愚かな娘と賢い娘のたとえ話

2022年7月10日主日礼拝「愚かな娘と賢い娘のたとえ話」マタイ25:1~13 佐々木俊一牧師

■日本も世界も、社会情勢の不安定化が進んでいるように思います。私たちも日常の安全に対する危機管理のために祈る必要があるように思います。コロナの状況について言うならば、最近、コロナがやっと落ち着いてきたので良かった、と思っていました。けれども、それは1、2週間だけのことでした。また、全国的に感染が増加しているようです。いつになったら終わるのかなあ、いつになったらコロナがただの風邪になるのかなあ、と正直思ってしまいます。ウクライナ戦争も同様に、いつになったら終わるのかなあ、早く終わるといいのになあ、と思ってしまいます。私たちは、コロナ終息のためにもウクライナの平和と復興のためにも、今までずっと祈って来ました。しかし、まだまだこれからも、忍耐深く祈り続ける必要があるようです。

■今日の聖書箇所は、「愚かな娘と賢い娘のたとえ話」です。ここ20年くらいの間、このところから、私自身、メッセージを語ったことがありません。また、他の人が語るのを聞いたこともありません。クリスチャンになって間もない頃、まだ20代の時には、このたとえ話を教会学校でも大人のメッセージでもふつうに聞いていたのを覚えているのです。いつからか、このところからのメッセージは、語るのも聞くのも、あまり良いイメージが持てなくなっているように思います。何かしら、脅しているような、また脅されているような気持ちになるからかもしれません。このように、聞こえの悪い不都合な聖書箇所は、人々から嫌がられる傾向があります。しかし、そうであったとしても、このところが神の啓示であることを否定したり、聖書から削除したりするような行為には、今のところ至ってはいません。ただし、中国共産党に関して言うならば、聖書の内容を彼らの思想に反しないように書き変えていると言うことは聞いたことがあります。現在、日本においては憲法改正と言うことが叫ばれています。将来、世の人々、あるいは、クリスチャンが、聖書改正などと言い始めることがないように願います。

■2021年11月17日(水)、富田敬二元牧師が天に召されました。1926年(大正15年/昭和1年)生まれでしたので、95歳と9カ月でした。因みに、私の母は1924年(大正13年)生まれで、97歳と8カ月まで生かされました。2010年7月18日の主日礼拝で、富田先生にメッセージをしていただきました。この時のメッセージタイトルが「うしろの戸を」、創世記7:16の後半からでした。「それらは、神がノアに命じられたとおりに入った。それから、主は彼のうしろの戸を閉ざされた。」 

 神様が命じられた生き物すべてが箱舟に入ると、ノアのうしろ側にあった箱舟のドアが閉まりました。ノアが閉めたのではなくて、神様ご自身が閉めたのです。これで、箱舟の中は安全な場所であり、しかし、箱舟の外は大洪水に襲われ、それはすべてを破壊する恐ろしい世界となっていました。この時に、富田先生は、いくつかの漢字を書いて、その形や意味が聖書の影響を受けているという、とても興味深い話をしていたのを覚えているでしょうか。たとえば、「世」と言う漢字は、三つの十字架からなっています。それは、イエス様が十字架にかかって死んだときにその両側で二人の囚人も十字架にかかって死んだからです。世と言う漢字は、イエス様の十字架と二人の囚人の十字架を表していると言うのです。この二人の囚人はすべての世の人々、罪人たちの象徴なのです。一人はイエス様を信じましたが、もう一人は信じませんでした。しかし、イエス様は信じた者のためだけではなくて、信じなかった者のためにも十字架にかかって死んでくれたのです。イエス様は、信じる人のためにも信じない人のためにも、みんなの罪の代価として十字架で死んでくれました。イエス様は、世の人々を愛しているゆえに十字架にかかって死んだのです。それが、ヨハネ3:16のみことばに書かれてあることです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」そのことを富田先生は話してくれました。富田先生の話のテーマは、終わりの時の裁きから愛すべきものを救うための神様の愛です。

 おもしろいことに、次の日曜日、7月25日は、バリーさんのお父さん、ボブ・ラッツリフ先生が、「フィラデルフィヤ・ミッショナリー・チャーチ」というタイトルでメッセージをしてくれました。聖書箇所は、ヨハネの黙示録3:7~13でした。黙示録の2章と3章には、実際に今のトルコにあった7つの教会の名前が出て来ます。その6番目がフィラデルフィヤの教会で、それは私たちの時代の教会を指している、とボブ先生は言っていました。フィラデルフィヤ教会はどのような教会かと言うと、少しばかりの力があって、神様の名とキリストの名を否定することなく、神様のことばを守り通した教会です。その信仰のゆえに、全世界に来ようとしている試練の時(患難時代)には、神様がその教会の人々を守ってくれる、と言っています。人々が絶望してその救いをあきらめてしまう前に、ちゃんとキリストが来られることを約束しているのです。

 7番目の教会はラオデキヤの教会です。ラオデキヤの教会はアンチクライスト/反キリストに従う教会であり、終わりの時代の教会である、とボブ先生は言っていました。黙示録3:14からラオデキヤの教会について書かれています。その教会は、冷たくもなく、熱くもない、生ぬるい教会です。神様にしてみると、生ぬるい教会よりも、熱いか冷たいかのどちらかであってほしいようです。神様にとって、生ぬるい教会は苦手のようです。ラオデキヤの教会は、自分は富んでいる、豊かである、足りないものは何もない、と言っています。物質的にも経済的にもとても安定していて、精神的にも満ち足りた生活をしているのでしょうか。一見、とても恵まれている教会のようです。しかし、神様の目から見ると、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であり、そのことをラオデキヤの教会の人々は自覚できていないのです。

 今日のメッセージタイトルは、「愚かな娘と賢い娘のたとえ話」です。なぜ、娘なのでしょうか。なぜ、男性ではなくて女性なのでしょうか。これは解釈にもよりますが、娘とは教会を表している面があります。聖書では、教会はキリストの花嫁と言われています。キリストと教会の関係性を、花婿と花嫁、夫と妻の関係にたとえてよく語られているのです。それでは、今日の説教聖書箇所である、マタイ25:1から見て行きましょう。

■1節~4節 イエス様は天の御国について語る時、たとえをよく用いました。ここでは、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、10人の娘にたとえてお話をしています。そのうちの5人は愚かで、5人は賢かった、とあります。ここで、愚かさと賢さの差はどのようなものであったのでしょうか。まずは、愚かな娘たちの方見てみましょう。彼らは、ともしびは持っていたというのですから、ランプには火がついていて周りを照らしていたのです。けれども、油を持ってきていませんでした。つまり、それは、予備のための油を用意しておくのを忘れていたということでしょう。少しの油はあっても、それは十分ではありませんでした。それに対して、賢い娘たちはともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていたのです。油が足りなくなった時の事を想定して、余分に油を用意しておいたのです。愚かな娘と賢い娘の差は何かと言ったら、将来や未来に対する状況把握とそれに対する備えがあったかどうかと言うことです。賢い娘たちは、既に与えられている情報や知識をどう判断し、どう活かして準備するかを心得ていたのです。それとともに、花婿を迎えることへの期待感や花婿を思う気持ちにも差があったのではないでしょうか。

■ここで、イスラエルの婚礼の習慣について少しお話をしたいと思います。これは、イスラエルに限られたことではなくて、中東において古くから行われてきた婚礼の習慣です。この婚礼の習慣では、披露宴のような祝宴が2回あるのです。1回目は婚約式の時の祝宴です。1日では済みません。結構長い間祝宴を催すようです。ヨハネの福音書2章にはカナでの婚礼の祝宴の様子が書かれています。祝宴が何日にも及ぶため、ぶどう酒が無くなってしまうということも起こりえるのでしょう。この時に、新婦になる女性がぶどう酒を飲むなら、それはつまり、相手のプロポーズを受け入れたことを意味するそうです。そして、新郎になる男性は、この時、ぶどう酒を飲みません。男性は、結婚式まで自分の身を清め慎むために、ぶどう酒を控えるのです。さらに、花嫁を迎えるために住居を用意し、部屋を整え、必要な家具をそろえたりして準備をするのだそうです。花婿が花嫁を迎えに来る時が、将来に計画されています。

 ヨハネ14章でイエス様は何と言っていますか。「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」と書いてあります。そして、その後に2回目の祝宴が催されるのです。これが結婚式に当たる祝宴です。マタイ25章にある祝宴は、2回目の祝宴です。ここで、重要なことは、新婦を迎えに行くためのゴーサインを出すのは新郎ではなくて、新郎の父です。これが何を意味するかと言うと、皆さん、もうお分かりかもしれません。新婦を迎えに行くためのゴーサインは、イエス様ではなくて父なる神様が出すのです。その時がいつ来てもよいように、新婦は備えておくように導かれています。

■5節~12節 花婿は、待っても、待ってもなかなか到着しません。そのうちに娘たちは疲れて眠くなって寝入ってしまいました。ところが、夜中になって突然、見張り人が近くまで花婿が来ているのに気づいて、「さあ、花婿だ。迎えに出なさい」と叫び声を上げました。その叫び声に驚いた娘たちは目を覚まし、花婿を出迎えるために自分のランプのともしびを整え始めたのです。すると、愚かな娘たちのともしびが、今にも消えそうになっていました。けれども、賢い娘たちのともしびは、油を補充したので明るく輝いていました。それを見て、愚かな娘たちは賢い娘たちに懇願するのです。「私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください」と。賢い娘たちは答えました。「いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください」と。賢い娘たちがちょっと冷たい感じがしますが、分けてあげられない理由がちゃんとあるのです。それについては後でお話ししたいと思います。愚かな娘たちはどうしたらよいかを考えた挙句、急いでお店に買いに行くことにしました。そして、戻ってくると、どうやら、すでに花婿が到着して、用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に行ってしまったようなのです。見ると、開いていたドアは閉じていました。油を買ってお店から戻った娘たちは、「ご主人様、ご主人様、開けてください」とお願いしました。しかし、主人の答えはこうでした。「まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません」かなり厳しい結末になってしまいました。もしかすると、ここを読む限りにおいては、この主人はちょっと厳しすぎるのではないだろうかと思う方もいるかもしれません。

■ここで考えてみたいことがあります。愚かな娘と賢い娘の対比は何を表しているのでしょうか。たとえば、イエス様をキリスト(救い主)と信じないユダヤ人指導者たちとイエス様をキリスト(救い主)と信じる身分の低いユダヤ人たち。イエス様をキリスト(救い主)と信じないユダヤ人とイエス様をキリスト(救い主)と信じる異邦人。イエス様以外のものを礼拝対象とする人々とイエス様を礼拝対象とする人々、等々。

 この「愚かな娘と賢い娘のたとえ話」のキーワードは、油です。聖書で油というとオリーブ油のことです。神の幕屋や神殿の中にある燭台で使われている油は、すべてオリーブ油です。聖書の中でオリーブ油は聖霊(御霊)を表しています。私たちがイエス・キリストを救い主として信じ受け入れるとき、私たちは聖霊を受ける、と聖書は言っています。また、聖霊は救いの保証であるとも言っています。また、聖霊は、永遠のいのちへの水にもたとえられています。イエス・キリストを救い主と信じる人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出てくるようになるのだ、とイエス様は言いました。

 それでは、だれが花婿と一緒に婚礼の祝宴に行くことができるのでしょうか。それは、聖霊を受けている人々です。では、だれが聖霊を受けているのでしょうか。それは簡単です。「イエスは主です」という人です。「イエスは主です」と言う人はみな聖霊を受けています。Ⅰコリント12:3にこのように書かれています。「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも『イエスは、呪われよ』と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」聖霊によるのでなければ、「イエスは主です」とは言えません。自信のない人は、「イエス様は私の主です」と告白してください。あなたは、確実にキリストの婚礼の祝宴に招かれている人であることがわかります。油は自分で用意するしかないのです。でも、それは複雑なことではなくてシンプルなことです。小さな子でもできることです。イエス様を救い主と信じて、「イエス様は私の主です」と告白するのです。

■13節 終わりに、私たちから子や孫やひ孫にまで伝えておきたいことがあります。マタイ25:10に「戸が閉じられた」とあります。初めに語った富田先生のお話しを思い起こしてほしいと思います。ノアの箱舟のお話しです。私は、ノアの箱舟もノアの時代の大洪水も神話ではなく、実話であると信じています。最後の生き物が箱舟に入った時、ノアの後ろの戸が閉まりました。それは、神様の時に神様ご自身がその戸を閉じたのです。今日のイエス様のたとえ話でも、ノアの箱舟の話でも、戸を閉めたのは神様です。これは、救いの事について言われてると同時に、もう一つのことが言われています。それは、ボブ・ラッツリフ先生が語っていたフィラデルフィヤの教会のお話しにも関係のあることです。

 旧約聖書にも新約聖書にも、「主の日」とか「終わりの日」という表現があります。黙示録3:10では、「全世界に来ようとしている試練の時」となっています。フィラデルフィヤの教会はどのような教会でしたか。少しばかりの力があって、神様の名とキリストの名を否定することなく、神様のことばを守り通した教会でした。その信仰のゆえに、全世界に来ようとしている試練の時(患難時代)には、神様がその教会の人々を守ってくれる、と約束してくださっています。自然災害や戦争や飢饉や死病や天変地異等、今までにない恐ろしく厳しい世界状況の真っただ中で神様が共にいて守ってくださると言っているのでしょうか。そうではありません。状況としてはノアの箱舟と同じです。まったく安全なところにキリストの花嫁である神の教会を避難させてくださるのです。それが、信じる者たちへの報いなのです。

 そして、ラオデキヤの教会はアンチクライスト/反キリストに従う教会であり、終わりの時代の教会である、とボブ先生は言っていました。その教会は、冷たくもなく、熱くもない、生ぬるい教会です。たとえ、共に集まったとしても、キリストの体としては実質のない教会です。彼らの前には閉じた戸があります。そのような彼らですが、それでもまだ、神様はそこに希望を残しているようです。黙示録3:19,「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」そして、こう続きます。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところには行って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 これからの将来や未来において、もしかしたら、戸の外に残されてしまう人々が子や孫やひ孫の世代になった時にいるかもしれません。けれども、どんな場合にも絶望しないように伝えておきましょう。最後の最後まで救いのチャンスが残されている、と私は信じます。戸の外に残されてどんなに過酷な状況が待ち受けていたとしても、悔い改めて、「イエスは私の主です」と言う者には、必ず、神様の助けの御手があると信じます。それではお祈りします。