平和の王がやって来る!

2022年4月10日主日礼拝「平和の王がやって来る!」

ヨハネ12:9~18 佐々木俊一牧師

■ウクライナが大変なことになっています。今はキエフではなく、キーウと呼び名が変わりましたが、そこから50キロメートル離れたところにあるブチャという町で、ロシア軍による大量虐殺、ジェノサイドがあったようです。ロシア軍がウクライナから撤退し、ウクライナに一日も早く平和が訪れ、人々に日常が戻るように祈りたいと思います。

 4月7日のニュースで言っていました。日本のロシア制裁への反発だと思いますが、ロシアのある国会議員が、ロシアには北海道に対する権利があるのだ、と発言したのです。それに対して、そのような発言に日本人は過剰反応しないように気をつけましょう、と言うコメントがありました。しかし、そのようなことについても、私たちは祈っておく必要があるのではないかと思います。新型コロナウィルスからロシア軍のウクライナ侵略、そこから起こりうる世界的な食糧価格の高騰や食糧不足などの問題についても、今すぐの事ではないにしても、私たちは祈り備えておく必要があると思います。それでは、今日の聖書箇所を見て行きましょう。

■9節~11節 「大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。」とあります。この時、イエス様はどこにおられたのでしょうか。また、それは、いつのことなのでしょうか。12:1を見ると、その答えがわかります。見てみましょう。「イエスは過越しの祭りの6日前にベタニヤに来られた。」とあります。イエス様と弟子たちは、ベタニヤの親しくしていたマルタとマリヤの家で、安息日(土曜日)を過ごしていたと思われます。そして、そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたマルタとマリヤの兄、ラザロが一緒にいました。大ぜいのユダヤ人がやって来た目的は、イエスだけではなくて、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもありました。このようなことを合わせて推測すると、ラザロがイエスによってよみがえった出来事と、イエスが十字架に架けられて死んで3日目によみがえった出来事とは、時間的にそんなに離れてはいないと考えられます。ラザロの復活は、イエス・キリストの復活のデモンストレーション、イエス・キリストの復活を予表するような出来事であったと言っても良いのではないでしょうか。

 祭司長たちは、機会を見てイエスを殺そうとしていましたが、それだけではなくて、ラザロをも殺そうと計画していました。と言うのも、よみがえったラザロの出来事のために、もっと多くのユダヤ人たちがユダヤ人指導者たちから離れてイエスの方に行ってしまったからです。

■12節~13節 「その翌日」とあるので、この日は日曜日です。棕櫚の主日、棕櫚の日曜日、パームサンデーと言われている日です。イエスが復活したのは日曜日ですので、その前の日曜日のことです。この時には、すでに多くのユダヤ人が過越しの祭りに参加するためにエルサレムに滞在していました。彼らはエルサレムにイエスが来られると聞いたので、出迎えるために棕櫚の枝(葉っぱ)を取って集まってきました。そして、こう叫んだのです。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」このところは、詩篇118:25~27の引用です。預言者としてのダビデのことばが成就(実現)したのです。

■14節~16節 ここでは、「イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。」と書かれています。この出来事は4つの福音書すべてに書かれていて、他の3福音書(共観福音書)ではヨハネの福音書よりも、少し具体的に書かれています。イエスが弟子に指示を与え、そのとおりのことが起こり、ろばの子を見つけた後に、指示されたとおりに対応したところ、イエスが言われたとおりに子ろばをイエスのもとに連れてくることが出来た、と言うお話について具体的に書かれてあります。ヨハネの福音書ではイエスがろばの子を見つけたことになっていますが、他の3福音書では、ろばの子を見つけたのは弟子たちです。しかし、それはイエスが言われたことに従った結果のことですから、もとはと言えば、弟子たちが見つける前からイエスはその子ろばを見つけていた、と言えるでしょう。弟子たちにとって、この出来事もまた、本当に不思議な出来事であったと思います。この時は、何もわからずにただイエスの言われるとおりに行動しただけでした。しかし、後になって、その事が、旧約聖書で預言されていた事であったことに気づかされるのです。そして、彼らは、イエスが確かに旧約聖書で預言されていた救い主なるお方であることを、悟ることが出来たのです。

 15節にあることばは、ゼカリヤ9:9からの引用です。少し表現が違いますが、内容的には同じです。それでは、ゼカリヤ9:9を見てみましょう。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」シオンの娘も、エルサレムの娘も、アブラハムの子孫のことであり、イスラエルの民のことです。彼らのところに彼らの王なるお方が来られると言うのです。そのお方は、正しいお方であり、救いを与えるお方であり、柔和なお方であると言っています。へりくだったお方ゆえに、地上の王が乗るような立派な馬に乗って来られるのではなくて、馬に比べると貧相なろば、それも子ろばに乗って来られると言うのです。ふつうならあり得ない話なのです。しかし、王であり救い主なるお方は、そのようにして来られるのです。それが、イスラエルの王であり、救い主であるお方のしるしなのです。そして、ゼカリヤ9:10を見ると、その方だけが、エルサレムからもすべての国々からもすべての戦いを断ち、平和をもたらすことのできるお方であることが書かれています。立派な軍馬ではなくて、ろば、それも、子ろばに乗って来られる王様ですから、その方のイメージは、高ぶることのない、へりくだった、平和の王様です。

■ゼカリヤによって語られたこの預言は、今からおよそ2500年前、イエス・キリストがこの地上にお生まれになる500年くらい前に語られました。BC586年のバビロン捕囚の後、バビロンはペルシャ王クロスによって征服され、ペルシャ王クロスの命令で捕囚されていたユダヤ人の一部がカナンの地に戻ってエルサレムの町と神殿の再建をすることになりました。エズラ記5:1を読むと、この時に、預言書を残した預言者ゼカリヤとハガイも一緒に加わって神殿とエルサレムの再建に協力していたことがわかります。その箇所を読んでみましょう。「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、二人の預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らと共におられるイスラエルの神の名によって預言した。そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らと一緒にいて、彼らを助けた。」

 実は、ペルシャのクロス王によって一度はエルサレムの町や神殿の再建に取り掛かったのですが、邪魔が入ってその工事が中止になってしまいました。それについては、エズラ4:24に書かれています。ペルシャ王ダリヨス王の第2年まで中止させられていたことが書かれています。再建を中止させられている中で、神様は預言者ゼカリヤとハガイを用いて人々を励ましました。その預言の書がハガイ書やゼカリヤ書です。ゼカリヤ書はこのように始まっています。「ダリヨスの第2年の第8の月に、イドの子べレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のように主のことばがあった。」ゼカリヤはエルサレムの町の城壁と神殿の再建のために、時には戒めのことばによって、時には励ましのことばによって、ユダヤの人々を導きました。その後、ペルシャのダリヨス王の命令によって、前の王によって中止させられていた工事がダリヨス王の第2年に再開されました。そして、その第6年に神殿がついに完成したのです。

 ゼカリヤ書を読んで気づかされることがあります。それは、その預言がこの時代、エルサレムの町と神殿の再建のためのみに語られたのではなく、もっと先の未来に起こる出来事のためにも語られたのだ、と言うことです。そのような預言のことばがゼカリヤ書のあちこちに見られるのです。その一つが、ゼカリヤ9:9に書かれていたキリスト・イエスのエルサレム入場の時の預言です。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」これは、今からおよそ2000年前に成就しました。そして、ゼカリヤ書には他にもまだ成就していない預言が多くあるのです。

 イエスがまだこの地上におられた時には、弟子たちは、イエスの言われたことや行なわれたことが理解できないでいました。けれども、過越しの祭りの時に合わせてイエスが十字架に架けられて死に、三日目の日曜日に復活し、その後、ご自身が再びこの地上に戻って来られることを言い残して天に戻られ、また、その後、イエスが言われたとおりに聖霊が注がれました。それからです。弟子たちはイエスが言われたことや行なわれたことを理解し、旧約聖書に書かれ、そして、イエスが語っていたことを思い起こして、一つ一つの事が関連性をもってつながり、イエスが救い主であることを彼らは悟ったのです。

■イエスが十字架に架けられ、死んで三日目によみがえられた日曜日のその前の日曜日に、イエスはエルサレムに入場されました。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」とゼカリヤが預言したように、イエス・キリストは子ろばに乗り、大ぜいの人々が自分たちの上着や棕櫚の葉っぱを道に敷いて出迎えました。しかし、イエス・キリストが捕らえられて十字架に架けられた時には、人々の熱い期待と思いはすっかり冷めていました。なぜならば、イエスが彼らの望む王としてふさわしくなかったからです。彼らの望む王様は、ローマ帝国を倒し、彼らのためにイスラエルの国を再建してくれる強い王様でした。彼らは単にこの地上の平和と繁栄だけを実現してくれる王様が欲しかったのです。それさえあれば、神は必要ないのです。

 キリスト・イエスは再び戻って来られます。ユダヤ人のためにだけではありません。世界中の人々のためにです。そのために、平和の王が来られるのです。地上の平和のためだけではありません。永遠の平和のためにです。そこが地であろうと天であろうと、高ぶることのない、柔和で正しいお方、平和の王なるイエス・キリストが治めるところなのです。そして、そこは、王なるイエス・キリストを歓迎し、真の神と和解した人々が、神の家族として永遠に住む場所なのです。それではお祈りします。