キリストの賜物を活かす

2022年7月24日主日礼拝「キリストの賜物を活かす」エペソ4:7~16 佐々木俊一牧師

■統一協会のことが今話題になっています。昔の正式名は世界基督教統一神霊協会と言いました。現在は、名称が変わって、世界平和統一家庭連合になっています。昔から社会問題を引き起こし来たグループです。韓国で始まったキリスト教系の異端であり、カルト集団です。キリスト教会の牧師の中には統一協会からの脱会を助けるための働きに携わっていた人が多くいました。しかし、マインドコントロールが強く、奪回させることが非常に困難だと聞いていますし、奪回したとしてもまた戻るケースが多いとも聞いていました。クリスチャンが騙されて入信してしまうケースもありました。

 教祖の名前は、文鮮明です。文鮮明の著書を買ってほしいと言ってオープン・ドア・チャペルに信者がやって来た事もあります。文鮮明は、自分の事を再臨のキリストと言っていましたが、2012年9月に亡くなりました。その後、世界平和統一家庭連合と言う名前に変えて活動を続けているようです。まったく、名前の実質を表していない団体であることは確かです。世界や家庭の平和どころか破壊をもたらしています。文鮮明とは、まったくの偽キリストそのものです。私たちは、偽の教えに振り回されないように、偽物と本物を見分ける力を日頃から養う必要があるのではないでしょうか。

 それでは、今日の聖書箇所を見て行きましょう。

■7節~9節 「しかし、私たち一人ひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました」とあります。これは、どういうことなのでしょうか。キリストが考えもせずにただ無秩序に恵みを与えた、と言うことではありません。秩序正しく、きまりに従って与えたのです。たとえば、平等にとか、役割に従ってとか、成長の段階に応じてとか、です。具体的に、キリストの賜物の量りとはこういうものです、とは言えませんが、何か基準があるのだと思います。それに従って、キリストは一人ひとりに恵みを与えたのです。恵みはギリシャ語でカリスと言います。カリスマになると賜物、ギフトという意味になります。

 8節は、詩篇68:18からの引用です。詩篇68:18がどんな出来事を指しているのかと言うと、いくつかの解釈がある中で、それは、モーセがイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放するために出エジプトを行なったときのことと考えてよいのではなかと思います。イスラエルの民はエジプトから出る際に、エジプト人から金銀や多くの貴重な品々を勝ち取って約束の地に向かって出発することが出来ました。エジプトで長い間奴隷であったイスラエルの民は、エジプトから出る時には、エジプトの多くの価値あるもので大変豊かになっていたのです。後になって、それらは、イスラエル人の間で神の住まいとなる幕屋を作るための材料として大いに用いられました。

 さらに、パウロはこの詩篇68:18のことばをキリストについての預言的なことばとして用いています。神の御子として、天におられたキリストが、人となって地上に来られました。その目的は、この地上においてサタンの奴隷状態にあった人類を救い出すことです。救いの道を完成させることがキリストのミッションでした。キリストは私たち人間の罪の代価を支払うために、まったく汚れのない、人となった神の御子の血潮を十字架の上に流して死んでくださったのです。キリストのミッションはこれで終わりではありませんでした。キリストは死の世界にまで下り、死の力を持つ悪魔に勝利し、よみがえられました。この勝利によってキリストが勝ち取ったものがあるのです。何よりも、まず第一に、キリストを信じる者たちのために死に勝利し復活するという道を開いてくださったことです。これは、いわゆる分捕りもの、戦いにおいて勝ち取った戦利品です。この戦利品が、キリストが信じる者たちに分け与える賜物です。天に戻られたキリストは、天から聖霊を注がれました。こうして聖霊は地上に下られ、信じる者たちのうちに住まわれたのです。それがペンテコステの出来事です。

 イエス様は、この聖霊をすべての人に気前よく与えたいのです。詩篇68:18に、「頑迷なものにさえ、贈り物を与えられた」と書いているようにです。この詩篇68:18に関連した旧約の出来事として、もう一つ興味深い話があります。Ⅰサムエル30章にあるダビデについての出来事です。

 ある日、ダビデとその部下たちが戦いを終えて町に戻ってみると、町は大変なことになっていました。アマレク人によって町が襲われていたのです。彼らの家族はみな連れ去られてしまいました。部下たちはこのことでダビデを責め、石で撃ち殺そうとしました。しかし、ダビデはそのような苦境の中にあっても挫けることはありませんでした。神様にどうしたらよいのかを尋ね求めたのです。神様の答えは、「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」でした。ダビデは神の言葉に聞き従い、部下たちを従えてアマレク人たちの跡を追いました。しかし、その途中、部下の半分が疲れ切ってしまい、もう動くことができなくなってしまいました。それで、疲れ果てて動けなくなった者たちは川の近くにとどまって荷物の番をすることになりました。体力のある部下たちはさらにアマレク人の追撃を続けました。そして、ついに追いついてアマレク人を撃退し、奪われた家族とすべての財産を取り戻すことができたのです。それに加えて、アマレク人たちの財産であるたくさんの牛や羊をも奪うことができました。

 ところが、これらの戦利品を分けるときに、最後までダビデと一緒に追撃した者たちが、戦利品はすべて自分たちが受けるべきで、途中脱落して荷物の番をしていた者たちには受ける権利はないと主張しました。しかし、ダビデは、その主張に反対しました。「主が勝利させてくださり、主が与えてくださった物をそのようにしてはならない。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も、みんな同じだ。」とダビデははっきり言ったのです。戦利品の分け前に対するダビデの量りは、神様の量りを表すものです。ダビデをとおして、私たちは分け前に対する神様の思いを知ることができます。つまり、神様はみんなに等しく、そして、気前よく分け前を与えたいと願っているのです。

■11節~12節 私たちには生まれつき既に与えられている賜物があります。それは、すべての人に与えられています。また、生まれてから学びや訓練や努力によって与えられた賜物もあります。また、キリストを信じた後に聖霊によって与えられる賜物もあります。聖霊の賜物と言われるものです。聖霊の賜物については、Ⅰコリント12章に詳しく書かれています。たとえば、知恵のことば、知識のことば、信仰の賜物、いやしの賜物、奇跡を行う力、預言の賜物、霊を見分ける力、異言の賜物、異言を解き明かす力等です。また、読み進めていくと、使徒、預言者、教師、援助、管理等、これらのものも聖霊の賜物としてあげられています。ですから、11節にある、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師、これら五職の働きも聖霊の賜物によるものなのです。  

 賜物の目的は、12節に、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」とあります。教会に与えられている賜物の目的は、聖徒たちを整えることです。聖徒とは誰のことでしょうか。私たち一人一人のことです。私たちクリスチャンは言い換えると、聖徒です。クリスチャンは、神様によって聖別された人々なのです。教会に与えられている賜物によって、私たちは整えられるのです。

 たとえば、教師と言う賜物について考えてみましょう。この教会では、メッセージをするのは牧師だけではありません。信徒の方々も行っています。ユースメッセージも含めると、オープン・ドア・チャペルでは15人くらいの人がその働きに関わっています。メッセージをするというのは、重要な牧会の働きです。メッセージを聞いて私たちは、力を受けたり、慰めや励ましを受けたり、希望が湧いてきたり、進む方向性が示されたり、時には罪が示されて悔い改めに導かれたりします。メッセージによって、私たちの思いや感情や信仰が整えられます。誰が一番整えられるかというと、それは、メッセージを用意する人が一番整えられるのではないでしょうか。ですから、メッセージを聞くだけではなくて、メッセージの奉仕をすることによっても私たちは整えられるのです。そして、奉仕には他にもいろいろあります。毎週、多くの人々が奉仕をしてくれるので、今日このようにして礼拝の時を持つことができています。それらの奉仕を担当しておられる方々もまた、それらの奉仕によって整えられているのです。そして、この礼拝の場もまた、私たち一人一人が整えられる場であります。本当に感謝なことです。これらの奉仕と賜物はキリストのからだを建て上げるために用いられているのです。キリストのからだとは、教会のことです。教会とは、教会の建物以上の意味があります。教会とは、キリストによって召し集められた人々の集まりであり、教会とはそこに属するお一人お一人のことです。最小単位のお一人お一人が建て上げられることによって、一つの集まりとしての教会もまた建て上げられて行きます。私たちに与えられている賜物の役割は、クリスチャンお一人お一人を整え、それによってキリストのからだである教会を整えることです。

■13節~15節 さらに、賜物の働きをとおして私たちが目指すべき方向性についてパウロは語っています。私たちは信仰の一致へと導かれるために、神の御子についての正しい知識を共有することが必要です。パウロが生きていた時代には、私たちが今持っているような聖書はありませんでした。そのような中で、神の御子に関する知識の一致や信仰の一致を保つことは今では考えられないほどの難しさがあったのではないかと思います。現在のキリスト教界においては、教派ごとの些細な違いはあっても、福音の中心である神の御子に関する知識については一致しているものと考えます。しかしながら、今話題になっている統一協会をはじめ、多くの異端と言われているキリスト教系のカルト集団には、似たところはあっても異なる神観や救済論があるので、それらのことを見分けるためにも本物をしっかりととらえておく必要があります。

 また、正しい知識を身に着けるだけではなくて、私たちは私たちの模範であるイエス・キリストを見上げつつ、キリストに似た者へと変えられて行くことを私たちの目指すべきところとしていきたいと思います。

■16節 今日のメッセージの中心となるみことばです。「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」

 16節を読むときに、どのようなイメージを持たれるでしょうか。人の体が成長して行く過程を私はイメージします。しかし、詩篇139:13~15にあるような、母の胎の中で形造られる胎児のイメージではなくて、生まれて来た一人の人がだんだんと成長して大人になって行く様子をこのところに見るのです。それもある程度大きくなった子どものイメージです。自分で自分のことが何もできない幼児ではありません。

 16節の初めに、「キリストによって」とあります。キリストによって、何がどうなるのでしょうか。それは、キリストによって体全体が建て上げられるのです。つまり、成長するのです。このところにおいて、私たちは何もしないでただキリストにまかせておけばよいのでしょうか。いいえ、違います。それぞれの分に応じて働くように言われています。そうすることによって、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、そして、成長するのです。教会は、それぞれに神様が与えている賜物に応じてその分を用いるならば、成長するのです。教会を建て上げるために必要なことは、神様があなたに与えている賜物をその分に応じて用いることです。お一人お一人が用いられることに着眼するのではなくて、お一人お一人が神様から与えられている賜物を用いることに着眼するのです。私たちが賜物を用いることで私たちが注目されることを目指すのではなくて、私たちが賜物を用いることで神様が注目されることを目指すのです。これは、イエス様がこの地上で働きをなした時のスタンスです。

 もう一つ大切なことがあります。16節の後半に、「愛のうちに建てられることになります」とあります。神様が与えた賜物をただ用いるだけでは十分ではないようです。「愛のうちに」ということが重要です。エペソ4章において、7節からは教会を建て上げるために教会に与えられている賜物の目的を知って、それらを用いることの重要性について述べていますが、その前の節、1節から6節においては、それらを用いたり行なったりするための姿勢や心構えについて書かれています。1節から6節をまとめると、「愛のうちに」ということを言っているのだと思います。謙遜と柔和の限りを尽くすこと、寛容を示し、愛をもって互いに忍耐し合うこと、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保つこと等々、これらのことを心に留めることは、私たちが愛のうちに行動するために大切なことです。

 「キリストによって」とは、キリストのように賜物を用い、キリストを模範として謙遜に、柔和に、寛容に、愛をもって働くことです。キリストは私たちを通して豊かに働いて、教会を建て上げるのです。

■お一人お一人がキリストに似た者と成長していくことは、つまり、成熟したクリスチャンが増えて行くことは、教会全体の成長へとつながって行きます。教会が建て上げられるために必要なことの一つは、より多くのクリスチャンがキリストに似た者へと成長することです。そして、二つ目は、それぞれが受けた賜物に応じてその賜物を用いることです。賜物と言うのは、用いれば用いるほど、神様は与えてくださいます。私たちは与えられた賜物をただ用いるのではなくて、愛をもって用いるのです。そうするならば、愛のうちに教会は成長して行くのです。

 教会に、どんなに優れた能力が与えられていたとしても、どんなに素晴らしい聖霊の賜物が与えられていたとしても、謙遜や柔和や寛容や愛や忍耐や平和といった御霊の実の乏しいところでは、キリストから分けていただいた賜物を活かすことはできません。けれども、謙遜や柔和や寛容や愛や忍耐や平和といった御霊の実の豊かなところではキリストからいただいたいかなる賜物も活かすことが出来ます。賜物は御霊の実とセットになってこそ用いられるようです。私たちはみな、キリストからいただいている賜物があります。このキリストの賜物を活かしましょう。喜んで用いましょう。そうするならば、私たち一人一人も、また、私たちの教会も、成長していきます。それではお祈りします。