも、イエス様はそんなお方ではありません。とても話しやすいお方だと思います。ですから、私たちはクリスチャンとしてそのようなイエス様を見習いたいと思います。先日は、新しい人を着る、と言うメッセージをしましたが、そんなイエス様を私たちは着たいと思います。

 もしかしたら、学校や会社では多少なりとも偉くふるまわなければみんなが言うことを聞かない場合があるかもしれません。しかし、少なくとも教会では対等で、平等で、えこひいきのない、偉ぶる必要のない、話しやすいところでありたいと思います。また、キリストに従う者たちが集まるところは、そのような空気感のあるところにしたいと思います。そのためには、お一人お一人が新しい人を着たいと言う願いと、着ようとする意志と、そして、行動が必要なのだと思います。それでは、今日の箇所を見て行きましょう。

■24節「このことを聞いたほかの10人は、この二人のことで腹を立てた。」

 ほかの10人とは誰のことで、この二人とは誰のことなのでしょうか。今日はお読みしなかったのですが、前の節を読むと、この二人はゼベダイの子と呼ばれているので、12弟子の中のヨハネとヤコブのことです。彼らは兄弟です。そして、ほかの10人とは、ほかの弟子たちです。ほかの弟子たちはなぜ腹を立てたのでしょうか。それは、ヨハネとヤコブの母がイエス様のところに来て、一人をイエス様の右に、もう一人をイエス様の左に座れるようにしてください、とお願いしたからです。つまり、イエス様の右と左と言うことは、ほかの誰よりも偉くしてくださいと言うことです。今の世の中にもよくあることです。親は自分の子どもの出世を望むものです。それを聞いたほかの10人の弟子たちも、結局のところ同じように、その地位を狙っていました。自分こそが一番偉い人でありたいと思っていました。フェアでないやり方で先を越されれてしまったので、彼らは腹を立てたのです。

■25節 「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。』」

 イエス様はここで、社会の現実を的確にとらえています。当時としては当然のことであったと思いますが、しかし、誰もが感じていた社会の不条理を明快にイエス様が言葉にしてくれました。昔も今も、どの時代でも、また、世界中のどの国にも見られるこのような不条理は、明らかにイエス様の価値観とは違っていました。こう言うところがイエス様の素晴らしいところであると思います。弟子たちにとって、このようなイエス様の見方がとても新鮮であったに違いありません。

 人が支配する立場になると、また、人が権力を握ると、人はだいたい横柄になり、権力をふるうようになります。いつの時代も、どの国も、そのような人々がいました。そして、現在、この21世紀になっても、そのような支配者や権力者がなんと多いことでしょうか。中国の習近平は約束を破り、強硬なやり方で香港の人々の権利を奪い取りました。また、ロシアのプーチンは自分の野望のためにウクライナの領土に軍事侵攻し、多くのウクライナの人々の命を奪い、彼らの財産と日々の生活を破壊しました。ロシアにおいては反戦運動をする者たちを捕え、恐怖と情報操作でロシア国民をコントロールしています。北朝鮮の金正恩、ミャンマーの軍事政権、アフガニスタンのタリバン政権、他にもアジア、アフリカ、中東、南米にそのような国がいっぱいあります。21世紀においてさえ、なんと多くの人々が権力者の下、恐怖に縛られて自由に意見も言えず、身を守るために嫌でも従わざるをえない状態にあることでしょうか。

 力による支配や横柄なふるまいは、国家の支配者や権力者に限ったことではありません。もっと小さな集団の中でも行われています。たとえば、会社や学校においてもそうです。家庭においてもそうです。パワーハラスメントやドメスティックバイオレンスの問題です。今話題になっている世界平和統一家庭連合(旧統一教会)もそうです。人間は、昔も今も変わっていません。なぜでしょう。それは、今も昔も人は罪人だからです。ここで罪の根源に焦点を当ててみたいと思います。

■イザヤ14:12 「明けの明星、暁の子よ。どうしておまえは天から落ちたのか、国々を破った者よ。どうしておまえは地に切り倒されたのか。お前は心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』だが、お前はよみに落とされ、穴の底に落とされる。」

 この箇所は誰のことについて言っていると思いますか。バビロンの王に対して言われている言葉ですが、その中で悪魔(サタン)のことについて言っています。悪魔は、神様の被造物です。神様の被造物でありながら、神様のように礼拝される対象になろうとしました。罪の根源は、ここにあるのです。神様のように偉くなろうとしたことです。この罪は、最初の人、アダムとエバが悪魔に誘惑された理由でもあるのです。善悪の知識の木の実を食べると神様のようになり、賢くなる。つまり、偉くなると言う悪魔の語った言葉に、まずエバが引っかかり、そして、アダムも引っかかってしまいました。確かに、その実は彼らを賢くしました。しかし、その時から悪魔の支配が始まったのです。こうして、人間には悪魔の性質が反映されるようになりました。イエス様が言ったように、支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるうようになりました。

 人はなぜ偉くなりたいのか。そのヒントが、イザヤ14:12、そして、創世記3章にあると思います。人は自分を賢くすることに大変興味があります。それによって人々の賞賛を受ける、偉い人になることに憧れます。それは、人が悪魔に誘惑されて悪魔の言うことに従って以来、神様のように偉くなろうとした悪魔の野心が人の心の内にも反映されるようになったからです。意識的であろうと無意識的であろうと、多くの人々によって悪魔の野心が歴史の中で繰り返されてきました。過去も、現在も、未来も、支配者や権力者たちは、人々に対して横柄にふるまい、権力をふるうのです。

■26節~27節「あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」

 イエス様は、「あなたがたの間では、そうであってはなりません。」と言いました。「そうであってはなりません。」とはどういうことでしょうか。前の節に、「支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。」とありますから、あなたがたの間では、支配者たちのように横柄にふるまったり、権力をふるったりするようなことをしてはいけません、と言うことです。社会的に偉いからと言って、人に対して横柄にふるまったり、権力をふるったりすることは、イエス様の視点からすると的外れな行為です。イエス様の時代、こう言ったことはローマの役人や宗教指導者の中にたくさん見られた行為であって、日常の普通の出来事でした。しかし、イエス様は、上に立つ者がそんなことをしていてはいけないと言っているのです。それでは、どうしなさいと言っているのでしょうか。偉くなりたい、高い地位につきたい、指導的立場に立ちたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい、皆のしもべになりなさい、と言っています。

 弟子たちが描いていた偉い人々へのイメージは、どのようなものであったでしょうか。当時の偉い人々、ローマの支配者層やユダヤ人指導者を見てそのイメージは作られていたのではないでしょうか。彼らはだいたい命令や指示を出すだけで、実際に動くのは下々の者でした。彼らは労することもなく、日々、豊かな生活を楽しんでいました。彼らには多くのしもべがいて、掃除、洗濯、食事作り、汚い仕事や面倒な仕事はすべてしもべたちがやってくれました。言いたいことを遠慮したり、自分を低くしたりする必要もなく、何でも思い通りに進め、いつも威張っていられたのです。イエス様が言われたように、彼らは横柄にふるまい、人々の上に権力をふるうことのできる立場にありました。弟子たちが偉くなりたかった理由は、何でも自分の思い通りにできて、多くのしもべに仕えられるからです。彼らの偉い人へのイメージは、イエス様の言ったこととはまったく逆だったのだと思います。

 イエス様の指導がなければ、誤りだらけの指導者像によって彼らは神様の働きをするところでした。しかし、弟子たちはイエス様から学んだのです。上に立つ者は、仕えられる心ではなくて、仕える心を持つ必要があります。上に立つ者は、自分を高くするのではなくて、自分を低くしなければなりません。このような姿勢をもって、神のみこころをなしていくのです。神のみ国はこの姿勢によって築かれて行きます。このような弟子たちが増えれば増えるほど、この地上に神の御国の風を起こすことができるでしょう。

■28節「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のために贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」

 イエス様が、私たちクリスチャンの模範です。私たちは、日々イエス様を模範にして歩むように導かれています。しかし、私たちは人のために罪の贖いの代価として自分のいのちを与えることはできません。もしも、自分のいのちをそのために与えたとしても、イエス様が成し遂げたように、人々に永遠のいのちを与えることなどできません。これは、イエス様が神なるお方であり、本物の偉いお方であるからできることです。私たちはそのようなものではありません。しかし、そうだとしても、イエス様を見習って、私たちにもできることがあります。福音宣教のために、戦争や飢餓で苦しんでいる人々のために、貧しい国々の人々のために、私たちのお金、私たちの時間、私たちの能力など、ささげることのできるものはたくさんあります。9月と10月は、特にウクライナの人々を覚えて彼らのために献金を捧げることを決めました。祈りと献金をもって、微力ではありますが、彼らを支援していきたいと思います。

■終わりに、みなさん、Everybody Wants to Rule the World(すべての人が世界を支配したいと思っている)と言う歌を知っているでしょうか。1985年に流行った歌で、イギリスのロックグループ、Tears For Fearsと言うグループの歌です。あなたの人生へようこそ!歓迎します!あなたはもう後戻りはできません。そんな歌詞で始まります。すべての人が世界を支配したいと思っている、という歌詞が凄く印象的です。何もかもがいつまでも続くものではない。人生ははかないもの。なのに、すべての人が世界を支配したいと思っている。そんな感じの歌だったと思います。すべての人が世界を支配したいと思っているとは、すべての人が自分の思う通りに世界を動かしたいと思っている、と言うことではないかと思います。

 この地上の何もかもがいつまでも続くものではありません。いつか終わりが来ます。私たちの人生もそうです。なのに、人は自分の思う通りに世界を動かすことに憧れと執着心を持っているように思います。しかし、そんなことよりも、もっと重要なことが現実にはあるのです。マタイ16:26に、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」とあります。この地上で偉くなって思い通りに世界を動かせたとしても、自分のいのちを失ったら何の益にもなりません。イエス・キリストは、私たちに永遠のいのちを与えるために、この地上に来られました。そして、私たちの罪の代価を支払うために十字架にかかって死んでくださいました。「人はなぜ偉くなりたいのか!?」偉くなって思い通りに世界を動かすことよりも、もっと重要なことが私たち人間にはあるのです。それは、永遠のいのちを受けることです。私たちはすでに永遠のいのちを受けています。ですから、私たちは、この地上の残りのいのちを、仕えられるためではなくて仕えるために、そのような心を持って歩んで行きましょう。私たちはもう偉くなる必要はありません。私たちは、何よりも受けるべき大切なものをもうすでに受けているからです。もしも、この地上で偉くなることを目指すならば、仕えられるのではなくて、仕える心をもって、神様のみ名がほめたたえられるように進んで行きましょう。それではお祈りします。