カヤパの計画と神様の計画

2022年6月19日英語礼拝

 メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

ヨハネの福音書11章45〜53節

 カヤパの計画と神様の計画

 

 ここオープンドアで、またオンラインでご参加の皆さん、こんにちは。 前回メッセージを届けてくださったシェリーさん、改めて感謝します。 今日は私が「神の無意識の証人」と呼んでいるメッセージのシリーズを、皆さんと一緒に続けたいと思います。私たちは、人々が全く意図していない、あるいはそのことに気づいてさえいないときに、事前に起こると約束なさっていた物事を神様が行うのを、イエスのご生涯の物語の中で何度も目にしています。

 

 思い起こされるかもしれませんが、このことは、イエスがキリスト、メシアであり、世界の救い主となるために送られた唯一の神の子であるという、福音書の著者たちの重大なメッセージの一部です。 神はイエスに深い真理の言葉をお授けになり、奇跡の力による働きを実行する権限を付与することによって、イエスにご自身の承認のしるしを置かれたことを明らかにしておられます。 しかしもうひとつ、神がキリストを通してご自身の特別な御業を行われる方法は、預言の成就という確かな出来事の中にあります。 それは、主が何か特別なことが起こると聖書の中で約束されたことです。そして、イエスのご生涯の過程で人々が取る行動の中で—―多くの場合、約束がなされてから数百年後に—―神はご自身が起こるであろうと言われたことをもたらすのです。 このようにして、神はご自身の忠実さ—―つまりご自身の約束を守られることを明らかにされます。ご自身が最終的にすべてを支配されるお方—-主であることも、お示しになるのです。

 

  私たちは、知り得る限り最も残酷かつ不公正な方法のひとつである十字架刑による、イエスご自身の死の予言という物語を目にしてきました。 その後、これは実際に起こり—―ただ死へ向かうだけではない、復活への道となります。 この過程を通し、私たちは、たとえ悪や苦難が私たちの生活の要素であるときも、神が支配しておられると教えられます。また、十字架の死と復活を含む出来事の最中でのキリストの弟子たち側の信仰の躓きの物語も、再度学びました。 そこでは、私たちの信仰が弱いときでさえ、神が支配しておられるのがわかります。

 

 今日の物語では、イースターの物語そのものの出来事の少し前まで遡ります。すでに通ってきたルートの脇道を通って入り口に戻るハイカーのようなものです。 その道が、彼らがまだ見ていない、また見逃すわけにはいかない美しい何かに導いてくれるから、そこを通るのです。 私たちは、キリストがエルサレムに入り、キリストの死と復活に先立つ最後の週が始まる直前の時点に引き返して行きます。 ここでは、たとえ私たちの理解が不足している場合であっても、神様が支配しておられるという信仰の教訓を学びます。  (ちなみに、私は悪意や苦しみや無知といった私たちの人生の否定的な部分についてのみ話すつもりではありません。そこには例えば信仰と希望と愛など、人生の良い部分を通して、神様がご自身の主権や人生に及ぶ支配を明らかにされている物語があるのです。私たちはそれらにも行き着くでしょう!)

 

 今日の物語が始まる直前に、イエスは、何日も死んでいる状態だった親友のラザロを死者から蘇らせました。 これは素晴らしいニュースであると同時に、大きな問題をも浮かび上がらせます。 これをすることが可能ならば、イエスは他に何がお出来になるのだろう?  考えてみれば、イエスに出来ないことなどあるのだろうか?  これを見た「ユダヤ人の多く(45節)」にとって、それは大きな喜びの理由であり、彼らはイエスに信仰を置きます。

 

 しかし、他の人々にとって、それは動揺させるもので、彼らは国の宗教および政治の指導者たちに何が起こったかを告げます。  「マリヤを訪ねてきたユダヤ人たち」(45節)が、まず保守派であるパリサイ人たちにラザロの復活を伝えます。 パリサイ人たちは直ぐにすべてのサンヘドリン、つまり国の政治宗教指導者の会議を開催します。 それは進歩主義のサドカイ派を含むものです。 サンヘドリンは、イエスのような人物をどう扱うかなどの事柄を決定するための大きな権限を持っています。 ほどなくイエス様は国家の安全に対する脅威であると判断され、その死に至るプロセスが始動します。

 

 それは一人の人間が復活したという素晴らしい報せへの対応としては、まったく驚くべきやり方です。 命を祝うどころか、この一連の対応は別の死へと先導するのです。

 

 ここに、クリスチャンが覚えておくべきことがあります。 信仰は神の贈り物であり、人間の心の中にある神の御霊の働きによってのみ可能なものです。 ほらそこには、人を生き返らせるほどのキリストの大きな力と深い愛を、自分の目で現実に見る人々がいます。  私たちは考えるかもしれません。「当然そのことは、彼らにイエス様はご自身が断言される救い主(メシア)であると悟らせ、信仰においてイエス様に従うようになるだろう。」と。しかしそのようなことは起きません。彼らは、その日他の人が見るのと同じものを目にするにも関わらず、自分たちの心の内にある根本的に異なる何かをあらわにするやり方で対応するのです。

 

 それらは実際、ルカの福音書16章19〜31節の全く別人のラザロに関する物語の中で聖書が教えていることの一例です。そこでは、このラザロが死んで天国に行きました。 地獄にいるある男が、まだこちらの世界にいる彼の兄弟たちのために要望します。彼は、どのようにすれば地獄ではなく天国に行くのかを兄弟たちに忠告するため、ラザロを彼らのところへ送ることを懇願します。しかし彼が受け取る答えは、「彼らには、モーセと預言者[つまり聖書] があります。その言うことを聞くべきです。・・・もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」 (29節、31節)というものです。

 

 クリスチャンは、キリストにある命の福音を全世界に告げ知らせる任務を有します。特に私たちが愛する人々がまだ救い主としてのキリストを知らないとき、私たちは彼らにキリストに出会ってもらいたいと強く望みます。 けれども、ここに私たちに対するひとつの警告があります。 私たちにはそれを成し遂げることが出来ないし、そこには人々が信仰生活に入るのを阻止しようとして働く、他の強大な力があるのです。 そのため、神様は私たちに祈りをお授けになり、彼らが従うための準備を整える適切な時機と方法によって人々をご自身へと導いてくださるよう、神様にお願いすることを教えてくださいます。神様がこのようになさるとき、それは起こるのです。また神様は、その過程に私たちが積極的に参加する方法を示すことがおできになります。神様の指揮のもと、人々を救いに導くという神様の仕事に喜んで協力することができるのです。 それこそが、私たちが依って立つことのできる保証です。

 

 

  マリヤの家にいるこれらの訪問者たちは、なぜそんな否定的なやり方でそれを利用するであろう人々に、その情報を伝えるのでしょうか?  おそらく、彼らはパリサイ人がキリストを好ましく思っていないのを知っています。 ヨハネの福音書9章22節は、宗教指導者たちが既に、イエスに従う者はだれでも、会堂の外—―つまり信仰の共同体の外に置かれるであろうと告知したと述べています。 彼らはなぜ、マリヤとマルタとラザロの家なんかにいるのでしょう?  もしかすると幾人かは、しばしば葬儀を手伝うプロの嘆き屋なのでしょうか?  彼らはおそらく、宗教指導者たちの中にいるイエスの敵対者のために、イエスの様子を調べる目的で送られたスパイです。 いずれにせよ、彼らが告げる情報は、敵対者がイエス様に対して使う武器になるのです。

           

 注目すべきもう一つのことが、サンヘドリンの会議でなされた論評の中に見られます。  「イエスがなさったこと」(46節)についての話が虚偽の情報であると主張する人は、誰もいないということです。 彼らは「あの人が多くのしるしを行なっている」(47節)という報告に、反証を試みてはいないのです。 事実、ヨハネが述べている出来事の説明が、実際に起こったものだといういくつかの明確な証拠を、彼らは提供しています。 さあここで、キリストの敵対者たちは自らの口でこう言うのです。「もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。」 そのような言葉は、概して史実としての情報の信頼性を判断することにおいて、たとえば友人からの褒め言葉以上の重みを与えてくれるものです。

 

 国の指導者たちは、もしたくさんの人たちがイエスに従うならば起こるであろう何を、そんなに恐れているのでしょう? 彼らは言います。「そうなると、ローマ人がやって来て、我々の土地も国民も奪い取ることになる。」(48節)  ヘロデ王を頂点とするユダヤ人の政府全体がローマ帝国の残忍な支配の下にあります。そのためユダヤの人々は常にローマ人が何を好み、何を嫌うだろうということに、細心の注意を払わねばならなかったのです。

 

 しかし、実際イエスは、ローマ人にとってどれほどの脅威なのでしょう? イエスは仲間のユダヤ人たちに、ローマが要求する税金を支払うよう教えていました。 ほどなくローマの総督ピラトの前で裁判にかけられる際、ピラトはイエスについて「私はあの人に何の罪も見いだせない。」(ヨハネ18:38)と言うのです。 宗教・政治指導者は、自分たちの関心事は神の家である神殿を守ることであると言いますが、ギリシャ語の原本にある語は「われわれの場所」となっていて、ほとんどの翻訳者が礼拝の場所、あるいは「神殿」を意味すると言っています。「われわれの場所」について考え得るもう一つの意味は、「権力のある私たちの立場」あるいは「国を支配している私たちの地位」に近いかもしれません。彼らの言葉は、マタイが彼らについて教えてくれる以上のことを示している可能性があります。(27章18節)。 つまり、「…彼ら(指導者たち)がねたみからイエスを(ピラトに)引き渡した…」のです。

 

 そのうえ歴史の悲しい現実は、どのみち西暦70年にローマ人が神殿と国を破壊したということです。 イエスを殺すことでは、それが起こるのを止められませんでした。 イスラエルは1948年まで国として再建されておらず、その時以来ユダヤの人々が耐えることを余儀なくされた苦難の大きさは、筆舌に尽くしがたいものです。 とりわけ福音の伝道者としての聖書記者の観点から、おそらくすべての中で最も心痛む真実はこれでしょう:キリストを拒絶することによって、全体として見た「神に選ばれし民」は、力と救いの源から自らを閉ざしています。それは、神がご自身のひとり子イエスを送られることを通し、彼らに与えたいと心の底から望んでおられたものです。

 

 この物語の中でパレスチナ(イスラエル)の指導者たちがどのように行動するかを見るとき、私たちは現代のリーダー達の振る舞い方について考えるかもしれません。イエス様の時代において、意思決定に大きな影響を及ぼす声のひとつは、カヤパです。 旧約聖書は、アロンの家系に連なる何者かが大祭司になると教えます。 しかし、イエス様の時代には、政治的な理由もしくは他の宗教的要因によって政府が選んでいるようです。 イエスについての議論における彼の言葉を読むかぎり、カヤパがとりたてて霊的、あるいは信心深い人物であるという印象を受けません(49〜50節)。 「あなたがたは何もわかっていない。あなたがたにとって何が得策か、考えに入れていない。」 その話の後半(ヨハネ18章)、宗教・政治指導者たちはカヤパの家に集まり、最終的にイエス様を十字架に送ることになる法的な手続きを進めるのです。

 

  もしも誰か指導的立場にある人間の生活にじっくりと目を向けるなら、私たちは常に落胆させられる何かを発見することになります。 たとえば、私たちの教会は、オープンドアに信仰の種を植えた宣教師を通じ、米国の南部バプテスト連盟と歴史的なつながりを持っています。 ですから、長年にわたるこの組織の指導者を含めたスキャンダルのニュースを読むのは、非常に残念なことです。  教会の指導者による性的虐待の申し立てが真剣に受け止められず、組織を守るために隠ぺいされたという告発が続きました。 外部団体が調査を依頼され、その申し立ては事実としての評価に値するという報告が、最近公表されました。 その判断において、南部バプテスト連盟の最高指導者は虐待の犠牲者を適切に保護することができず、その行動に対する責任を免れようとしたのです。

 

  国内および国際政治の水準では、ますます多くのケースで、かつては意見の相違であったものが分裂へと深刻化しました。その後も一層ひどくなり、嫌悪感や怒り、さらには戦争にまでなっているように思えます。 米国の事例では、選挙の有権者がおよそ半々に分かれることで、どちらの政党が政権を握っても、国の約半分はそれに断固として反対するし、かなりの数の人が暴力で行動することを厭いません。

 

  今日の聖書の物語に私が見るのは、キリストに従う者は、キリストだけが唯一の私たちの主であり救い主であると断言するというリマインダー(注意喚起のメッセージ)です。

           

 私たちはどんな人間のリーダーや組織にも心からの信頼を置きません。私たちの自由と強さ、もしくは幸福が、彼らからもたらされると期待したりしません。 私たちが個人または組織として間違っているとき、私たちは悔い改め、私たちの主イエス・キリストのご人格を反映して、誠実かつ献身的に従うために必要な変化を起こさなければなりません。私たちが信仰を持たずに、あるいは実質的に信仰から離れて生きるなら、特定の人達とか政府やらに、容易に非現実的な高い希望を置くようになってしまう可能性があります。彼らが行う準備できていないこと、または提供が不可能な事柄を、私たちのためにすることを期待してしまうかもしれません。キリストにおいてのみ、私たちは自分たちの生活にとって真に信頼できる導きと力を見出すのです。

 

  今日の聖書の物語で露呈される醜い人間性の下には、美しい希望のメッセージがあります。カヤパとその支持者たちは、不当で残酷な神の御子の死へとつながる道を選びます。しかしながら、それは物語全体で最も重要な部分を語ってはいないと、ヨハネは大胆に主張します。神様はここでも、政治や宗教のリーダー達が気づくことをはるかに超えて働かれます。カヤパはこう断言します(50節)。 「ひとりの人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなたがたにとって好都合だ」

 

  それは彼が思う以上の、はるかに深い真実なのです。 祭司としての彼の仕事は、人々と神の間に立ち、神の言葉を人々に与え、人々の祈りを神に伝えることです。 主はまさしくその目的のために、ここで彼を使われます。 大祭司は無意識のうちに、イエスがユダヤ国民のために死ぬであろうと予告しています。 ここで、たとえばヤコブの息子ヨセフのような旧約聖書の物語のこだまが聞こえます。兄弟たちによって奴隷として売り渡されたのち、エジプトで彼らに再会したヨセフは、兄弟たちにこう言います(創世記50:20)。 「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」 ヨナが海でひどい嵐の只中にいるとき、どういうわけか彼は自分が犠牲になれば他の皆が救われることを悟ります。 それで彼はこう言います(ヨナ書1:12)。「私を担いで、海に投げ込んでください。そうすれば海は静まるでしょう。」  預言者イザヤ(53章、特に4〜5、8〜10節)は未来を見通し、神がご自分の民の救いのために送ると約束されている救世主キリストについて、描写しています。

 

 彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて、苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって私たちに平安が与えられ、彼が受けた打ち傷によって私たちはいやされた。 ・・・不法な裁きにより、彼は取り去られた。彼の時代の誰が思ったであろうか。私の民の背きのために彼が打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。彼は暴虐をなさず、口には偽りがなかったのに、その墓は悪人どもと共にされ、富めるものと共に葬られた。主は彼を打ち砕くことを望まれ、病にかからせた。彼が自分の命を償いのいけにえとするなら、その子孫を見、長寿を得る。主の望みは彼の手によって成し遂げられる。

 

    言うまでもなく、これはキリストの死と復活を通して起こることです。政治や宗教的組織で権力のレバーを握る人々は、自分たちがイエスを打ち負かすだろうと考えています。しかし、イエスはご自分がなさっていることを初めからすべてご存知です。 罪人として殺されることになっても、父なる神が決してイエスを墓の中に留めたままにして置かれないこと。そして、人々の罪の代価を支払うための死の後には、イエスご自身が世界中の人たちに提供することのできる偉大な命の贈り物を手にするであろうことを。

 

 神様が頻繁に御業を行う顕著な例を、最近のニュースの中に見たと思っています。皆さんは、銃を持った男に襲撃された、アメリカの南カルフォルニアにある教会について聞いたことがおありでしょうか? 武装した男が侵入し、ドアをロックして人々に発砲し始めたとき、ラグナウッズにあるジュネーブ長老派教会には数十名の人たちがいました。ほとんどの教会員は台湾にルーツを持つ年配の人たちで、銃を持った男は中国本土にルーツを持つ者でした。公式発表によれば、男は中国本土と台湾の間の問題について憤っていたとそうです。

 

 スポーツ医学の医師であるジョン・チェン博士は、銃撃が起きていたときにそこにいました。 彼は銃撃犯に駆け寄ってタックルし、その過程で何度も撃たれて亡くなりました。 牧師のビリー・チャンがその殺人の容疑者を椅子で殴って、彼を押さえつけている間に他の人が電気コードで男の手を縛り、警察の到着を待ちました。この一連の出来事で5人 が負傷しましたが、チェン博士の犠牲のおかげで、他の人の命が失われることはありませんでした。 この人は、彼が救い主イエス・キリストとして従ったその人の精神を持って生きることを学んでいたと、はっきりと示したのです。他の人々に献身する人生を生きることを通し、キリストに従う者となることの意味を、チェン博士は実践してみせたのです。    

           

 いつの世も真実だと思いますが、このような本当に感動的なことが、深い悲嘆を伴いながら、私たちの周りで日々起こり続けてはいないでしょうか。 朝起きたとき、私たちの行く先に何が訪れるかを知ることは困難です。しかし、私たちは知っています。どんな悲喜こもごもを伴っていても、この世界での私たちの生活はいつか終わるであろうことを。聖書が言うように(ヘブル人への手紙9:27)「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」のです。

 

 今日再び皆さんにもたらす良い知らせは、それです。いつか私たちが私たちの創造主の前に立つとき、キリストが共に立ってくださるという確信を持つことができるのです。私たちの誰一人として、自分自身の美点によって天の御国に入るほど、純粋でも善良でもありません。 私たちは皆、神様の律法を破りました。裁きを受けて当然です。 しかし、イエス様が私たちのために、私たちの罰をお受けになることで、永遠の命への道を開いてくださいました。 イエス様はその深い愛の故に、私たちの罪の代価を支払ってくださいました。 イエス様は私たちが生きるべきだった人生を生き、私たちが死ぬべきだった死を遂げられました。 このことを信じ、イエス様を救い主として私たちの心に受け入れることによって、私たちは永遠に命の贈り物を受け取ることができます。 私たちの人生のすべての部分に渡る自由な支配権をイエス様にお渡しすることによって、私たちは自由と強さ、そして神の子供であるという喜びの中で生きることを学べるのです。 私たちがそうすることを助けてくださるように今から神様にお願いしますから、心の中で静かに、ご一緒していただけますか? 

 

  神様、あなたは御言葉によって教えてくださいます。キリストがわたしたちのため、あちこちに散らされてしまったあなたの子どもたちを呼び集めてひとつにするために死なれたことを。私たちは本当にばらばらで、最善の自分から、お互いから、またあなたから、とても多くの点で隔たっています。 しかし今日再び、私たちが一致して生きるよう、あなたが呼びかけておられることを思い出させてくださいました。何より一番に、私たちがあなたとより近く、より深い関係へと進めるように助けてください。 それから、私たちをあなたの子供として互いに一つにしてください。そして、全世界が今日切実に必要としている、平和をつくる人になれるよう助けてください。 これが私たちの祈りです。イエス様の御名によって。 アーメン。 

 

 

※翻訳担当者より

今回から、読み易さを重視して「イエス様」「神様」の敬称を可能な限り省いています。

         

聖書の日本語訳部分は、基本的に新改訳もしくは聖書協会共同訳から引用していますので、一部英語訳と一致しない表現となっています。

 

参考

 

Bible Study. (n.d.) High Priest and Priests in New Testament. Retrieved June 8, 2022 from https://www.biblestudy.org/beginner/new-testament-groups/high-priest-priests.html

Helmore, E. (2022, June 12). US Southern Baptist churches facing ‘apocalypse’ over   sexual abuse scandal. The Guardian. Retrieved June 15, 2022 from https://www.theguardian.com/world/2022/jun/12/southern-baptist-church-sexual-abuse-scandal

Henry, M. (1706). Matthew Henry Commentary on the Whole Bible (Complete). Retrieved June 9, 2022 from https://www.biblestudytools.com/commentaries/matthew-henry-complete/john/11.html

Levenson, E. and Joseph, E. (2022, May 19). This hero doctor charged a gunman at a church service and prevented further bloodshed, officials say. Cable News Network(CNN).  Retrieved June 12, 2022 from https://edition.cnn.com/2022/05/17/us/orange-county-church-doctor-hero/index.html