内なる人を強くしてください!

2022年5月22日主日礼拝「内なる人を強くしてください!」エペソ3:14~21 佐々木俊一牧師

■秋になると、Oさんのご主人がご自分で作った野菜を教会に持ってきてくれます。昨年も、ダイコンやジャガイモをたくさんいただきました。実は、先週の火曜日に、Oさんのご主人がやっておられる畑にお邪魔して来ました。北広島に森の湯という温泉があるのですが、その近くにOさんのご主人の秘密基地があるのです。

 近頃、コロナやウクライナ戦争が原因で、世界的に食糧価格が高騰しています。また、ある国々では食糧不足が起こっています。伝染病や戦争に加えて、熱波や干ばつが各地で発生し、危機的な小麦不足に陥っています。中東やアフリカのあるところでは主食であるパンがなかなか手に入りません。日本においても、小麦粉の値段が高くなりました。それでも、まだ手に入れるのが難しい状況ではありません。しかしながら、日本の食糧自給率は40%を切っており、海外からの輸入に依存しているので、いずれその影響は日本の食糧事情にも大きく表れてくるのではないでしょうか。

 そう言うわけで、農業経済学が専門である長南さんのご主人のところに行ってきたわけです。畑のある人は、今からでも野菜を作っておいた方が良いのかもしれません。私たちはこのようなことに対して、二つの面から備えることが出来ると思います。自分ができる程度の実際的な備えと、そして、神様に祈ることを通して備えることです。祈りの中で神様は私たちに平安を与えるとともに、必要な備えと導きをも与えてくれるのです。それは、食糧や経済に限ったことではありません。人生全般にわたって、神様は私たちに関わってくださるお方です。私たちが神様に祈るならば、私たちは祈りを通して神様からの力や守りや導きを受けることができるのです。今日は、祈りを通して私たちが受ける神様の恵みについてお話しするとともに、「内なる人を強くしてください!」というタイトルでお話をしたいと思います。それでは、今日の聖書箇所を見て行きましょう。

■14節~15節 エペソ2:18~19には、私たちは、キリストによって、一つの御霊において、父なる神様の御前に近づくことができるのである、と書かれています。それに続いて、ユダヤ人であろうと、他の国や民族であろうと、つまり、日本人でもアメリカ人でもカナダ人でもイギリス人でも、また、ロシア人でもウクライナ人でも中国人でも何人でも、イエス・キリストを信じて聖霊を受けている者は誰でも、神の家族なのだ、と言っているのです。

 さらには、エペソ3:15で、この地上に限らず、すでに天にいて私たちと同様に神の家族と呼ばれる人々が存在していることを示しています。その中には私たちの知っている人もいますし、生活を共にし、オープン・ドア・チャペルで日曜日の礼拝を共にしていた兄弟姉妹もいます。今私たちはその人々を肉眼で見ることはできませんが、いつの日か顔と顔とを合わせて再び会う時が来るでしょう。神様にとっては、人々が天上にいても地上にいても、現実に存在する家族であり、天の父なる神様を親とする家族なのです。

 神様とこのような関係にある私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、いつでも自由に確信をもって大胆に父なる神様に近づくことが出来る者であることを、パウロはエペソ3:12で言っています。ですから、パウロは父なる神様のみ前に自らへりくだって、そして、神様にお願いしているのです。何をお願いしたのでしょうか。

■16節 「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」

 パウロが神様にお願いした一つ目の事は、「内なる人を強くしてください。」と言うことです。「内なる人」とは何を意味しているのでしょうか。日本語の聖書だけでなく、英語の聖書も調べて考えてみました。「内なる人」とは、「内なる存在」であるとか、「内にいる霊」と考えて良いと思います。いくつかのパウロの手紙には、「主があなたの霊と共におられますように。」とか、「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」などの言い方が見られます。

 また、ある英語の聖書(NKJ)では、エペソ3:16は、「内なる人の中にいる御霊(聖霊)により、力をもって、あなたを強くしてくださいますように。」と言っています。内なる人とは、私たちの新しくされた霊であり、そこには共に御霊がおられると言うことになります。このことをもっと明確に表している聖書箇所があります。ローマ8:9~10を見てみましょう。「けれども、もし神の御霊があなたがたの内に住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」ここに見られる、神の御霊とキリストの御霊とは、聖霊のことです。聖霊は英語だと、「Spirit」です。sが大文字です。それに対して、ただの霊は英語だと、「your spirit」です。あなたの霊であり、sが小文字です。私たちには各自の霊があり、そして、共に聖霊がいてくださっているということになります。「内なる人」とは、私たちの霊です。私たちの霊は、御霊によって新しくされました。イエス様は言われました。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」と。

■御霊によって新しくされた霊には、以前と違ってできることがあります。今、神様と私たちの関係は、平和な関係にあります。イエス・キリストを救い主として信じることによって、私たちは自分の罪を認め、悔い改めた結果、罪赦されて神様と仲直りしました。ですから、私たちはいつでも自由に確信をもって大胆に神様に近づくことが出来るのです。神様に近づいて私たちは何をするのでしょうか。私たちは神様に感謝し、神様のみわざや素晴らしさをほめたたえ、礼拝をささげます。イエス・キリストを信じる前はそのようなことはしませんでした。また、私たちに困難や問題が生じて自分の力ではどうすることもできない時、そのような時はいつでも神様に助けを求めるために祈ることが出来ます。祈ると私たちの心は多少なりとも気持ちが楽になります。イエス・キリストを信じる前はそのようなことはしませんでした。いつまでも打ちひしがれた気持ちで希望を持てずに大きなストレスを感じたものです。イエス・キリストを信じ、聖霊が私たちの内に住んでくださると、私たちのすることは以前とは違うのです。

 さらに、イエス・キリストを信じて後に私たちがすることとして、聖書を読むようになることです。もちろん、イエス・キリストを信じていなくても、聖書を読むことはできます。大学でも昔はよく教材として英語の聖書が使われていました。けれども、イエス・キリストを信じている人が聖書を読むのと、イエス・キリストを信じていない人が聖書を読むのとでは、目的と結果が違います。信者にとって、聖書のみ言葉は霊の糧です。私たちの体に食物が必要なように、私たちの霊にも食物が必要です。私たちは霊の糧として聖書を読むのです。ただ読むだけでは消化不良を起こしてしまいます。時には聖書のみ言葉を行なうことにより、しっかりと消化して霊の栄養となるのです。それは、いずれ私たちの心のあり方や性質や言動に反映することになります。イエス様は言いました。「父なる神のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」と。イエス様は私たちの良き模範です。イエス様のようにはできないとしても、聖書の言葉と主の御心に従う時、それによって、私たちはだんだんと成長していくのです。

 もちろん、イエス・キリストを信じていなくても、聖書はすべての人にとって有益なものですし、祝福を与えるものです。イエス・キリストを信じていなくても、聖書のことばに影響を受けて、社会の発展に貢献した立派な人々は日本には数多くいます。その人々の名声と栄誉は、歴史の中に残っています。でも、それは天でその実を結ぶことはありません。この地上だけのことです。しかし、たとえ、歴史の中に自分の名を残すことが出来ないとしても、イエス・キリストを信じて神のみこころを行なった無名の人々は、天にしっかりと実を結ぶことでしょう。

■御霊には力があります。ですから、パウロは祈るのです。「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」と。祈りをとおして、御霊は力をもって働かれます。また、聖書のみ言葉をとおして、御霊は力をもって働かれます。主の御心を行なうことをとおして、御霊は力をもって働かれます。御霊は力をもって働いて、私たちの内なる人を強くしてくださいます。

 イエス・キリストを信じると、私たちの人生は祝福を受けます。私たちの願いや望みが実現することも、神様からの祝福として確かにあります。しかし、だからと言って、私たちの人生において困難や問題や不幸な出来事がまったく起こらなくなるわけではありません。キリスト教はご利益宗教ではありません。キリスト教は、救い主イエス・キリストによって神様との本来の関係を再構築するためにあります。私たちの内なる人が強められて行くときに、神様との関係がますます修復されて、父と子としての関係がますます親密なものになって行きます。私たちの内なる人が御霊によって強められる時、私たちはますます神様の栄光を表わしながらこの地上を歩むようになって行くのです。困難や問題に直面した時にも、以前よりも増して、平安の中を通り過ぎて行くことができるようになるのだと思います。

■17節~21節 パウロの一つ目の祈りは、「あなたがたの内なる人を強くしてください。」でした。二つ目は、「あなたがたの心の内にキリストが住んでくださるように。」です。私たちの内なる人が御霊によって強くされるならば、それは、私たちの心の内に反映されるでしょう。私たちの心にはキリストの性質が表されるようになります。それらは、御霊の実と言われているものかもしれません。ガラテヤ5:22~23に、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とあります。これらの性質が私たちの心の中に造られて、それが私たちの口から出る言葉となり、ふるまいとなり、行動となって行くのでしょう。

 三つ目は、「あなたがたがキリストの大きな愛を知ることが出来ますように。」です。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さという言い方にしても、人知をはるかに超えたキリストの愛という言い方にしても、キリストの愛がどんなに大きいかを表す表現です。私たちはただ単にキリストの愛の大きさを自分のために受け留めることで終わるのではなくて、その愛を知った者として、お互いにその愛を表し合う中で、さらにまた、神様の愛の豊かさを知って行くように導かれているのだと思います。そのようにして、次の祈りへと続いていきます。

 四つ目の祈りは、「あなたがたが神ご自身の満ち満ちた様にまで満たされますように。」です。非常に難易度の高いパウロの願いです。パウロが目指す目標は非常に高いのです。ですが、これは、あくまでも目標です。目標になかなか届かないことを、お互いに責め合うべきではありません。お互いに責めたり、赦さなかったりするならば、かえって、この祈りから遠ざかってしまうことになります。私たちは、先ほどの三つ目の祈り、「あなたがたがキリストの大きな愛を知ることが出来ますように。」のところで学びました。それは、キリストの愛の大きさを知った者として、お互いにその愛を表し合う中で、さらにまた神様の愛の豊かさを知って行くということです。ですから、もしもお互いに失敗することがあったとしても、お互いに赦し、受け入れながらやり続けていくことが大切です。私たちはみな不完全なのですから、お互いに寛容でありたいと思います。また、このようなことができるところは、この世の中では主にある家族、教会ぐらいです。

 五つ目は、「私たちの内に働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでもありますように。」です。私たちの内に働く力とは、御霊の力です。御霊には力があるのです。御霊の力は全知全能なる神の力に等しいのです。ですから、私たちの願わないことや受け入れがたいことがあったとしても、すべてを良きことに変えてくださる神様を信じて、神様にゆだねて、従って歩み続けることが大切です。その歩みを通して、きっと教会とキリストの働きの中に神様の栄光を見て行くのだと信じます。

 個人としても、家族としても、教会としても、途中、あきらめたり、投げ出したりしたくなるような出来事が許されます。祈っても、祈っても、祈りが聞かれない、思うようにいかない、何も変わらないということがあります。ですが、いつの日か、祈りが聞かれていることに気づかされたり、状況が良くなっていることに気づかされたり、というようなことがあるのです。実際に今までにありましたし、これからもあるでしょう。それは、けっして、自分の意志や力だけでそうなったのではなく、神様の力が働いておられるからです。それと共に、私たちの内なる人も強められていていることに気づいてほしいと思います。それこそが、御霊のみわざ、御霊の力なのです。私たちの内なる人を強くすることこそが、神様の重要な働きであるのです。「内なる人を強くしてください!」というパウロの祈りは、今も私たちの内で働いているのです。それではお祈りします。