新しい人を着る

2022年8月28日主日礼拝「新しい人を着る」エペソ4:17~29佐々木俊一牧師

■17節 前の文脈でパウロはキリストのからだ、つまり教会に組み合わされた異邦人クリスチャンたちが、それぞれの分に応じて共に働くことにより、成熟したクリスチャンへと成長して行くことについて語っていました。そして、17節になると、ここからはその成長を妨げるいくつかの事柄について語っており、そのような生き方をしないように注意を促しています。パウロは、主にあって厳かに勧めますと言っているので、これはかなり強い口調で言っていることです。「異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。」むなしい心とはどんな心でしょう。それは、ただ害となるだけで何の益にもならない心のあり方です。それは、創造的な心のあり方ではなくて、破壊的な心のあり方です。それは、私たちがキリストに似た者として成長して行くことを妨げる心のあり方なのです。そのような心のあり方について、18節以降を見ると具体的に書かれています。

■18節~19節 パウロは、むなしい心で生きている異邦人たちは知性において暗くなっているのだ、と言っています。知性において暗くなっているとは、周りが暗くなると人や物がはっきり見えなくなるように、霊的な事柄や神様の事を認識することが困難になっていることです。そのため、彼らは神様を知ることもなく、心が頑ななために、真理を聞いてもまったく受け付けようとせず、ますます神様のいのちから遠く離れて行ってしまうのです。その結果、罪に対して無感覚となり、彼らは好色に身を任せてありとあらゆる不品行な行為を貪るようになってしまいました。これは、今も昔も変わりはなく、現代社会においても同じことが言えるのです。

■20節~21節 ここでパウロは、エペソの教会の人々に、むなしい心で生きる異邦人たちの生き方は、私たちクリスチャンの生き方でないことを確認しています。キリストの救いが行ないではなくてキリストを信じる信仰によると言うことには何の異論もありません。しかしながら、キリストの救いを受けている者はむなしい心で生きる生き方から自由にされていること知る必要があります。イエス・キリストの救いを受け、イエス・キリストに従う者の生き方は、キリストへの誓いのゆえに、変えられて行くものなのです。それでは、その教えについてもう少し深めていきましょう。そして、その教えによって、私たちはどのようにして変えられて行くのかを見てみましょう。

■22節 「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること」とあります。私たちがクリスチャンになる前は、私たちの生き方に大きな影響を与えていたものが情欲です。情欲と言うのは単に性的なことに限られたことではありません。物や事に執着し、それを貪ることなのです。情欲は私たちをうまくだまし、そのことに執着させます。そうしなければ生きて行けないかのように思わせるのです。こうして私たちは、情欲によって悪い習慣や癖を身に着けてしまうことになるのです。私たちは、これらの悪い習慣や癖、つまり古い人を脱ぎ捨てるように強く勧められています。ここで言っておきますが、全人格的に否定しているのではありません。私たちが身に着けたものの中には、もちろん、良い習慣もあることを認めます。

■23節~24節 「また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。」とあります。他の聖書もいくつか読んでみました。「あなたがたが霊と心において新しくされ続け」とありますが、霊は、イエス・キリストを信じた時に新しくされているのですから、このところの訳は他の聖書を採用したいと言うのが私の考えです。新共同訳では、このところは、「心の底から新しくされて」となっています。英語の聖書NIVでは、「心の態度において新しくされて」となっています。そして、その続きは、新共同訳では、「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」となっています。こちらの方が分かりやすいかもしれません。

 私たちはどのように古い人を脱いで、新しい人を着たらよいのでしょうか。何事も言うのは簡単ですが、行なうのは難しいのです。しかし、行なうのは難しいかもしれませんが、できないことではありません。ただ、行ない続けることはかなり難しいと言えます。

 それでは、古い人を脱いでみましょう。どうしたら古い人を脱げるのでしょうか。それは、新しい人を着たら同時に古い人を脱ぐことになると言うことです。新しい人を着ることによって、私たちは古い人を脱ぐことが出来ます。しかし、新しい人を着続けることは簡単なことではありません。意識して新しい人を着続けなければ、いつの間にかまた、古い人を着ていると言うことになりかねません。私たちは意識して新しい人を着続ける必要があります。そうするならば、いつか私たちは意識しなくても新しい人を着ることが普通のことになるでしょう。新しい人とは私たちにとって、良い行ないであり、それを続けて行くときにそれは良い習慣となるのです。

 結局、それは自分の力で行なっているのではないだろうか、と思われる人もいるかと思います。しかし、そうではありません。これは、神様と自分との協働作業です。神様と共に目標に向かって働くことなのです。私たちはキリストを信じることによって霊において新しくされました。私たちの内には聖霊が住んでおられます。聖霊は私たちにとって常に助け手です。私たちは新しい人を着ること、つまり、良い行ないをすることにおいていつも成功するわけではありません。時には失敗することもあるのです。良い行ないを意識して行うことに疑問を感じたり、疲れてしまったりすることもあるでしょう。状況によっては古い人を着るように誘惑されたりすることもあるでしょう。新しい人を着ること、良い行ないをすることに失敗しない人は誰もいません。ですから、私たちは自信を失なったり、否定的になったり、消極的になったり、悲しくなったり、嫌になったりすることもあるのです。でも、そのような時に、聖霊は私たちを助けてくれます。たとえば、失敗で落ち込んでいる私たちが神様に祈ると、そんな自分でも神様は見捨てることなく受け入れてくれていることに気づかされます。また、聖書を読む時も同じです。そこにある神様のことばによって、私たちは慰めや励ましや導きを受けて、再び立ち上がって歩き始めるのです。それは聖霊の働きです。聖霊を通して私たちは、神様の愛や神様の赦しにふれ、神様がどのようなお方かを知って行くことができるのです。

 それでは、25節からパウロが言う、私たちが着るべき新しい人のいくつかの例を見て行きましょう。

■25節「あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。」このところを読んで、皆さんはどう思われるでしょうか。私は、エペソの教会では、パウロがこんなことまで言わなければならないほどに、教会の中でお互いにだまし合っていたのだろうか、と正直思ってしまいます。

 現実的に考えて、教会の中で起こり得るとしたら、噂話や作り話の問題があります。ありもしないことが事実であるかのように教会の中で広がってしまい、ある人々が大変傷ついてしまう場合があります。また、事実であったとしても、守られるべき人のプライバシーのゆえに、言ってはならないこともあります。反対に、はっきりと事実を事実として示さなければ、被害が広がってしまったり、教会に悪い影響がおよんだり、などと言うことも起こり得ます。このような場合の判断は大変難しいものです。

 主にある兄弟姉妹の間において、私たちは互いに、誠実であるべきです。隣人に対して真実を語るということは、隣人に対する誠実な態度を表しているのではないでしょうか。誠実とは、偽りがなく、真心をもって人や物事に対することです。このような誠実さは私たちの新しい人です。誠実さと言う新しい人を私たちは身につけたいと思います。そうするならば、私たちは、不誠実と言う古い人を脱ぐことが出来ます。そのように努めていきましょう。

■26節~27節「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。」怒ること自体は罪ではありませんが、怒りを持ち続ける時、悪魔に突き入る機会を与えてしまうことになります。怒りを持ち続けると、いくつもの破壊的な感情がセットになって心の内に湧いてきます。憎しみや苦々しい思いや嫌悪感なども怒りの中に入り混じって来るのです。悪魔はそんな気持ちを何倍にも増幅することが出来ます。最初はそこまで大きくなかった怒りが、次の日になると何倍にも膨れ上がっていると言うことがあるのです。

 怒りに対して、私たちの新しい人とは何でしょうか。それは、和解です。できるだけ早く仲直りすることです。そして、自分の内に平安を得ることです。怒る側も怒られる側もそのことに気づかされたのなら、即、仲直りするようにしましょう。

 自分は和解したくても、相手にその気がない場合はどうしたらよいのでしょうか。その場合は神様に任せる姿勢が大切です。神様に任せる態度も私たちの新しい人です。怒られる側に反省の様子が微塵もないとしても、怒る側は神様に任せる姿勢が大切です。復讐は神様がなさることで、私たちがなすことではありません。神様に任せれば、必ず神様が働いてくださいます。こういう時は祈りましょう。相手に問題がある場合には、具体的にその問題を神様に訴えてください。そうするなら、神様が必ず働いてくだり、神様が相手を取り扱ってくださり、相手を変えてくださいます。神様のみわざを信じましょう。

■28節「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。」エペソの教会にはいろんな人がいたようです。神様はイエス・キリストを救い主として信じるならば、いかなる人も救ってくださいます。盗みを常習的に行なっていた人でも、悔い改めてイエス様を救い主として受け入れるならば、神様はその人の罪を赦し、神の子として受け入れてくださるのです。しかしながら、長年常習的に盗みをしてきた者は、盗むという行為が癖のように自分にしみついていて、やめたくてもやめられないほどにその悪癖に縛られている場合があります。しかし、神様にはできないことはありません。このような悪習慣に対しても新しい人を着て対応するようにパウロは言っています。その新しい人とは、困っている人たちのために何か役立つことをやることです。世の中には自分よりもっと困っている人々がいるのです。その人々のことを覚えて、まずは自分で仕事をし、自分の生活費を稼ぐことはもちろんのこと、仕事をして稼いだお金をできる限り困っている人々のために使うのです。そうすることによって、その人はいつか必ずその悪癖から自由にされることでしょう。

■29節「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」悪いことばを、いっさい口から出さないように、とパウロは強い口調で言っています。悪いことばとはどんなことばのことを言っているのでしょうか。5章を見るとそのヒントとなるようなことが書かれています。たとえば、わいせつなことばや下品な冗談、愚かなおしゃべりです。愚かなおしゃべりとは、噂話や作り話の類でしょうか。また、4章31節を見ると、悪意あることばもあるのではないでしょうか。人を馬鹿にしたり、人をおとしめたりするようなことばは、悪意あることばです。これらは私たちにとっての古い人です。それに対して新しい人とはどんな人でしょうか。それは、人の成長に役立つことば、人の徳を高めることばを語る人です。私たちは、そのように人を祝福することばを語る人を身につけたいと思います。

■終わりに、聖書を一カ所お読みしたいと思います。ガラテヤ3:27「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」

 古い時代に血の契約と言うのがありました。この契約を結ぶ際に、その儀式にはいくつかのステップがありました。その中に、お互いの衣服を交換すると言うステップがありました。Ⅰサムエル18:4に見るように、ダビデとヨナタンの間の契約もそのようなステップを踏んだ例ではないかと思います。「古い人を脱ぎ、新しい人を着る」とか、「キリストを着る」、と言った表現は、この契約を交わすときの儀式と関係のあることであると私は思います。私たちとキリストの間には、契約関係があります。その関係によって、私たちはキリストを着ました。それによって、私たちは罪の裁きを受けなくてよいようにされたのです。さらに、私たちを神の子として迎えてくださいました。将来、私たちは天の御国を相続することになっています。それはすべて、私たちが契約によってキリストを着たからです。この祝福は何にも比べることのできないほどに、本当に大いなる祝福です。

 それに対して、キリストは私たちを着ました。キリストはそれによってどうなりましたか。十字架に架けられて殺されました。それは、キリストが私たちの罪と言う着物を着てくださったからです。私たちの罪そのものとなってキリストは十字架の上で処分されたのです。しかし、キリストは神様ですから、死の力を打ち砕いて復活されました。キリストを信じる私たちもまた、復活します。何から何までキリストにお世話になっている私たちです。私たちはキリストを着ている以上、新しい人を着て、生涯、キリストに従っていきたいと思います。それではお祈りします。