主の囚人の勧め

2022年6月26日主日礼拝「主の囚人の勧め」エペソ4:1~6 佐々木俊一牧師

■エペソ6章の終りの方を読むと、パウロはエペソのクリスチャンに向けた手紙を同労者であるテキコに託したことがわかります。テキコによってその手紙はローマからエペソのクリスチャンへ届けられました。

 エペソという都市は当時東地中海にあった大きな商業都市の一つでした。シリアのアンテオケの町は90万人、エペソの町は50万人いたそうです。ギリシャ人を中心に、ローマ人やユダヤ人、シリア人やエジプト人、多様な民族が集まって住む都市だったのです。現在はトルコ西部にあって世界遺産にもなっている有名なエペソ(エフェソス)の遺跡があります。このところに、今から2000年以上前には50万人もの人々の生活があったのです。

■1節 「主の囚人である私はあなたがたに勧めます。」とあります。パウロは自分の事を囚人にたとえています。どういう意味で囚人にたとえたのでしょうか。それは、この時、パウロはローマにおいて囚われの身であったからです。狭い獄中の中と言うわけではなかったようです。使徒の働き28章からその様子がわかるように、軟禁状態にあったようです。また、何か悪事を行なって囚人となったのではなくて、主イェス・キリストを信じ、その救いを宣べ伝えたゆえに、パウロは囚人とされてしまいました。しかし、それは主の御手の中で許され、神様の目的があって導かれたことでもありました。そんなパウロは、物理的に自由は奪われたけれども、心の自由まで奪われることはありませんでした。主の守りと導きの中、そこで2年間、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イェス・キリストのことを教えた、と使徒の働き28章の最後に記されています。

 パウロは当時の法律によるならば、囚人になるようなことは何一つ行っていませんでした。カイザリヤで拘束されていた時に、もしもカイザルに上訴しなければそのまま無実になって釈放されたかもしれないのです。しかし、パウロを殺そうとしていたユダヤ人たちの手から逃れるために、それは必要な選択であったのかもしれません。その結果、パウロは囚人としてローマに渡ることになりました。ところが、それによって、パウロが神様から受けていたヴィジョン、ローマでの福音宣教の始まりとなったのです。

 ローマ人への手紙を見ると、罪の奴隷とか神の奴隷、こういった表現を見つけることが出来ます。罪の奴隷とは罪に従う人のことであり、神の奴隷とは神に従う人のことです。主の囚人という言い方は、神の奴隷という言い方に似ているのではないでしょうか。カイザルの囚人となったパウロには自由がありませんでした。しかも、囚人と言う立場は社会的に恥ずべき立場です。しかし、パウロは自分の事を主の囚人だと言っているのです。主に従った結果、捕らえられて囚人となり、拘束されて自由に動けなくなりました。何一つ恥ずべき事はしていないのです。主の囚人は、主によって捕らえられた人でもあり、それはまた、主によって召された人と言い換えることが出来ると思います。ですから、主の囚人であることをけっして恥じることはありませんし、また、心の自由まで奪われる必要はないのです。

 主の囚人であるパウロがエペソのクリスチャンに勧めたことは、「召されたあなたがたはその召しにふさわしく歩みなさい。」と言うことです。ふつう、囚人には自由がありません。それゆえに、一般人が持てる自由がパウロにはありませんでした。しかし、そのような中にあっても、主の喜ばれることを行なう自由はありました。物理的な自由は奪われても心の自由までは失うことのなかったパウロは、その召しにふさわしく主のみこころに従い続けました。

 主のみこころに従うことで、パウロのように自由を奪われることはあり得ることです。ですが、パウロが言う、召しにふさわしい歩みをすることによって、私たちが自由を失うことはありません。かえって、私たちは古い自分から解放されて、新しい自分に生きる自由を得ることになるのです。召しにふさわしい歩みとは、古い自分から解放された私たちが、新しい自分に生きる自由を得ることでもあるのです。

■2節 私たちは神様によって召された者たちです。私たちは神様から招かれた者たちです。召され招かれた私たちの立場は、どんなものでしょうか。神の奴隷でしょうか。主の囚人でしょうか。はい、その通りです。私たちは神の奴隷であり、主の囚人です。しかし、私たちはその事を恥じるべきではありません。なぜならば、神の奴隷や主の囚人を別の言い方にするならば、それは、神の愛すべき子どもたちであり、神の御国を受け継ぐ者たちのことだからです。私たちは、実に神様からすごいものをいただいているのです。神の子どもとして召されたのであれば、その召しにふさわしい歩み方があるのだとパウロは言っています。

 その一つ目が、謙遜です。謙遜は神の子にふさわしい性質です。謙遜を他の言葉で言いかえると、へりくだること、自分を低くすること、他人を自分よりも優れている者として接すること、他者を尊重する態度です。ただし、遠慮したり、自分の価値を否定したりするようなこととは違います。自分の考えや意見を言える関係性を否定しているのでもありません。

 二つ目が、柔和です。柔和も神の子にふさわしい性質です。柔和を他の言葉で言い換えると、優しいこと、穏やかなこと、とげとげしいところがなく、もの柔らかな態度です。

 三つ目が、寛容です。寛容も神の子にふさわしい性質です。寛容を他の言葉で言い換えると、広い心をもって他人を受け入れることです。他人の失敗や無礼なふるまいを口うるさく咎めない態度です。

 四つ目が、忍び合いです。忍び合いとは、忍耐し合うことです。忍耐もまた神の子にふさわしい性質です。

 パウロはまず、これら4つのことを神によって召された者たちに勧めています。ここで大切なことはやはり、「互いに」、と言うことです。互いにでなければ、何でも作り上げて行くことはできないのです。互いにということがなければ長続きはしませんし、忠実に神様に従っていた人々でさえ、やがて疲れて果てて倒れてしまうか、または、壊れてしまいます。持続させていくためには、できる限り、多くの人々がこのことに参加していく必要があるのです。愛というのは、大切に思う心です。お互いにお互いを大切な存在として認め合って教会造りに参加するのです。

■3節 エペソ4章はおもに神の働きを担う教会をどのようにして造るのかについて書かれているところであると思います。神の働きを担う教会を造るためには、召された私たちがその召しにふさわしい歩みをする必要があるのです。そのふさわしい歩みというのが、謙遜と柔和と寛容と忍び合いです。この歩みによって何が生まれてくるかというと、平和です。これは教会に限ったことではありません。社会も国も世界もそうです。しかし、これらのことを続けて行くことは大変難しいことです。大変難しいことなのですが、教会には大変頼りになる助っ人がいるのです。それは、御霊です。聖霊です。聖霊はこの難しいことを成すために私たちに力を与えることのできるお方です。御霊に導かれるなら私たちは一致し、平和を保つことができるのです。この一致と平和は神様の働きを担う教会を造るために大変重要なことです。また、一致と平和がなければ神様の働きを続けて行くことはできません。私たちはこの一致と平和を保つために、召しにふさわしい歩みをして行きたいものです。

■4節~6節 教会はキリストの体であって、神に召された者たちの集まりです。イエス・キリストにあって一つとされた神の民であります。しかし、私たちには、同じクリスチャンと言っても、多くの違いがあることも確かなことです。国が違ったり、仕事や立場が違ったり、年齢やジェンダーが違ったり、趣味や特技が違ったりします。一人一人はそれぞれに自由意志があり、個性があり、考えがあり、それによって、社会のいろいろなこと、政治や経済、支持する政党に対する好みや意見も違ったりします。しかし、私たちは、これらのことを越えて平和を保ち、一致するのです。なぜならば、私たちの最終的な目的地は神の御国だからです。私たちは将来、永遠にそこで神の子として共に過ごすことになります。これは私たちの共通の望みです。この望みは、すべての違いを超えたところにあって、私たちにとっては何よりも優先すべき重要なものなのです。

 2月24日にロシア軍によるウクライナ侵略が始まって、もう4カ月を過ぎました。一日も早く、ウクライナに平和が訪れ、人々の日常が戻るように私たちは祈っています。聞くところによると、プーチンは今、EU諸国に揺さぶりをかけて足並みを崩し、分裂を計ろうとしているという情報がネットニュースに流れていました。EUの結束は一部強引なところはありますが、基本的に各国の意思決定を尊重しています。それに対して、ロシアのプーチンは、情報操作によってプロパガンダを国民にすり込み、反対する者は見せしめとして処罰し、国民には恐れを与えて従わせようとしています。EUにしても、ロシアにしても、勝つためには足並みをそろえ、一致が必要なことを知っているのです。

 もしも、私たちにある違いが平和と一致を難しくするとき、私たちは、からだは一つ、御霊は一つ、望みは一つ、主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、すべてのものの父なる神は一つであることを思い起こさなければなりません。そして、自分にとって何か大切なものを犠牲にするとしても、それによって教会の平和と一致を保つことができるならば、その犠牲を神様は必ず用いて、神様の栄光を表してくださると信じます。それではお祈りします。