明かされたミステリー(奥義)

2022年3月27日主日礼拝「明かされたミステリー(奥義)」エペソ2:19~3:6 佐々木俊一牧師

■エペソ人への手紙の前回の学びの中で、ユダヤ人と異邦人はキリストにあって一つになり、同じ国民、神の家族となるように導かれているのだ、と言うことをお話ししました。

 ところで、ユダヤ人とは誰なのか、ユダヤ人の定義について調べてみました。聖書的に言うならば、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫がユダヤ人です。現在も、基本的にそれは変わらないと思います。それに加えて、現代の定義についてお話ししたいと思います。イスラエル国内と国外では定義の仕方が異なっているようです。イスラエル国内においては、ユダヤ人の母から生まれた者、あるいは、ユダヤ教に改宗した者をユダヤ人としているようです。それに対して、欧米などでは、母だけに限らず、父がユダヤ人の場合もユダヤ人と見なしているようです。また、ユダヤ教の信者でなくても、無神論者であっても、クリスチャンであっても、ユダヤ教の家系であればすべてユダヤ人と見なしているようです。

 イエス・キリストを救い主として信じているユダヤ人以外のユダヤ人にとって、ユダヤ人と異邦人はキリストにあって一つであり、同じ国民、神の家族なのだ、と言うことは、たぶん、受け入れるのは難しい事であると思います。

■今日読んでいただいた、エペソ2:19~3:6の中に、「奥義」ということばが4回出てきました。今日は、「明かされたミステリー(奥義)」と言うタイトルで、3:5と6に書かれている内容を中心にお話しをしたいと思います。この神の奥義は、神の民と言われているイスラエルの民、ユダヤ人の歴史、人物、出来事、そして、預言をとおして示され、伝えられて来ました。その後、その奥義はイエス・キリストによって成就し、新約聖書の中に明かされた奥義としてパウロを初め、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちによって、全世界に向けて発信され始めました。

 5節に、「前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした」、とあります。前の時代とは、旧約時代のことです。今と言うのは、パウロが宣教していた時代のことです。つまり、旧約時代には、この奥義はパウロが知らされていたようには知らされていなかったということです。それでは、パウロは啓示によってどのように知らされていたのでしょうか。それについては、6節に書かれています。「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束に預かる者となるということです。」旧約時代においては、ここまではっきりと語られてはいませんでした。影のようにぼんやりとは語られていたのですが、明確には語られていなかったのです。それでは、実際に旧約聖書ではどのように語られていたのかを見てみましょう。

■出エジプト12:48~49 「もし、あなたのところに異国人が在留していて、主に過越しのいけにえをささげようとしているなら、彼の家の男子はみな割礼を受けなければならない。そうしてから、その者は、近づいてささげることができる。彼はこの国に生まれた者と同じになる。しかし、無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない。このおしえは、この国に生まれた者にも、あなたがたの中にいる在留異国人にも同じである。」

 この箇所から言えることは、過越しの祭りなどの例祭に、ユダヤ人に限らず在留異国人も参加できると言うことです。しかしそれには、条件があります。男子はみな割礼を受ける、と言うことです。つまり、神様との間に契約を結ぶ、と言うことなのです。契約を結ぶならば、在留異国人であっても、ささげものをすることもできるし、それらを食べることも出来るのです。それは、神様に近づき、神様と交わり、神様からの祝福を受けることが出来ることを意味します。それでは、次のみことばを見てみましょう。

■レビ19:33~34 「もしあなたがたの国に、あなたがたと一緒に在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。あなたがたと一緒の在留異国人は、あなたがたにとって、あなた方の国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、主である。」

 ここでは、在留異国人をあなた自身のように愛しなさい、つまり、あなたたちユダヤ人と同じように、仲間として受け入れるように言っているのです。では、次のみことばです。

■エゼキエル47:22~23 「あなたがたと、あなたがたの間で子を生んだ、あなたがたの間の在留異国人とは、この地を自分たちの相続地として、くじで割り当てなければならない。あなたがたは、彼らをイスラエルのうちに生まれた者と同じように扱わなければならない。彼らはイスラエルの部族の中にあって、あなた方と一緒に、くじで相続地の割り当てを受けなければならない。在留異国人には、その在留している部族の中で、その相続地を与えなければならない。神である主の御告げ。」

 ここでは、在留異国人にも相続地の権利をユダヤ人と同じように与えなさい、と言っています。

律法と言われているモーセ五書の中でさえ、このように言われているのです。ユダヤ人でない人々、在留異国人たちも神様と契約を交わし、神様に近づくことが出来るのです。在留異国人たちもユダヤ人と同じように、神の民の仲間として受け入れられるのです。在留異国人たちも同等に、神様からの相続地を与えられるのです。律法の中にそう書かれているのです。しかし、それには条件があります。それは割礼を受けることです。その条件は、ユダヤ人も在留異国人も同じです。割礼を受ける必要があるのです。

■ここで、一つの問題が発生しました。その問題とは、使徒の働き15章に書かれていることです。異邦人もまた、ユダヤ人と同様に割礼を受けなければキリストの救いを受けることが出来ない、と主張するユダヤ人たちがいたのです。それについては、エルサレムに使徒と指導者たちが集まり話し合われました。これがエルサレム会議と言われているものです。パウロとペテロは、割礼を受けていない異邦人たちが、福音を聞いて次から次へとキリストの救いを受けている現状を目撃していました。キリストの救いを受けた異邦人たちは明らかに聖霊を受けていたのです。その状況を聞いた指導者の一人であるヤコブ(たぶん、イエス・キリストの兄弟であるヤコブ)が、預言書アモス9:11~12のことばをもって、どう対処すべきなのかを語りました。その箇所はこのように言っています。「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、私の名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。」アモス9:11~12に書かれていることです。

 ダビデの幕屋での礼拝はモーセの幕屋での礼拝とは異なっていました。モーセの幕屋では律法に従って動物のいけにえがささげられていました。それに対して、ダビデの幕屋では、律法には縛られず、規格外のいけにえがささげられていました。規格外のささげものとは、楽器を奏で、歌を歌い、賛美と祈りを神にささげていたのです。これがダビデの幕屋でのささげものです。そして、このダビデの礼拝が新約時代の礼拝のスタイルとなっていったのです。ダビデの幕屋とは、律法からの自由と教会を表しているものです。そして、教会は、異邦人たちが主を求め、主を知るようになること、そのことを使命として与えられているのです。

結果的に、この会議においては、異邦人たちには割礼を求めないことになりました。

つまり、イエス・キリストを信じる信仰によってキリストの救いを受けるということが、教理として確立して行ったわけです。

 それでは、次に割礼についてもう少し掘り下げてみたいと思います。

■ローマ2:28~29を見てみましょう。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉は、人からではなく、神から来るものです。」

 このところで、パウロは、ユダヤ人やユダヤ人への神の約束を否定しているのではないことを理解してほしいと思います。ただ、割礼の意味することや本当の割礼についてわかってもらうために、このような言い方をしているのです。割礼の重要な点は、神様と契約したことのしるしである、と言うことです。割礼は、ユダヤ人に与えられた契約のしるしであって、それには、さらに霊的な意味がありました。それが、御霊による心の割礼です。ユダヤ人が受けた肉における割礼は、この御霊による心の割礼をあらかじめ表しているものであって、御霊による心の割礼こそが本物の割礼なのです。

■エゼキエル36:26を見てみましょう。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」

 ここで言う、新しい霊とは聖霊のことです。私たちがイエス・キリストを救い主として信じる時、聖霊が私たちの内に与えられます。それが、心の割礼であり、それこそが本当の割礼、神様と契約を交わしたことのしるしなのです。

■パウロが受けた神様からの啓示が正しいかどうかは、旧約聖書のことばによって裏付けることが出来ます。異邦人がユダヤ人と同じように肉の割礼を受けなくても、ただ、イエス・キリストを救い主として信じるだけで救われるのだ、と言うことが旧約聖書のことばによって裏付けられています。また、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となると言うことも、旧約聖書のことばによって裏付けられているのです。

 旧約聖書のことばだけの段階では、まだはっきりと何のことを言っているのかわかりませんでした。けれども、事が実際に起こり、成就し、さらなる啓示を受けた時に、そのことが本当に正しいのかどうかを知るために、私たちは旧約聖書のことばによってその裏付けを得ることができます。正しいのであれば、それを裏付けることばが必ず聖書の中にあるはずです。もしも見当たらなければ、完全に否定することはできませんが、はっきりしないことはグレーゾーンの中にとどめておくべきでしょう。

 救い主なるお方はユダヤ人のためだけではなくて、異邦人のため、すべての人類のためでもあることが旧約聖書のことばによって裏付けされていることがわかりました。けっして、新約聖書に初めて表されたことではないのです。そのことは、神様が最初から計画していたことであったのです。旧約聖書のことばがそう言っているのです。

 今日は、エペソ3:5~6を中心にお話しました。次回は、神の教会について、エペソ2:20~22と3:10にあるみことばをとおしてお話したいと思っています。それではお祈りします。